表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/15

第7章 ―― ふたりの冬至 ――

 翌日の午後。

 空は抜けるように青く、昨日の初雪を溶かす光が街を照らしていた。


 奏は、雪音のアパートの前に立っていた。

 古い二階建ての建物。その二階の端の部屋――

 雪音の部屋には、いつも白いカーテンが優しく揺れていた。


 インターホンを押すと、少ししてドアが開いた。


「奏くん。来てくれて、ありがとう」


 雪音は笑っていた。

 昨日より顔色はましだったが、それでも目の下に薄い影が残っている。


「調子、どうだ?」

「うん。大丈夫。……今日はね、行きたい場所があるの」


 そう言って、雪音はマフラーを首に巻いた。

 その仕草がどこかぎこちないのに、奏は気づいた。


「どこに行くんだ?」

「内緒。ついてきてくれたらわかるよ」


 雪音はそう言って、階段をゆっくりと降り始めた。


 そのスピードが、いつもより少し遅い。


 奏は何も言わず横に歩く。

 雪音の息が浅く、時折かすかに肩が上下するのを見て、

 心の奥が重く沈んだ。


 *


 歩いてたどり着いたのは、住宅街を抜けた先。

 冬の陽が射し込む小さな丘だった。


 丘の上にはベンチがひとつ。

 そこに座ると、街が一望できた。


「ここ、好きなんだ」


 雪音は言いながら、ゆっくり腰を下ろした。


「前にも来たのか?」

「うん。子どもの頃ね。

 私ね、耳が弱かった時期があって……

 病院の帰りに、よく母がここに連れてきてくれたの」


 雪音は遠くの景色を眺めていた。

 冬の街が小さく揺れ、風が雪を運んでくる。


「風が通る音とか、遠くの車の音とか……

 ここに座ってると、全部まるくなって聴こえるの。

 怖い音がひとつもないの」


「……それで、来たかったんだな」


「うん。でも、それが全部じゃないよ」


 雪音は奏の方を向いた。


「奏くんに、見せたい景色があったの。

 すごく綺麗で、すごく儚い冬だけの景色」


 視線を空へ戻す。

 透き通るような声で、雪音が囁く。


「冬至の光だよ」


 陽が低く沈み始め、街に長い影が伸びていく。

 すべての色が淡くなり、街全体が淡い金色に染まっていった。


 雪音の横顔も、その光に照らされて淡く輝いていた。


「綺麗だろ?」

「うん……すごい」


 奏は素直に言った。

 ただ――綺麗だと思うほど、胸が締めつけられた。


 雪音は声を少しだけ落として呟いた。


「もし……もしね。

 私がいなくても、この景色を見ててほしいの」

「……いなくなる?」

「ううん、そういう意味じゃなくて。

 不安にならないでね。違うの。

 ただ……私がここを好きだってことを、覚えててほしいの」


 奏は雪音の手を握った。


「雪音。何を隠してるんだ?

 もう、言ってほしい。俺は聞くよ」


 雪音はゆっくり首を振った。


「ごめん……まだ言えないの。

 でも、もうすぐ言うから。

 その前に――どうしても、奏くんとしたいことがあるの」


 その言い方は、まるで“終わりを意識している”ようで、

 奏は言葉を失った。


 *


「ねぇ奏くん、ギター持ってきた?」


「ああ、持ってきたよ」


 奏は背負っていたギターケースを横に置いた。

 雪音の指示で始めた練習は、もう二週間になる。


「聴かせて。昨日言ってた曲……弾けたんだよね?」


「うん。まだぎこちないけど」


「ぎこちなくていいよ。

 奏くんが弾く音なら、それだけで嬉しいから」


 雪音はベンチで肩を寄せて聴く姿勢になった。

 奏はギターを抱え、深呼吸し、指を弦に置く。


 空気が変わる。

 冬の光、静かな丘、隣にいる雪音――

 すべてが一つの“舞台”になった。


 奏は弾き始めた。


 雪音が教えてくれた“夜風に似たアルペジオ”。

 ぎこちなく、それでも真っ直ぐに弦をはじく。


 雪音は目を閉じ、微笑んでいた。


「……うん。奏くんの音だ」


「下手だろ?」


「ううん。優しいよ。

 歌みたいに優しくて……どこか寂しい」


 雪音の声が震えかけているのを奏は感じた。


「雪音も……歌えばいいのに」

「今日の声は、だめ。

 声を出すと、胸が痛くなるの」


 その言葉に、奏の心臓が沈む。


「ねぇ奏くん。

 弾き続けて……最後まで聴かせて」


 奏は頷き、最後のコードまで弾き切った。


 弾き終わると、雪音は静かに拍手した。

 だけど、頬は濡れていた。


「雪音……泣いてるの?」


「ちがう……ちがうよ。

 風が……冷たいから」


 風は強くなかった。

 でも奏はそれを指摘しなかった。


「ねぇ奏くん。約束して」

「……何を?」

「この曲、完成させて。

 春が来る前に……必ず」


「わかった。でもそれは……雪音と一緒に」

「……うん。そうだね」


 “そうだね”の後の沈黙が、刺さるように痛かった。


 *


 その帰り道、雪音の歩みはさらに遅くなった。

 階段の下りでは奏が自然と手を貸した。


「ごめんね……ほんとは自分でできるのに」

「いいんだよ」

「奏くんは、ほんとに優しい。

 ねぇ、私ね。奏くんがそばにいると……ずっとここにいたくなる」


「だったら……いればいいだろ」

「……うん。でもね、ずっとって言うのは……わがままだから」


 わがままなんかじゃない。

 そう言い返したいのに、言葉が喉に引っかかった。


 雪音は無理に笑いながら言った。


「今夜ね、話したいことがあるの。

 きっと……ちゃんと言える気がするの」


「話したいこと?」


「うん。ずっと隠してたこと。

 本当は……もっと早く言うべきだったこと」


 奏の胸が、不穏な音を立てた。


「今夜……電話、してもいい?」

「もちろん」

「ありがとう。

 奏くんの声が聴けたら……きっと言える」


 それは“最期の言葉”みたいに聞こえた。


 *


 夜。

 奏は自分の部屋で、何度も時計を見た。


 雪音からの電話は来ない。


 二十一時。

 二十二時。

 二十三時。


 指が震える。


 ――着信音が鳴った。


「雪音!?」


『……奏くん』


 雪音の声は、ひどく弱かった。


『ごめんね。……遅くなって』


「どうしたんだ?」


『ねぇ……奏くん。

 今日、すごく楽しかった。丘の上……綺麗だったね』


「雪音、何があったんだよ。声……おかしいぞ」

『ううん。大丈夫。大丈夫だよ』


 その“大丈夫”は嘘だった。


『……ねぇ奏くん。

 言わなきゃいけないこと、あるんだ』


「言ってくれ」


 数秒の沈黙。

 雪音の荒い呼吸が聞こえる。


『奏くん……ごめんね。

 本当はもう、時間が……あまりないの』


 その言葉で、世界が音を失った。


『胸の病気なの。

 進行してて……手術も、難しくて』

「……嘘だ」

『嘘じゃないよ。

 ずっと隠してて、ごめんね』


「なんで言わなかったんだよ……!」

『言ったらね……奏くんの顔が、曇るでしょ。

 あれを見るのが……一番つらかったの』


 涙が頬を伝う。


『奏くんがいてくれたから……

 歌える日も、笑える日もあったの』


 雪音は泣いていた。


『ありがとう……奏くん』

『私、ね。奏くんと会えて、本当に……よかった』


「雪音!?」

『ごめん……もう、胸が……苦しくて』


「雪音、どこにいる!? 今どこなんだ!!?」

『……部屋に……いるよ……』


 その瞬間、電話の向こうで何かが倒れる音がした。


「雪音!!」


 叫んだ時には、奏はもう外に飛び出していた。


 雪の予報はなかったはずなのに――

 空から静かに、白い粒が舞い始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ