第7章 ―― ふたりの冬至 ――
翌日の午後。
空は抜けるように青く、昨日の初雪を溶かす光が街を照らしていた。
奏は、雪音のアパートの前に立っていた。
古い二階建ての建物。その二階の端の部屋――
雪音の部屋には、いつも白いカーテンが優しく揺れていた。
インターホンを押すと、少ししてドアが開いた。
「奏くん。来てくれて、ありがとう」
雪音は笑っていた。
昨日より顔色はましだったが、それでも目の下に薄い影が残っている。
「調子、どうだ?」
「うん。大丈夫。……今日はね、行きたい場所があるの」
そう言って、雪音はマフラーを首に巻いた。
その仕草がどこかぎこちないのに、奏は気づいた。
「どこに行くんだ?」
「内緒。ついてきてくれたらわかるよ」
雪音はそう言って、階段をゆっくりと降り始めた。
そのスピードが、いつもより少し遅い。
奏は何も言わず横に歩く。
雪音の息が浅く、時折かすかに肩が上下するのを見て、
心の奥が重く沈んだ。
*
歩いてたどり着いたのは、住宅街を抜けた先。
冬の陽が射し込む小さな丘だった。
丘の上にはベンチがひとつ。
そこに座ると、街が一望できた。
「ここ、好きなんだ」
雪音は言いながら、ゆっくり腰を下ろした。
「前にも来たのか?」
「うん。子どもの頃ね。
私ね、耳が弱かった時期があって……
病院の帰りに、よく母がここに連れてきてくれたの」
雪音は遠くの景色を眺めていた。
冬の街が小さく揺れ、風が雪を運んでくる。
「風が通る音とか、遠くの車の音とか……
ここに座ってると、全部まるくなって聴こえるの。
怖い音がひとつもないの」
「……それで、来たかったんだな」
「うん。でも、それが全部じゃないよ」
雪音は奏の方を向いた。
「奏くんに、見せたい景色があったの。
すごく綺麗で、すごく儚い冬だけの景色」
視線を空へ戻す。
透き通るような声で、雪音が囁く。
「冬至の光だよ」
陽が低く沈み始め、街に長い影が伸びていく。
すべての色が淡くなり、街全体が淡い金色に染まっていった。
雪音の横顔も、その光に照らされて淡く輝いていた。
「綺麗だろ?」
「うん……すごい」
奏は素直に言った。
ただ――綺麗だと思うほど、胸が締めつけられた。
雪音は声を少しだけ落として呟いた。
「もし……もしね。
私がいなくても、この景色を見ててほしいの」
「……いなくなる?」
「ううん、そういう意味じゃなくて。
不安にならないでね。違うの。
ただ……私がここを好きだってことを、覚えててほしいの」
奏は雪音の手を握った。
「雪音。何を隠してるんだ?
もう、言ってほしい。俺は聞くよ」
雪音はゆっくり首を振った。
「ごめん……まだ言えないの。
でも、もうすぐ言うから。
その前に――どうしても、奏くんとしたいことがあるの」
その言い方は、まるで“終わりを意識している”ようで、
奏は言葉を失った。
*
「ねぇ奏くん、ギター持ってきた?」
「ああ、持ってきたよ」
奏は背負っていたギターケースを横に置いた。
雪音の指示で始めた練習は、もう二週間になる。
「聴かせて。昨日言ってた曲……弾けたんだよね?」
「うん。まだぎこちないけど」
「ぎこちなくていいよ。
奏くんが弾く音なら、それだけで嬉しいから」
雪音はベンチで肩を寄せて聴く姿勢になった。
奏はギターを抱え、深呼吸し、指を弦に置く。
空気が変わる。
冬の光、静かな丘、隣にいる雪音――
すべてが一つの“舞台”になった。
奏は弾き始めた。
雪音が教えてくれた“夜風に似たアルペジオ”。
ぎこちなく、それでも真っ直ぐに弦をはじく。
雪音は目を閉じ、微笑んでいた。
「……うん。奏くんの音だ」
「下手だろ?」
「ううん。優しいよ。
歌みたいに優しくて……どこか寂しい」
雪音の声が震えかけているのを奏は感じた。
「雪音も……歌えばいいのに」
「今日の声は、だめ。
声を出すと、胸が痛くなるの」
その言葉に、奏の心臓が沈む。
「ねぇ奏くん。
弾き続けて……最後まで聴かせて」
奏は頷き、最後のコードまで弾き切った。
弾き終わると、雪音は静かに拍手した。
だけど、頬は濡れていた。
「雪音……泣いてるの?」
「ちがう……ちがうよ。
風が……冷たいから」
風は強くなかった。
でも奏はそれを指摘しなかった。
「ねぇ奏くん。約束して」
「……何を?」
「この曲、完成させて。
春が来る前に……必ず」
「わかった。でもそれは……雪音と一緒に」
「……うん。そうだね」
“そうだね”の後の沈黙が、刺さるように痛かった。
*
その帰り道、雪音の歩みはさらに遅くなった。
階段の下りでは奏が自然と手を貸した。
「ごめんね……ほんとは自分でできるのに」
「いいんだよ」
「奏くんは、ほんとに優しい。
ねぇ、私ね。奏くんがそばにいると……ずっとここにいたくなる」
「だったら……いればいいだろ」
「……うん。でもね、ずっとって言うのは……わがままだから」
わがままなんかじゃない。
そう言い返したいのに、言葉が喉に引っかかった。
雪音は無理に笑いながら言った。
「今夜ね、話したいことがあるの。
きっと……ちゃんと言える気がするの」
「話したいこと?」
「うん。ずっと隠してたこと。
本当は……もっと早く言うべきだったこと」
奏の胸が、不穏な音を立てた。
「今夜……電話、してもいい?」
「もちろん」
「ありがとう。
奏くんの声が聴けたら……きっと言える」
それは“最期の言葉”みたいに聞こえた。
*
夜。
奏は自分の部屋で、何度も時計を見た。
雪音からの電話は来ない。
二十一時。
二十二時。
二十三時。
指が震える。
――着信音が鳴った。
「雪音!?」
『……奏くん』
雪音の声は、ひどく弱かった。
『ごめんね。……遅くなって』
「どうしたんだ?」
『ねぇ……奏くん。
今日、すごく楽しかった。丘の上……綺麗だったね』
「雪音、何があったんだよ。声……おかしいぞ」
『ううん。大丈夫。大丈夫だよ』
その“大丈夫”は嘘だった。
『……ねぇ奏くん。
言わなきゃいけないこと、あるんだ』
「言ってくれ」
数秒の沈黙。
雪音の荒い呼吸が聞こえる。
『奏くん……ごめんね。
本当はもう、時間が……あまりないの』
その言葉で、世界が音を失った。
『胸の病気なの。
進行してて……手術も、難しくて』
「……嘘だ」
『嘘じゃないよ。
ずっと隠してて、ごめんね』
「なんで言わなかったんだよ……!」
『言ったらね……奏くんの顔が、曇るでしょ。
あれを見るのが……一番つらかったの』
涙が頬を伝う。
『奏くんがいてくれたから……
歌える日も、笑える日もあったの』
雪音は泣いていた。
『ありがとう……奏くん』
『私、ね。奏くんと会えて、本当に……よかった』
「雪音!?」
『ごめん……もう、胸が……苦しくて』
「雪音、どこにいる!? 今どこなんだ!!?」
『……部屋に……いるよ……』
その瞬間、電話の向こうで何かが倒れる音がした。
「雪音!!」
叫んだ時には、奏はもう外に飛び出していた。
雪の予報はなかったはずなのに――
空から静かに、白い粒が舞い始めていた。




