第10章 ―― それでも、春を待つ ――
雪音の病室は、季節の移り変わりよりもゆっくりとした時間の中にあった。
窓の外では、冬の雲の切れ間からわずかな陽光が差しこむ。
その光は弱々しいが、どこか“春の気配”を含んでいるように見えた。
奏は椅子に座り、眠る雪音の手を握っていた。
指先は薄く冷たかった。
だがその冷たさが、逆に“生きている”という証のようで、奏は離せなかった。
*
医師に呼び出されたのは午前の少し遅い時間だった。
「奏さん、少しお話があります」
その言葉に、胸が軋む。
“話がある”という前置きが、どれほど恐ろしく響くか。
医師は沈んだ表情を見せながら言った。
「雪音さんの身体には、限界が近づいています」
「……まだ、治療を続ければ……」
「治療は行っています。しかし、もう大きく持ち直すことは難しいでしょう」
「……そんな……」
医師は静かに続けた。
「ただし、一つだけ言えることがあります。
いま雪音さんが一番必要としているのは、心の穏やかさです。
あなたがそばにいることが、彼女の安定につながっています」
奏は目を閉じた。
――そばにいること。
それが雪音にとって最も大切なこと。
医師が去ると、奏は深く息を吐いた。
怖い。
たまらないほど怖い。
でも、その怖さを雪音に悟られたくなかった。
奏は病室へ戻った。
*
雪音は目を覚まし、奏の顔を見て微笑んだ。
「おかえり……。どこ行ってたの?」
「ちょっと、先生と話してた」
「そう……」
雪音は薄く微笑んだ。
「なんの話?」
「……雪音の病気のこと。
でも、大丈夫だって言ってたよ。
雪音が落ち着いているのは、いい状態だって」
それは完全な嘘ではない。
けれど全部でもなかった。
雪音は目を細めた。
「そっか。……ありがとう」
“ありがとう”
その一言が、どうしようもなく切なかった。
雪音は弱々しい手を伸ばし、奏のシャツの袖をそっと掴んだ。
「奏くん、私ね……ひとつお願いがあるの」
「うん」
「怒らないで、聞いてくれる?」
「怒らないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
雪音は深呼吸をし、言った。
「もしも……私が急にいなくなっても、
奏くんは、奏くんの春を生きてほしい」
奏は言葉を失った。
「馬鹿なこと言うなよ」
「馬鹿じゃないよ。ほんとだよ」
「そんなの……考えられない」
「考えなくていいよ。
でもね、奏くん……生きてると、どうしても“別れ”を考えなきゃいけない時が来るの」
雪音は、窓の外の冬空を見上げる。
「私ね、怖かった。
奏くんが、私のせいで立ち止まっちゃうんじゃないかって」
奏は雪音の手を握り、首を振った。
「立ち止まるもんか。
雪音と一緒にいる時間は、俺の全部なんだ」
「うん、知ってる。
だから……その“全部”が、ちゃんと先に続いてほしいの」
雪音はかすかに笑った。
「私のためじゃなくて……奏くん自身のためにね」
奏の胸が熱くなり、呼吸が乱れた。
「そんなの……無理だよ」
「無理じゃないよ。
だって奏くんは優しいから。
優しい人はね、誰かを愛した後も、生きていけるんだよ」
雪音の声は震えていた。
本当は雪音自身が怖いのだ。
誰よりも怖いのに、それを奏に見せない。
――こんなに、強い人をどうして神様は奪おうとするんだ。
奏は涙がこぼれるのを必死にこらえた。
*
その日の午後、雪音は少しだけ外に出たいと言った。
「少しだけでいいから……外の空気、吸いたい」
「車椅子、借りてくる。無理はしないで」
「うん」
奏は看護師に頼み、車椅子を借りて戻った。
雪音をそっと座らせ、羽織をかける。
「寒くない?」
「大丈夫。奏くんが押してくれるなら、なんでも大丈夫」
その言葉に胸が詰まる。
病院の裏庭へ出ると、
空気は冷たいが、光は少し柔らかかった。
雪音は空を見上げた。
「ねぇ……あれ、わかる?」
「ん?」
「少しだけど……雲の隙間から春の陽が落ちてる。
なんか、すごくきれい」
奏も見上げた。
冬と春の境目のような空。
灰色の雲の向こうから、薄い光が糸のように落ちている。
雪音は微笑んだ。
「こうやって空を見ると……生きてるって実感するね」
「雪音……」
「大丈夫。泣かないで」
雪音は奏の手を取った。
「ねぇ奏くん。
生きてる時間ってね、長いとか短いとかじゃないんだよ」
言葉は静かに、ゆっくりと落ちていく。
「“誰と、どんなふうに過ごしたか”で決まるんだって、最近思うの」
「……俺と過ごして、よかった?」
「もちろん。世界でいちばん、よかったよ」
雪音は小さく笑った。
「私ね……最初は怖かったんだよ。
奏くんみたいな人を好きになるの、もったいないって思ったの」
「なんで?」
「優しすぎるから。
優しい人って、好きになると全部を差し出しちゃうでしょ?
だから……私なんかが奪っちゃいけないって思った」
“私なんか”
その言葉が奏の胸に突き刺さった。
「奪われたんじゃない。
雪音に出会って俺は……生き返ったんだよ」
雪音は目を潤ませ、唇を噛んだ。
「奏くん……そんなこと言われたら……私、もっと生きたくなるじゃん……」
静かな涙が雪音の頬を伝う。
奏はその涙を指で拭った。
「生きてよ。最後まで……一緒に春を作ろう」
「うん……。頑張る。……頑張るよ」
雪音は両手で奏の手を包んだ。
「怖いけど、でも……幸せだよ。
こんなに誰かに愛されて、生きられるなんて」
その言葉に、奏の心は張り裂けそうだった。
*
病室へ戻る途中、雪音はふと呟いた。
「奏くん……」
「なに?」
「今日の空、忘れないでね」
「忘れないよ」
「私が……いつまでも覚えていられるかわからないから」
その言葉の意味に、奏は足を止めた。
「……雪音?」
「ごめんね。大丈夫、大丈夫だから。
怖がらないで」
雪音は弱々しく微笑んだ。
「私ね……いつか春が来る日のために奏くんの音を全部覚えておきたいの」
奏は雪音を抱きしめた。
雪音の身体は軽く、小さな鳥のようだった。
「離れないよ……。どこにも行かせない」
「離れないよ。奏くんがいる限り、私……ここにいる」
雪音は耳元で囁いた。
「奏くん、ありがとう。
私の人生に来てくれて」
その一言で、奏の心は静かに崩れた。
夜が来る前、雪音は眠りについた。
その寝息は少し不安定で、奏は一晩中、彼女の手を握り続けた。
外の空には冬の三日月が輝いていた。
これが“最後の静けさ”になると、
まだ誰も知らなかった。




