第2章 ―― 静かな恋の芽吹き ――
冬は、長く続く夜のように静かで、気づけば一瞬で過ぎ去っていく。
雪音と出会った日から一週間、奏の生活には変化が生まれていた。
帰り道の橋の下に、自然と足が向かうようになっていた。
その夜も、奏はいつものように大学の講義を終え、氷点下の風を頬に受けながら歩いていた。
遠くからギターの音が聞こえた時、胸の奥がじんと温かくなる。
「……来た」
橋の下に灯る街灯の淡い光。その中で雪音はギターを抱え、指先をそっと弦に乗せる。
奏に気づくと、雪音は少し照れたように笑った。
「今日も……来たんだ」
「来るよ。だって――雪音の声、また聴きたいから」
奏の言葉に、雪音は視線を落とし、頬をほんのり赤く染めた。
風が吹き、雪音の髪が揺れる。
その横顔の儚い美しさに、奏は思わず息をのんだ。
雪音はギターのチューニングを整えながら言う。
「奏くんってさ、絵描くんだよね」
「まあね。趣味、みたいなものだけど」
「この前描いてくれたスケッチ……すごく綺麗だった」
奏は思わず笑った。
「雪音が綺麗だからだよ」
その瞬間、雪音の指が弦の上で止まった。
見間違えかと思うほど、ほんの少し震えたように見えた。
「……そういうの、急に言わないでよ。心臓に悪い」
「ごめん。けど本当だよ」
雪音は何かを言いかけて、やめた。
その代わり、ギターを抱き直して奏に向かい合う。
「ねぇ奏くん。一緒に……曲、作ってみない?」
「え?」
「私、ずっと自分の曲、最後まで作れなかったの。歌詞が途中で止まっちゃうことが多くて。
でも……奏くんとなら、できる気がするんだ」
雪音の言葉は、冬の夜には似つかわしくないほど柔らかく温かかった。
「……俺でよければ」
「うん。奏くんがいい」
“奏くんがいい”――
その一言で、冬の空気が一気にほどけたように感じた。
雪音はギターをそっと鳴らしながら、コードを探る。
その音は風の音と混ざり、橋の天井に柔らかく反射して響く。
「タイトルはね、『春になったら』ってどうかな」
「……春?」
「うん。春って、なんか希望があるでしょ。
冬が終わって、光が戻ってきて……誰かに、また会える気がするみたいな」
雪音が語る春は、どこか寂しさを含んでいた。
まるで――本当は“来ない春”を願っているかのように。
「雪音ってさ……春、好きなの?」
「好き。でも……ちょっと怖い」
「怖い?」
「うん。なんかね、春って、別れも一緒に連れてくるから」
その言葉を言ったあと、雪音は「忘れて」と笑ってごまかした。
奏はその笑顔がどこか痛そうに見えて、胸がひりつく。
「曲、どんな感じにする?」
「明るくてもいいし、少し切なくてもいいし……」
「“雪音が感じる春”を聴かせて」
奏がそう言うと、雪音は少し驚いたように目を瞬いたが、すぐに照れた笑みを浮かべた。
深呼吸を一つして、雪音は指で弦を軽く叩く。
静かな音から、そっとメロディが流れ出した。
最初はか細く、頼りない音だった。
けれど雪音の声が乗った瞬間、空気が変わった。
奏は思わず息を呑む。
雪音の声は柔らかく、透明で……
まるで、夜空から降る光をすくい取ったようだった。
音は橋の下に優しく広がり、風に溶けて消えていく。
歌は途中で止まった。
雪音は苦笑いをしながら、自分の髪を耳にかけた。
「……ごめん。いつもここで止まっちゃうんだ」
「どうして?」
雪音はしばらく弦を見つめたあと、小さく呟いた。
「……これ以上歌うと、泣きそうになるから」
奏の胸がきゅっと締め付けられた。
雪音がなぜ泣きそうになるのか、その理由はまだわからない。
でも、心の奥に深い傷があるのだけは確信した。
「続きは、一緒に考えよう」
「……うん」
雪音が微笑んだ時、その目にかすかに光るものがあった。
風が吹き、雪音が抱くギターから低く優しい響きがこぼれる。
その音を聞きながら、奏はゆっくりとスケッチブックを取り出した。
「描いても……いい?」
「もちろん」
奏は雪音を描きながら気づいた。
雪音の歌う姿は、とても綺麗で――
でも同時に、なぜか“消えてしまいそう”に見えた。
その儚さに、胸が不安でざわつく。
「雪音」
「ん?」
「――無理してない?」
雪音は一瞬、驚いたように目を見開いた。
すぐにふわりと笑って首を振る。
「……無理なんかしてないよ。
奏くんが来てくれるから、むしろ元気なんだ」
そう言った笑顔はまっすぐで、その言葉を信じたいと思った。
けれど奏の胸の奥の不安は、なぜか消えなかった。
雪音はギターを抱え、そっと奏のスケッチブックを覗き込む。
「わぁ……ほんとに綺麗。私じゃないみたい」
「いや、雪音そのものだよ」
「そんなわけ……ないよ」
雪音は照れたように笑いながら、目をそらした。
その仕草が、なぜだか胸に刺さる。
「ねぇ奏くん」
「うん」
「いつか、この曲……ちゃんと完成させようね」
「もちろん」
「春になったら、きっと歌えるはずだから」
その時、“春”を口にした雪音の笑顔はどこか遠く、切なかった。
まるで――届かない未来を見つめているようだった。
奏は、まだ知らない。
雪音が“春”にこだわる理由も。
彼女が本当に伝えたい言葉も。
そしてこの時、雪音の指先がほんのわずか震えていたことも。
けれど、この冬の夜に芽生えた小さな光は、
二人の運命を確かに動かし始めていた。




