第4章 ―― すれ違う鼓動 ――
冬は深まっていた。
雪はまだ降らないが、空は薄く白く、街全体が静けさをまとっている。
奏は最近、毎日のように雪音と会っていた。
講義の後、橋の下や秘密の場所でギターを鳴らし、
時には何も話さず、ただ並んで川の流れを見ていた。
雪音と過ごす時間は、気づけば“日々の一部”になっていた。
だが――その日だけは、何かが違っていた。
秘密の場所へ向かう道を歩きながら、奏は雪音の横顔を盗み見た。
雪音はいつものように笑ってはいるものの、
その目は、どこか遠くを見ているようにぼんやりとしていた。
「雪音?」
「ん?」
「……ちょっと疲れてない?」
「そんなことないよ。ほら、行こ?」
そう言って笑う雪音の顔には、
いつもよりほんの少しだけ、影が落ちていた。
*
秘密の場所――鉄橋の下は、冬の風を防いでいた。
今日も響きは美しく、雪音はギターの弦にそっと触れる。
だが。
奏は気づいた。
雪音の指先が、以前よりも明らかに動きにくそうだと。
弦を押さえる瞬間、一瞬だけ顔が歪む。
その痛みに気づかれないよう、すぐに笑顔に戻る。
「雪音、やっぱり……指、痛いんじゃない?」
「え、そんなことないってば。ほら、見て」
雪音は強がるように、軽くコードを鳴らして見せた。
たしかに音は出る。だが、微かに音が濁る。
「……無理しなくてもいいのに」
「無理なんてしてないよ。歌いたいから歌ってるだけ」
その言葉の“力の入り方”が、どこか不自然だった。
奏が黙ると、雪音は視線を落とし、ぽつりと言った。
「奏くんが気にしすぎなんだよ」
「気にするよ。雪音のことだから」
「……だからだよ」
雪音の声が、かすかに震えた。
「奏くんが優しいから……逆に苦しくなるんだよ」
「……苦しい?」
「ううん、ごめん。今のなし。言葉の選び方、間違えただけ」
誤魔化すように笑う雪音。
その笑顔が胸に刺さる。
その後、雪音は少しだけ弾き語りをしてみせたが、
集中が続かないのか、すぐに手を止めてしまった。
「今日は……これくらいにしよっか」
「うん。雪音がそう言うなら」
外へ出ると、風はさっきより冷たかった。
雪音は胸元を押さえ、深く息を吸った。
「ごめんね、奏くん。なんか今日、変だよね」
「変じゃないよ。疲れてるだけだろ」
「……そうだといいな」
雪音は曖昧に微笑むと、道のほうへ歩き出した。
奏は追いかけながら思った。
――雪音は、何かを隠している。
しかし、問い詰める勇気も根拠もない。
何より、雪音が無理に笑っているのを見ると、それ以上踏み込めなかった。
*
その頃から、雪音の“ふいの沈黙”が増えた。
一緒に歩いていて、突然立ち止まる。
奏の言葉に反応できない。
遠くを見るように、一点を見つめる。
「雪音?」
「あっ、ごめん。今ね、音のこと考えてた」
そう言って笑うのだが、
その声には明らかに力がなかった。
ある日、雪音は突然、川の水面に向かって言った。
「ねぇ、奏くん。
もしさ……音を失ったら、どうする?」
「音を……?」
「うん。もし、聴こえなくなったり……歌えなくなったら」
奏は答えに詰まった。
雪音にとって“音”は命そのものだ。
それを失うことなんて、考えたくもないはずだ。
「……そんなの嫌だよ」
「うん。奏くんはそう言うと思った」
雪音は少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「ねぇ奏くん。
もし私が……歌えなくなっても、そばにいてくれる?」
突然の言葉に、心臓が跳ねた。
「どうしてそんなこと言うんだよ」
「別に……ただのもしもの話。ほら、想像の話って楽しいでしょ?」
「そんな想像、楽しくないよ」
「……そっか」
雪音は微笑んだが、それはどこか痛々しかった。
「大丈夫だよ、奏くん。
私、しぶといから。簡単に歌えなくなったりしない」
――違う。
奏は直感した。
雪音は“もしもの話”ではなく、
“もう始まっていること”を隠している。
だけど、聞けなかった。
雪音の秘密に触れれば、
この温かい時間が壊れてしまう気がした。
その臆病さは、後に奏を深く悔やませることになるのだが、
この時の彼にはまだ、それを知る由もなかった。
*
その夜、雪音から短いメッセージが届いた。
――今日はありがとう。
奏くんが隣にいてくれると、世界が少しやわらかくなる。
そして、もう一通。
――また明日、会えるといいな。
「……会えるといいな、か」
“会おう”じゃなくて、“会えるといいな”。
たった一文字の違いに、胸の奥がざわついた。
雪音は何を抱えているのだろう。
なぜ、自分にだけ弱さを見せてくれるのか。
そしてなぜ、それを隠そうとするのか。
奏はメッセージを打ちながら、
初めて雪音の“影”に触れていることを自覚した。
――また明日。絶対、会おう。
送信ボタンを押した瞬間、
雪音からすぐに返事がきた。
――うん。絶対だよ。
だがその「絶対」は、
どこか祈りのように見えた。
その夜、奏はなかなか眠れなかった。
雪音があの影の中で、ひとり震えているのではないかと――
胸が締めつけられて仕方がなかった。
まだ、恋だと気づいていない。
だけど、すでに大切になりすぎていた。




