第6章 ―― 崩れ始める世界 ――
雪が降り始めた。
それは天気予報より少し早い初雪で、
街灯に照らされた白い粒は、静かに空から降りていた。
奏はマフラーを首に巻き直しながら、駅前のロータリーを横切った。
今日、雪音から来たメッセージは一通だけ。
――今日は会えるかどうか、わからない。
その一文が、胸に重く沈んでいた。
雪音らしくない。
あまりにも曖昧で、あまりにも弱い。
奏は橋の下へ向かって歩きながら、
雪音の言葉の端々に潜む“影”を思い返していた。
『もし私が……歌えなくなっても、そばにいてくれる?』
『春までに、やりたいことがたくさんあるの』
『会えるといいな』
澪が言っていた“時間”という言葉が頭をよぎる。
胸の奥のざわつきは、不安というより――恐怖に近かった。
*
橋の下に着くと、雪音はいた。
ギターケースを膝に抱え、雪の降る中じっと座っている。
「雪音!」
急いで駆け寄ると、雪音はゆっくり顔を上げた。
「あ……奏くん」
その声は掠れていた。
頬は寒さで赤くなり、指先はひどく冷たい。
「なんでこんなとこで待ってたんだよ」
「……奏くんが来るって思ったから」
雪音は弱く笑うが、その目の奥に力がない。
「無理するなよ。寒いだろ」
「うん。ちょっとね……寒い」
奏はマフラーを外し、雪音の首に巻いた。
「え、いいよ。奏くんが風邪ひく」
「俺は丈夫だから平気。ほら、もっと近くに」
雪音は少し驚いた顔をしたが、
ゆっくりと寄り添ってきた。
肩が触れ合う。
その瞬間――奏は気づいた。
雪音の身体が、思っていた以上に冷たい。
「……大丈夫か?」
「うん。平気。ちょっと疲れてるだけ」
その“平気”が嘘だと、もうわかってしまう。
雪音は膝の上のギターケースに目を落とし、そっと言った。
「ねぇ奏くん。今日は……歌えないや」
胸の奥が凍りついた。
雪音はギターを持たない日はほとんどない。
まして“歌えない”と言うなんて。
「……どうしたんだ」
「声がうまく出ないの。ねぇ、不思議でしょ。
喉じゃなくてね……胸が苦しくて、息が続かないの」
雪音の手が震えた。
奏はその手を包んだ。
「病院には……?」
「行ってるよ。ちゃんと。
でもね……今日はあんまり言われたくなかったの」
雪音は空を見た。
雪が舞うたび、まるで“消えていきそうに”見えた。
「『無理をしないでください』って言葉……嫌いなんだ。
だってそれって、できないことが増えるって意味だから」
その言葉が胸に刺さった。
「雪音……」
「奏くんは……言わないでくれる?
“無理するな”とか、そういうの」
雪音は苦しげに笑った。
「奏くんに言われると、なんか……泣きたくなるの」
その笑顔は、壊れそうだった。
奏は雪音を抱きしめた。
「泣いたっていいんだよ」
「……だめだよ。泣いたら、歌えなくなる」
「歌えない日があったっていい」
「奏くんは優しいね。
そんなふうに言われたら……余計に泣きたくなるよ」
雪音の声が震えた。
奏の胸元に、小さな熱が落ちる。
「雪音……何があったんだよ。
言ってくれよ。俺に隠さなくていいだろ?」
しばらく沈黙が続いた。
雪音は唇を噛み、目を閉じた。
「……奏くんに言ったら、終わっちゃう」
「終わる?」
「うん。私が……弱いって、ばれちゃうから」
「弱いなんて思わない」
「ううん。思わなくても……知ったら、奏くんはきっと変わる」
「俺は変わらない」
「変わるよ。絶対に」
雪音は奏の胸元をぎゅっと掴んだ。
「お願い……今は聞かないで。
奏くんが知ってしまったら、私……きっと、泣いちゃうから」
雪音の声は、壊れた風鈴のように震えていた。
奏はそれ以上言えなくなった。
理由がわからないまま、
雪音の“痛み”だけが伝わってくる。
しばらく抱きしめ合ったまま、二人は雪を見ていた。
言葉はなかった。
ただ互いの呼吸だけが、冬の空気に溶けていく。
*
「奏くん。明日……少しだけ時間くれる?」
「明日? もちろん」
「やりたいことがあるの。
春までに……どうしても一緒にしたいこと」
雪音は小さく笑った。
「ねぇ奏くん。
私が“明日も会いたい”って言ったら……迷惑?」
「迷惑なわけないだろ」
「そっか……よかった」
雪音は目を細め、安心したように息をついた。
「明日、迎えに行くから」
「うん。じゃあ、待ってるね」
雪音はゆっくり立ち上がった。
ギターケースを持つ動作が、いつもより時間がかかった。
「送ってくよ」
「ううん。ひとりで平気だよ」
「でも……」
「奏くん。今、抱きしめてくれたから……大丈夫」
雪音は小さな声でそう言い、
振り返らずに雪の中へ歩き出した。
白い息とともに、雪音の背中は遠ざかっていく。
その姿が、風の中で揺れ、かすんでいくように見えた。
奏は動けなかった。
雪音が消えてしまいそうで、追いかけたくて――
でも同時に、“決定的な何か”を聞くのが怖かった。
その夜、雪音から短いメッセージが届いた。
――今日は抱きしめてくれてありがとう。
ほんの少しだけ、生き返った気がしたよ。
その言葉を読んだ瞬間、
奏の胸の奥が静かに潰れた。
「……生き返った?」
雪音はどれほど深い闇の中で、
ひとり震えていたのだろう。
何も知らないまま、
自分はただ“隣にいる”ことで満足していた。
「……雪音」
その名を呼んだ時、
込み上げる不安は、もう抑えられなかった。
「頼む……明日も会わせてくれ」
その願いは祈りに近かった。
雪音がまた笑ってくれることを。
まだ間に合うことを。
時間が、まだ残っていることを。
冬の空は重く、雪は止む気配を見せなかった。




