エピローグ ―― 春の底に残る歌 ――
雪音がいなくなって、初めて迎える春が来た。
桜の匂いが街の空気に混ざり、
風もやわらかくなってきた頃。
奏は、新しいギターケースを背負って歩いていた。
街の景色は変わっていない。
雪音と歩いた商店街も、
雪音が歌っていた路地も、
あの街角も、全部そのまま。
だけど――
そこにいる自分だけが、少し変わった。
雪音が遺した曲を完成させたあの夜から、
奏は少しずつ“前へ進む感覚”を取り戻し始めていた。
悲しみは消えない。
寂しさも消えない。
雪音に触れたい気持ちも、
声を聞きたい願いも、
胸を刺すような痛みも、変わらずそこにある。
けれど、その痛みはもう、
“雪音と繋がっている証”のようにも感じられた。
雪音は奏の人生から消えてはいない。
姿が見えないだけだ。
声が聞こえないだけだ。
雪音がいなくても、
雪音の残した歌は、奏の中に息づいている。
それが、奏を前に進ませていた。
*
その日は、雪音の母・新庄から頼まれたものを届けるため、
奏は雪音の実家へ向かった。
「奏くん、来てくれてありがとうね」
新庄は変わらず穏やかな笑顔を見せた。
目の奥にある寂しさは隠しきれないけれど、
それでも微笑む力を取り戻しているように見えた。
「これ、雪音の部屋を片づけてたら出てきて……
あなたに渡すべきだと思ったの」
差し出されたのは、小さな封筒とUSBだった。
封筒の表には雪音の字で、
〈奏へ〉
とだけ書かれていた。
指先がわずかに震えた。
「……これ、雪音が?」
「亡くなる少し前にね。
“渡すタイミングは、お母さんに任せる”って言われてたの」
新庄は優しく微笑む。
「きっと、今がその時なんだと思うの。
奏くんが……雪音のことを抱えたまま、
ちゃんと前を向こうとしているから」
奏は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……大切にします」
胸の奥が締め付けられるように痛かったけれど、
その痛みは、どこか温かかった。
雪音が、まだ自分のそばにいるような気がした。
*
帰り道、奏は川沿いの桜並木で足を止めた。
春風が花びらをひらひらと舞わせ、
水面が淡いピンク色に染まっている。
奏はベンチに座り、
そっと封筒を開いた。
中には、短い手紙。
たった数行。
だけど、その一行一行が奏の胸を貫いた。
――――――――
奏くんへ。
もしこれを読んでいるとき、
私はもうあなたのそばにいないのかもしれません。
でもね、私は悲しくないよ。
あなたと出会えて、
あなたと歌えて、
あなたと好きになれたこと。
それだけで、私の人生は本当に幸せだった。
だから、ちゃんと生きてください。
私の“続き”を、あなたが歌ってください。
雪音
――――――――
奏は手紙を胸に抱きしめた。
桜の花びらがひとひら、手紙の上に落ちた。
涙がこぼれた。
こぼれてもいいと思った。
雪音が生きた証を抱いているのだから。
*
USBには、
雪音が病室で録音した“最後の声”が入っていた。
かすれた声。
それでも必死に歌おうとする息遣い。
奏はその音を胸に刻むように聴いた。
“あなたに届きますように”
そんな雪音の祈りが、
今の自分の心にしっかり触れた。
そして気づいた。
雪音の歌の“続き”は、
悲しみの中で立ち止まっていては生まれないと。
奏はそっと桜の空を見上げた。
「……雪音。行くよ。
ちゃんと前に。
でも、あなたを置いていくんじゃない。
一緒に行くんだ」
風がひらりと吹き、
花びらが舞い上がる。
雪音が笑っているように見えた。
奏はギターを取り出し、
雪音と作った最後の曲を静かに弾き始めた。
春の空気に音が溶けていく。
雪音の声が、どこかから重なったような気がした。
涙が勝手にこぼれた。
でも奏は歌い続けた。
雪音に届くように。
雪音が誇れるように。
自分自身が歩いていけるように。
桜の下で、奏はゆっくりと歌い終えた。
深呼吸をして、
立ち上がる。
春はもうすぐ本番を迎える。
少し眩しいほどの季節が来る。
奏はギターケースを背負い、
歩き出した。
雪音が残した歌とともに。
その歩幅は、
確かに未来へ向かっていた。
本作は「失われたものが、失われたまま美しく残る物語」を描きたい、
その思いから生まれました。
恋愛小説で“永遠”を語るとき、
多くの場合は奇跡や希望に回収されていきます。
けれど現実の人生では、
奇跡は起きないまま、
誰かを深く愛し、そして失っていく。
その痛みの中で、
人はどう生き直すのか。
どう呼吸を取り戻すのか。
雪音と奏は、その問いへのひとつの答えです。
彼らは奇跡に救われません。
残された痛みを抱えたまま、
静かに、それでも確かに前へ進む力を選ぶ。
“誰かを失っても、愛だけは残る”
そんな残響が、
あなたの胸のどこかにも届いてくれたなら、
これほど幸せなことはありません。




