第5章 ―― 透明な第三者 ――
年が明けて、大学はゆっくりと動き出した。
キャンパスの空気はまだ冷たく、学生たちは皆、首をすぼめて歩いている。
奏もその一人だった。
冬休み中、雪音とはほとんど毎日のように会っていたが、
年明けから、少し会う回数が減っていた。
「仕事がちょっと忙しくてね」
「大丈夫。無理するなよ」
そう言ったのは奏の方なのに、
胸のどこかがざわついて仕方がなかった。
そんな日、講義室を出たところで声をかけられた。
「あなたが……奏くん?」
振り向くと、黒髪の女性が立っていた。
落ち着いた雰囲気で、背は小柄。
しかし、眼差しには鋭い光がある。
「えっと……」
「ごめんなさい。いきなり声をかけて。
私、白石澪。雪音の……友達、みたいなもの」
“みたいなもの”という言い方が妙に引っかかった。
「雪音の……?」
「うん。雪音から少しだけ、あなたのこと聞いてたから」
澪は一歩近づき、奏をまっすぐ見つめた。
その目には、感情を探るような静けさがあった。
「少し、時間もらえる?」
強引な感じはない。
けれど、拒むこともできなかった。
*
二人は大学の近くの小さな喫茶店に入った。
外は風が強く、窓が震えるほどだったが、
店内は柔らかなジャズが流れ、静かだった。
コーヒーが運ばれ、澪はスプーンをゆっくり回しながら言った。
「奏くん。雪音と……どれくらい仲がいいの?」
「どれくらいって……」
奏は言葉に詰まる。
恋人ではない。
友達よりはずっと近い。
だけど、それをどう説明すればいいかわからなかった。
「雪音が、あなたの話をする時……すごく嬉しそうなんだよ」
「……そうなんですか?」
「うん。表情が違うの。
誰かの名前を言うだけで、あんな顔するの初めて見た」
澪の声は柔らかかったが、
その奥に鋭い感情が混じっている気がした。
「奏くん。
雪音が、最近……何か変だとは思わない?」
その質問に、心臓が跳ねた。
「……気づいてたのか?」
「当たり前でしょ。あの子のこと、私、長いから」
澪はカップを置き、少しだけ目を伏せた。
「昔からね、雪音って……全部一人で抱え込む子なの。
辛い時ほど笑って、誰にも弱音を吐かない」
その言葉に、雪音の近頃の微笑みを思い出し、胸が痛んだ。
「あなたの前でも、そうだと思うよ」
「……あいつ、何か隠してますか?」
「隠してるよ。大事なことをね」
澪はそう言うと、ふっと遠くを見るような目をした。
「ねぇ奏くん。
もしも、あの子が……“明日が今日と同じように来る保証がない”って言ったら、信じる?」
「……何の話ですか?」
「教えられない。私からは。
でもね。あなたは知っておかないといけない」
最初は敵意を持たれているのかと思った。
でも、違う。
澪の目は――まるで守ろうとしている誰かのように、真剣だった。
「雪音のそばにいてあげて。
ずっとじゃなくていい。
でも、あの子が悲しくて壊れそうな時……支えてあげられるのは、奏くんだけだから」
澪の声は静かだったが、その静けさが逆に胸を締めつけた。
「待ってください。
あなた、まるで……雪音が――」
言いかけた瞬間、澪は首を横に振った。
「私が言っちゃうと、あの子はきっと怒る。
だから言えない。
でも……気づいてあげて」
その言い方があまりに残酷で、優しさに満ちていた。
奏は耐えきれず、テーブルに手を突いた。
「……雪音は、何に苦しんでるんですか」
「苦しんでるよ。ずっと。
でもね――」
澪はゆっくりと顔を上げ、穏やかに言った。
「あなたと出会って、その痛みが……少し薄くなったの」
胸の奥が熱くなった。
「奏くん。
雪音の音が誰よりも綺麗に響くのは、あなたがそばにいる時だけ。
それ、本人は気づいてないだろうけど」
その言葉は、慰めでも、恋の助言でもない。
もっと深い、もっと切ない“事実”だった。
「私、雪音が幸せになるなら……別に、恋敵でもなんでもいいよ」
「……え?」
「うん。昔は、そう思ってなかったけどね」
澪は微笑み、少しだけ肩をすくめた。
「雪音のこと、好きだよ。人としても、それ以上としても。
でも……私じゃ救えないの。
だから――」
澪は奏を見据えた。
「あなたに託すしかないんだよ」
その言葉は、静かで、重く、決して軽くない。
奏は小さく息を吸い、背筋を伸ばした。
「俺に……何ができるんだろう」
「そばにいること。
あの子はね、それだけで立っていられる子だから」
澪の瞳は優しい。
そして痛みを含んでいる。
「奏くん。
雪音が“もしもの話”をしたら……全部本当だと思ってあげてね」
その瞬間――
奏の脳裏に、雪音のあの言葉が蘇った。
『もし私が……歌えなくなっても、そばにいてくれる?』
喉が詰まった。
「……あれ、本気で言ってたんだ」
「うん。怖かったはずだよ。でも、あなたに聞きたかったの」
澪は立ち上がり、コートを羽織った。
「雪音をお願いね」
「……はい」
その返事は、確かに震えていた。
*
喫茶店を出ると、空は薄い灰色に沈んでいた。
冬独特の色――雪の前触れのような空。
澪は角を曲がる手前で振り返った。
「奏くん」
「はい」
「雪音が“春までにやりたいことがある”って言ってたら……
全部、一緒に叶えてあげて」
そして澪は静かに去った。
奏はしばらくその場に立ち尽くしていた。
息が白く消えるたび、胸の奥が強く締めつけられる。
――雪音は、あの日、確かに震えていた。
――あの日の歌は、どこか弱々しかった。
――あの「また明日、会えるといいな」は、祈りのようだった。
もう、気づいてしまった。
雪音は何かを隠している。
自分の中の何かと、静かに戦っている。
そしてそれは、
“時間”に関わることだという予感がした。
その予感は、冷たい風となって奏の胸を刺し続けた。
*
その日の夜。
橋の下で、雪音は待っていた。
「奏くん……遅かったね」
「……ごめん。ちょっと人に会ってて」
奏は笑おうとしたが、顔がうまく動かなかった。
雪音はそれに気づいたのか、不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの?」
「なんか……雪音のこと、もっと知りたいって思ってさ」
雪音の表情が一瞬止まり、
そしてすぐに笑顔が戻った。
「そっか。じゃあ……たくさん教えてあげるね」
その笑顔が、逆に胸を締めつける。
奏は雪音の隣に座り、そっと言った。
「雪音。」
「ん?」
「もし……何かあったら、絶対言えよ。
ひとりで抱え込むなよ。」
雪音はわずかに震えた。
そして――小さく、小さく「うん」と答えた。
その返事は、
今にも消えそうな冬の光のようだった。




