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第3章 ―― 雪音の秘密の場所 ――

 その日、街は一段と冷たかった。

 吐く息はすぐに白く広がり、冬の空気が頬に刺さるように痛い。


 奏は講義を終え、白い息を吐きながら橋の下へ向かった。

 しかし、いつも聞こえるはずのギターの音がない。


 ――雪音がいない。


 胸の奥に、ざわりと小さな不安が走った。

 こんな日は絶対に来ているはずなのに。


 そのとき、背後で小さな声がした。


「奏くん」


 振り返ると、雪音が立っていた。

 マフラーに顔を半分埋め、こちらを見上げている。


「待ってたのに、気づいてくれないんだもん」

「……ごめん、そっちにいるって思わなくて」

「今日はね、奏くんに見せたい場所があるの」


 雪音は言うと、くるりと背を向けた。


「ついてきて」


 そうして奏は、雪音の後ろ姿を追って歩き出した。


 雪音の足取りは軽く、まるで“そこへ行くこと”が彼女の世界の中心であるように見えた。

 時折、振り返っては「こっちだよ」と手招きをする。

 その仕草が幼い子どものようで、冬の空気が少しだけ温かくなる。


 雪音は川沿いの道を進み、住宅街を抜け、古い倉庫の裏手へ入った。

 その先は――小さな鉄橋の下。


「ここ……?」

「うん。私の“秘密の場所”。」


 雪音は橋脚に手を置き、目を閉じる。


「奏くんも、聞いてみて」


 雪音が指を鳴らすと、その音が橋の天井に柔らかく反射して戻ってきた。


「……不思議だろ?」

「……すごい。こんな響き方するんだ」

「ここだけなの。こんなふうに、音が優しく返ってくるのは」


 雪音は膝を折り、ギターケースを開いた。

 指先が少し赤くなっている。

 寒さのせいだけじゃない、と奏は直感した。


「ここね、小さい頃からよく来てたの。

 家でも学校でも居場所がなかった時、必ずここに逃げてきた」


 雪音の声は、冬の空気に溶けるように淡かった。


「ここで歌うと、泣きたくても泣けなくなるの。

 なんか……“大丈夫だよ”って言われてるみたいで」


 奏は雪音の横顔を見た。

 雪音の目は柔らかく、少し切なかった。


「だからね、奏くんにも聴いてほしかったの。

 私が音を好きになった理由を」


 雪音はギターを抱き、最初のコードをそっとつま弾いた。

 橋の下に、優しく反響する柔らかな音。


 そのメロディは、雪音自身の呼吸のようだった。


 弾きながら雪音は静かに歌い始める。

 声は細いけれど、震えず、真っすぐな音色だった。


 ――風の音。

 ――足元を流れる川の微かな音。

 ――ギターの柔らかい響き。


 それらすべてが、ひとつの世界を作り上げる。


 奏は、その場から一歩も動けなかった。

 まるで雪音の声が、世界の色を塗り替えていくように感じられた。


 歌い終えると、雪音はそっと息を吐いた。


「どう、だった?」

「……すごかった。綺麗すぎて、言葉が出ない」

「ふふ……よかった」


 雪音は笑ったが、次の瞬間、少しだけ目を伏せて言った。


「本当はね、誰かにこの場所を見せるの……すごく怖かったの」

「どうして?」

「だって、誰かに知られたら……ここが特別じゃなくなる気がするから」


 風が吹き、雪音の髪が揺れた。


「でもね、奏くんなら……いいと思った。

 奏くんにだけは、この場所を知っててほしいって思ったの」


 その言葉に、胸が熱くなった。

 雪音が自分を特別に見てくれている。それがはっきりとわかった。


「奏くんもさ」

「うん?」

「私の“特別な場所”なんだから」


 雪音は照れくさそうに笑い、ギターを抱きしめた。

 その姿が愛しくて、奏は胸が苦しくなるほどだった。


 しばらく二人は音を確かめながら、メロディの続きを試していた。

 雪音の指先の動きはいつもより慎重で、時折、弦に触れるのをためらうように見えた。


「……雪音、指、大丈夫?」

「えっ……うん。ちょっと冷たいだけ」


 雪音は笑った。その笑顔が少し不自然だった。

 けれど奏は追及できなかった。


「ほら、奏くん」

「何?」

「座って。こっち」


 雪音は隣をぽんぽんと叩いた。

 奏が座ると、雪音はそっと肩を寄せてきた。


「ねぇ奏くん。音って、ね……」

「うん」

「同じ音でも、人によって聞こえ方が違うんだよ」

「そうなの?」

「うん。私はね、色とか……温度とかで聴こえるの」


 奏は目を見開いた。


「色……?」

「うん。奏くんの声はね、淡い青色で……少し温かいんだよ」

「俺の声が……青?」

「うん。だから、落ち着くの」


 雪音の言葉は、幻想のようで、それでいて嘘ではなかった。

 雪音は、自分にしかない“音の感性”で世界を見ている。


「雪音は……どんな風に世界を見てるの?」

「きっと……奏くんが思ってるより、ずっと変。

 でもね、奏くんの声とか、音とか……すごく綺麗に聴こえるの。

 だから……好きだよ」


 その「好き」は恋ではなく、響きに向けたものかもしれない。

 けれど、奏の心にはまっすぐ刺さった。


「……雪音」

「ん?」

「俺も、この場所……好きだよ」

「……そっか。嬉しい」


 雪音は目を細めた。

 その笑顔は、冬を溶かすように温かかった。


 しばらくして、雪音はギターを弾きながら言った。


「ここね……奏くんが初めてなんだ。

 “誰かと一緒に歌おう”って思えたの」


 奏はその言葉に鼓動が強くなった。


「だったら……これからも一緒に歌おうよ」

「うん。……春になっても?」


 雪音の声が少し震えた気がした。


「雪音が歌いたいなら、いつだって」

「……ありがとう」


 雪音はそっと、ギターを抱きしめた。


「春になったらね……きっと完成するんだ。

 この曲も、私の願いも」


 “願い”という言葉に、微かな影が落ちる。

 奏はまだその意味を知らない。

 雪音が“春”という言葉にどこか怯えている理由も。


 けれど、奏が雪音に惹かれていく気持ちは、

 もう隠せないほど強くなっていた。


 雪音がそっと奏の手に触れた。


「奏くん……手、冷たいね」

「雪音のほうこそ」

「ううん。奏くんと一緒なら、あったかいよ」


 その言葉に、胸がぎゅっと詰まる。


 その瞬間――

 雪音の指先が、かすかに震えた。


 奏が気づく前に、雪音は手を離し、ギターを抱えて立ち上がった。


「今日は……そろそろ帰ろうか。

 風、強くなってきたし」


「うん。でも雪音、本当に……」

「大丈夫。……大丈夫だよ」


 その言葉だけが、どこか空虚に響いた。


 二人は家へ向かって歩き出す。

 夜風が吹き、雪音の髪を揺らす。


 奏は思った。

 この場所は“雪音の心そのもの”だと。


 そして、この場所を知ってしまったからこそ、

 雪音という存在が、胸の奥で消えない光になりはじめていた。


 それが幸福か、不安か――

 まだ奏にはわからなかった。

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