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第11章 ―― 最後の夜に落ちる雪 ――

 雪音の容態が急変したのは、

 冬と春の境目をほんの少しだけ感じさせる、

 穏やかな昼下がりだった。


 奏は病室のドアを開けた瞬間、

 空気がいつもと違うことに気づいた。


 雪音はベッドに横たわり、

 わずかに顔色を失っていた。


 モニターの音――

 規則的だったはずの電子音が、かすかに乱れている。


「雪音……?」


 声をかけると、ゆっくりまぶたが開いた。


「……奏くん……? 帰ってきた……?」


 その声は、今まででいちばん弱かった。


「ただいま。大丈夫?」

「うん……ちょっとね……疲れちゃった」


 雪音は笑おうとしたが、

 顔の筋肉が追いつかないように見えた。


 奏は震える手で雪音の手を包んだ。


「先生呼んでくる」

「……待って。行かないで」


 雪音の声は、風のように細かった。


「行っちゃだめ。今は……そばにいてほしいの」


 奏はその言葉に胸を押しつぶされるような痛みを覚え、

 雪音の隣に座り直した。


「わかった。離れないよ」

「……うん」


 雪音の指先が、弱々しく奏の手をなぞった。


 その動きだけで、涙がこぼれそうになる。


 *


「奏くん……覚えてる?」

「何を?」

「初めて、奏くんが私の歌を聴いてくれた夜のこと」


 もちろん覚えている。

 雪音が夜の街角でギターを抱えて歌っていた、あの夜。


「私ね……あのとき、すごく嬉しかったの。

 誰かが私の音を“ちゃんと聴いてくれた”って思ったの、

 あれが初めてだったから」


「……あの夜、雪音の声に救われたのは、俺の方だよ」


 雪音は目を細めた。


「救われた……か」

「うん。雪音の音がなかったら、

 俺、ずっと暗いままだった」


 雪音は横を向き、窓の外の光を見た。


「奏くん……幸せだった?」

「何言ってんだよ。今だって幸せだよ」

「……そっか。そう言ってくれると安心する……」


 雪音は呼吸を整えながら、続けた。


「ねぇ、奏くん。

 こんなこと言ったら怒ると思うんだけど……」


「怒らないよ」

「私、最近すごくね……眠いの。

 いつもより、ずっと」


 その“眠い”という言葉が、奏には恐ろしく聞こえた。


「眠ったらさ……起きられないんじゃないかって、

 ちょっとだけ怖いの」


「起きられるよ。俺が起こす」

「優しいね……奏くんは」


 雪音の手が奏の指をそっと握り返す。


「でもね……もし私が起きられなかったら……

 奏くんの音で、起こしてほしいな」


「……起こすよ。何度でも」

「うん。奏くんの声なら、きっと届くと思うの」


 その言葉を聞いて、奏は涙をこらえられなかった。


 肩が震え、俯いて泣いた。


 雪音はその涙を見て、そっと指で触れた。


「泣かないで……奏くん。

 私ね、いままでの人生でいちばん幸せだよ。

 こんなふうに誰かの手を握って、

 笑ったり泣いたりできるなんて思わなかった」


「やめろよ……そんな言い方」

「……ごめん。でもね、聞いてほしいの。

 ちゃんと伝えておきたいから」


 雪音の指は震えていたが、

 その目はとても静かで、強かった。


「私ね……もう少しで、奏くんの曲の続きを歌えなくなるかもしれない。

 でも……奏くんが歌ってくれたら、それでいいの」


「歌うよ……絶対歌う」

「うん。奏くんの声、好きだから」


 雪音は小さく息を吐いた。

 その吐息が、薄く白く見えた気がした。


 *


 その時、モニターの音がわずかに落ちた。


 奏の心臓が止まりそうになる。


「雪音……?」

「……大丈夫。大丈夫だよ」

「大丈夫じゃない……!」

「奏くんがいるから、大丈夫なの……」


 雪音は力の入らない手で、奏の頬をそっと触った。


「ねぇ奏くん。春が来たらさ……

 ふたりで、また外を歩こうね」


「歩けるよ。絶対に」

「歌ったり……笑ったりしてね」

「うん……そうしよう」

「絶対だよ……?」


「約束する」

「……約束、したかったんだ」


 その言葉はあまりに儚く、小さな響きだった。


 雪音の視界が霞んでいく。

 まぶたが重くなっていく。


「奏くん……手、離さないでね」

「離すわけないだろ!!」

「……よかった」


 雪音は薄く笑った。


「奏くん……ほんとに大好き……」

「俺もだ……雪音……俺も大好きだ……!」

「……ありがとう……」


 その瞬間――

 モニターの音が大きく乱れた。


 雪音の身体が、かすかに震える。


「雪音!!!!」


 雪音の声は、もうほとんど聞こえなかった。


 それでも――

 最後の言葉は、かすかに、確かに奏に届いた。


「……奏くんの音……もっと……聴きたかった……」


「雪音!!! 雪音!!!!」


 奏が叫んだ瞬間、

 医療スタッフが駆け込んできた。


「ご家族の方は外へ!」

「雪音!!! 雪音!!! 雪音!!!!」


 奏は抱きしめた手を無理やり引き離され、

 病室の外へ押し出された。


 扉が閉まる瞬間、

 雪音のかすかな指の感触だけが残った。


 その感触は、人形のように軽く、

 けれど生涯忘れられない、

 最期の温もりだった。


 廊下の椅子に崩れ落ちた奏は、

 声も出ないほど泣いた。


 “その向こう側では、まだ雪音が戦っている”

 そう思うだけで胸が裂けそうだった。


 そして――

 閉ざされた扉の向こうで、

 誰かの声がした。


「心停止!!」


 世界はそこでいったん、音を失った。

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