表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/15

第5章 ―― 透明な第三者 ――

 年が明けて、大学はゆっくりと動き出した。

 キャンパスの空気はまだ冷たく、学生たちは皆、首をすぼめて歩いている。


 奏もその一人だった。

 冬休み中、雪音とはほとんど毎日のように会っていたが、

 年明けから、少し会う回数が減っていた。


「仕事がちょっと忙しくてね」

「大丈夫。無理するなよ」


 そう言ったのは奏の方なのに、

 胸のどこかがざわついて仕方がなかった。


 そんな日、講義室を出たところで声をかけられた。


「あなたが……奏くん?」


 振り向くと、黒髪の女性が立っていた。

 落ち着いた雰囲気で、背は小柄。

 しかし、眼差しには鋭い光がある。


「えっと……」

「ごめんなさい。いきなり声をかけて。

 私、白石澪しらいし・みお。雪音の……友達、みたいなもの」


 “みたいなもの”という言い方が妙に引っかかった。


「雪音の……?」

「うん。雪音から少しだけ、あなたのこと聞いてたから」


 澪は一歩近づき、奏をまっすぐ見つめた。

 その目には、感情を探るような静けさがあった。


「少し、時間もらえる?」


 強引な感じはない。

 けれど、拒むこともできなかった。


 *


 二人は大学の近くの小さな喫茶店に入った。

 外は風が強く、窓が震えるほどだったが、

 店内は柔らかなジャズが流れ、静かだった。


 コーヒーが運ばれ、澪はスプーンをゆっくり回しながら言った。


「奏くん。雪音と……どれくらい仲がいいの?」


「どれくらいって……」

 奏は言葉に詰まる。

 恋人ではない。

 友達よりはずっと近い。

 だけど、それをどう説明すればいいかわからなかった。


「雪音が、あなたの話をする時……すごく嬉しそうなんだよ」

「……そうなんですか?」

「うん。表情が違うの。

 誰かの名前を言うだけで、あんな顔するの初めて見た」


 澪の声は柔らかかったが、

 その奥に鋭い感情が混じっている気がした。


「奏くん。

 雪音が、最近……何か変だとは思わない?」


 その質問に、心臓が跳ねた。


「……気づいてたのか?」

「当たり前でしょ。あの子のこと、私、長いから」


 澪はカップを置き、少しだけ目を伏せた。


「昔からね、雪音って……全部一人で抱え込む子なの。

 辛い時ほど笑って、誰にも弱音を吐かない」


 その言葉に、雪音の近頃の微笑みを思い出し、胸が痛んだ。


「あなたの前でも、そうだと思うよ」

「……あいつ、何か隠してますか?」

「隠してるよ。大事なことをね」


 澪はそう言うと、ふっと遠くを見るような目をした。


「ねぇ奏くん。

 もしも、あの子が……“明日が今日と同じように来る保証がない”って言ったら、信じる?」


「……何の話ですか?」

「教えられない。私からは。

 でもね。あなたは知っておかないといけない」


 最初は敵意を持たれているのかと思った。

 でも、違う。

 澪の目は――まるで守ろうとしている誰かのように、真剣だった。


「雪音のそばにいてあげて。

 ずっとじゃなくていい。

 でも、あの子が悲しくて壊れそうな時……支えてあげられるのは、奏くんだけだから」


 澪の声は静かだったが、その静けさが逆に胸を締めつけた。


「待ってください。

 あなた、まるで……雪音が――」


 言いかけた瞬間、澪は首を横に振った。


「私が言っちゃうと、あの子はきっと怒る。

 だから言えない。

 でも……気づいてあげて」


 その言い方があまりに残酷で、優しさに満ちていた。


 奏は耐えきれず、テーブルに手を突いた。


「……雪音は、何に苦しんでるんですか」

「苦しんでるよ。ずっと。

 でもね――」


 澪はゆっくりと顔を上げ、穏やかに言った。


「あなたと出会って、その痛みが……少し薄くなったの」


 胸の奥が熱くなった。


「奏くん。

 雪音の音が誰よりも綺麗に響くのは、あなたがそばにいる時だけ。

 それ、本人は気づいてないだろうけど」


 その言葉は、慰めでも、恋の助言でもない。


 もっと深い、もっと切ない“事実”だった。


「私、雪音が幸せになるなら……別に、恋敵でもなんでもいいよ」

「……え?」

「うん。昔は、そう思ってなかったけどね」


 澪は微笑み、少しだけ肩をすくめた。


「雪音のこと、好きだよ。人としても、それ以上としても。

 でも……私じゃ救えないの。

 だから――」


 澪は奏を見据えた。


「あなたに託すしかないんだよ」


 その言葉は、静かで、重く、決して軽くない。


 奏は小さく息を吸い、背筋を伸ばした。


「俺に……何ができるんだろう」

「そばにいること。

 あの子はね、それだけで立っていられる子だから」


 澪の瞳は優しい。

 そして痛みを含んでいる。


「奏くん。

 雪音が“もしもの話”をしたら……全部本当だと思ってあげてね」


 その瞬間――

 奏の脳裏に、雪音のあの言葉が蘇った。


『もし私が……歌えなくなっても、そばにいてくれる?』


 喉が詰まった。


「……あれ、本気で言ってたんだ」

「うん。怖かったはずだよ。でも、あなたに聞きたかったの」


 澪は立ち上がり、コートを羽織った。


「雪音をお願いね」

「……はい」


 その返事は、確かに震えていた。


 *


 喫茶店を出ると、空は薄い灰色に沈んでいた。

 冬独特の色――雪の前触れのような空。


 澪は角を曲がる手前で振り返った。


「奏くん」


「はい」

「雪音が“春までにやりたいことがある”って言ってたら……

 全部、一緒に叶えてあげて」


 そして澪は静かに去った。


 奏はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 息が白く消えるたび、胸の奥が強く締めつけられる。


 ――雪音は、あの日、確かに震えていた。

 ――あの日の歌は、どこか弱々しかった。

 ――あの「また明日、会えるといいな」は、祈りのようだった。


 もう、気づいてしまった。


 雪音は何かを隠している。

 自分の中の何かと、静かに戦っている。


 そしてそれは、

 “時間”に関わることだという予感がした。


 その予感は、冷たい風となって奏の胸を刺し続けた。


 *


 その日の夜。

 橋の下で、雪音は待っていた。


「奏くん……遅かったね」

「……ごめん。ちょっと人に会ってて」


 奏は笑おうとしたが、顔がうまく動かなかった。

 雪音はそれに気づいたのか、不思議そうに首をかしげた。


「どうしたの?」

「なんか……雪音のこと、もっと知りたいって思ってさ」


 雪音の表情が一瞬止まり、

 そしてすぐに笑顔が戻った。


「そっか。じゃあ……たくさん教えてあげるね」


 その笑顔が、逆に胸を締めつける。


 奏は雪音の隣に座り、そっと言った。


「雪音。」

「ん?」

「もし……何かあったら、絶対言えよ。

 ひとりで抱え込むなよ。」


 雪音はわずかに震えた。


 そして――小さく、小さく「うん」と答えた。


 その返事は、

 今にも消えそうな冬の光のようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ