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第8章 ―― 初春の気配、かすかな光 ――

 雪音のアパートの前に着いた時、

 奏の息は荒れ、視界は滲んでいた。


 階段を駆け上がり、震える指でインターホンを押す。

 返事はない。


「雪音!!」


 ドアを叩いたその瞬間――

 廊下の奥から慌ただしい人の声がした。


「救急車の方ですか!? こっちです!」


 隣室の住人らしき女性が救急隊員を案内している。


 奏は力が抜け、壁に手をついた。


 ――間に合ったのか。


 救急隊員が雪音を担架に乗せ、走り出す。

 奏は名前を叫んだが、雪音の目は閉じたままだった。


 音が消えた。

 世界は遠く、冷たく、痛みに満ちていた。


 *


 病院。

 消毒液の匂いと薄暗い照明。


 白いシーツ、静かなモニター音、

 そしてガラス越しに見える雪音の小さな身体。


 家族と思われる人物がいるかと問われ、

 奏は正直に首を振った。


「ご友人ですね?」

「はい……」


 医師は穏やかながら、深刻な声で告げた。


「心臓の疾患です。今は安定していますが、

 近い将来、再び発作が起こる可能性があります。

 おそらく、ご本人もだいぶ前から自覚していたはずです」


「……そんな……」


「ただ、いま命に危険はありません。

 意識もじきに戻るでしょう」


 奏はその言葉に少しだけ息を吐いた。


 けれど胸に刺さった棘は抜けない。


 “雪音は、ひとりでこの恐怖を抱えていたのか”


 その事実だけで、膝が砕けそうだった。


 *


 夜が深まったころ――

 病室で小さな声がした。


「……奏くん?」


 雪音が目を開けていた。

 薄い光の中、弱々しく微笑む。


「よかった……無事で……」


「雪音……!」


 泣きそうな声で名を呼ぶと、

 雪音はうっすらと笑った。


「泣かないで……奏くん。

 私、生きてるよ。ちゃんと」


「……怖かったんだ。

 電話が切れて……倒れた音がして……

 雪音がいなくなるんじゃないかって」


「ごめんね。

 奏くんを怖がらせたくなかったのに……

 逆のこと、全部しちゃったね」


 涙で視界が滲む。


「なんで……一人で抱えてたんだよ」

「言ったらさ……奏くん、優しいから……

 私を大切にしすぎて、自分のことまで見えなくなっちゃうでしょ?」


 雪音は胸に手を置き、小さく息を吸った。


「好きなんだよ、奏くんの優しさ。

 だから……壊したくなかったの」


「壊れるもんかよ。

 雪音のことが……好きなんだ」


 雪音は目を丸くし、そして唇を震わせた。


「……わたしも好きだよ、奏くん」


 声はかすれていたが、確かに届いた。


 *


 少しして、看護師が姿を見せた。


「今日は安静にしてくださいね」

「すみません……奏くん、もう帰らないとダメだよね?」


「面会時間は過ぎてますが……少しなら」


 看護師が部屋を出ると、雪音は奏の手を握った。


「ねぇ奏くん。

 私ね……言わなきゃいけないこと、まだ全部言ってない」


「全部じゃなくていい。少しずつでいいよ」


 雪音は、首を振る。


「ううん、言うから。

 少なくても、怖くても……隠すのはやめる」


 雪音は天井を見つめながら、ゆっくりと言った。


「実はね。病気のこと、ずっと軽いと思ってたの。

 けど……最近、医者に言われたの」


 声が弱くなる。


「“春までもつかどうかは、まだわからない”って」


 奏の喉がつまった。


「そんな……そんなの、嘘だ」

「嘘じゃないよ。でも……大丈夫」

「何が大丈夫なんだよ!」

「奏くん。顔、怒ってる」

「怒ってるよ……当たり前だ。

 なんでそんな言い方できるんだよ……!」


 雪音は微笑んだ。


「だってね……怖いけど、怖がってる時間がもったいないから。

 春までに、やりたいことがあるんだもん」


「やりたいこと?」


「うん。この前言ったよね?

 “春までに奏くんとしたいことがある”って」


 雪音の目には、もう涙はなかった。

 恐怖と痛みを押し込め、その奥に別の光を宿していた。


「ねぇ奏くん。聞いてくれる?」


「もちろん」


「私の曲……最後まで一緒に作りたい。

 そして……奏くんに、完成させてほしい」


 雪音の声は震えていたが、とても強かった。


「もし……私が歌えない日が来ても、

 奏くんの声で続きを歌ってほしいの。

 私の欠けた部分を……奏くんの音で埋めてほしい」


「そんな日、来なくていい……」

「来るかもしれないの。

 だから、“不安”じゃなくて、“望み”を持たせて?」


 雪音は、初春の気配のような優しい目で言った。


「奏くんの声で……私、まだ春を見られる気がするの」


 その言葉が、深く胸を刺した。

 痛いほど、切ないほど、優しかった。


「わかった。必ず歌うよ。

 雪音が望む限り、何度でも」


 雪音は安堵したように微笑む。


「ありがとう。……ほんとにありがとう」


 小さな手が奏の指を強く握った。


 その力が、命の証のようで、奏は手を離せなかった。


 *


 夜更け。

 雪音が眠りについた後も、奏はベッドの横に座っていた。


 窓の外には、冬の月が輝いていた。


 ――春まで、時間はどれだけ残されているのか。


 わからない。

 誰にもわからない。


 だけど奏は思った。


「雪音を、ひとりにしない。

 どんな春でも、一緒に迎える」


 その誓いは静かで、強く、揺るぎないものだった。


 雪音の呼吸は穏やかで、時折小さな寝息が混じる。

 その音だけが、奏にとっての救いだった。


 夜が深くなるほど、

 その寝息は小さな“希望”になっていった。


 まだ、終わりじゃない。

 まだ、物語は続いている。


 ――初春は、きっと来る。


 そのかすかな、かすかな温かさだけを抱えながら、

 奏は雪音の手をそっと握り続けた。

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