表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/15

第1章 冬のはじまり、ふたりの出会い

 その夜、街を包む空気は透き通るように冷たかった。

 吐く息が白く滲み、街灯の光だけが冬の闇をかすかに照らしている。


 大学帰りのそうは、イヤホンを片耳だけ外し、凍えた路地を歩いていた。

 帰り道にある小さな橋の下で、毎年この季節になると風が笛のように鳴くのを知っていて、

 その音を聞くのがささやかな楽しみだった。


 ――その時だ。


 風の音に紛れて、微かな歌声が聴こえた。

 細い糸のように震え、それでも真っ直ぐに伸びていく透明な声。


 奏は思わず足を止めた。


 橋の下、街灯の影の向こう。

 白い息を吐きながら、ひとりの女性がアコースティックギターを抱えていた。

 肩までの黒髪は静かに揺れ、澄んだ横顔は街灯に照らされて淡く光っている。


 その姿は、夜に咲く花のようだった。


 女人にょにん――いや、“少女の面影を残した女性”。

 雪音ゆきねはそんな印象をもっていた。


 雪音は歌を終えると、

 ふぅ、と小さく息を吐き、指先をこすって温めた。


 奏の靴音に気づいたのか、雪音がゆっくり振り返った。


「……聞こえてた?」

「ごめん、勝手に。すごく綺麗な声だなって」


 奏が正直に言うと、雪音はわずかに驚いた顔をした。

 けれどすぐ、その驚きを隠すように柔らかく笑った。


「ありがとう。……ここ、歌いやすいんだ」

「歌いやすい?」

「うん。風の音とか、街の反射とか……音がね、優しく響くの」


 理由を説明しながら、雪音は橋の天井を見上げた。

 その表情は、奏には少し不思議に映った。

 自分が知らない世界の“音の感じ方”を彼女はしている――そんな印象だった。


「ここでよく歌うの?」

「……冬だけ、かな」


 雪音の声にはどこか、言えない何かが混じる。


 奏はふと、スケッチブックを抱えている自分に気づいた。

 胸の奥に、静かに湧き上がる衝動があった。


「その……もしよかったら。描いてもいい?」

「え?」


 雪音は目を瞬かせた。

 奏は慌てて言葉を足した。


「嫌なら全然いいんだけど。

 さっきの歌、すごく綺麗で……気づいたら、描きたいって思ってて」


 数秒、冬の風だけがふたりの間を吹き抜けた。


 雪音は視線を落とし、小さく笑った。


「……へんな人」

「だよな。ごめ――」

「でも、いいよ。なんか、その……嬉しいから」


 顔を上げた雪音の瞳は、冬の夜より澄んでいた。

 その笑顔を見た瞬間、奏の心臓が一度跳ねるように鳴った。


 その日から、ふたりは少しずつ距離を縮めていくことになる。

 そしてまだ奏は知らない。

 雪音がこの橋の下を“選んで”歌っていた理由を。

 彼女の耳に宿る“特別な感性”を。


 また、雪音自身も知らない。


 この出会いが、

 彼女の人生の最後の季節を――

 もっとも輝く春へと変えていくことを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ