第18章
――白い靄を割り、鐘が三つ鳴った朝。
王城・国庫庁の大計量室。
黒檀の梁に吊られた巨大な天秤――“国庫大秤”。中央柱には金の舌、両の皿は磨かれ、床は石。
王、王妃、宰相、重臣。商会、両替商、民。
わたくしは台に三つの箱――白印分銅、検音治具、封蝋具――を並べ、ヴォルフラム公爵の半歩後ろに立つ。
「本日の“公開点検”は三点。
一、舌の“遅れ”。
二、盤の“裏”。
三、柱の“孔”。――順に“開示”いたしますわ」
扇子の骨を“とん”。基準の音。
公爵が短く告げる。「秩序は音で守る。前を見ろ」
「ええ。背中はお任せいたしますわ」
* * *
「一、舌の“遅れ”」
わたくしは白印分銅を左皿へ置き、検音治具で舌を軽く弾く。
――“ぎゅ、こと”。
正しい。
次に、右皿へ規格の砂袋を載せる。
舌は一瞬、ほぼ動かず――呼吸を二つ、遅れてから、ぐぐ、と沈んだ。
ざわっ、と空気が揺れる。
国庫庁舎人長ロムルスが咳払いをする。「大秤は“慣性”が――」
「“慣性”は均等ですわ。――遅れは“片側だけ”」
わたくしは舌の根元に砂を極薄くはたき、呼気でそっと吹く。
砂が張り付き、糸のように伸びる。
「魚膠と松脂の“遅延膠”。温もりで粘り、冷めると剥がれる。――右の舌根にだけ、塗布」
公爵が低く言う。「誰の指だ」
舎人長は肩を竦める。「掃除の者が……」
「“掃除”に魚膠は使いませんの」
わたくしは白印分銅を外し、王印蝋と監査蝋で“舌封”を落とす。
――“ぎゅ、こと”。
封の端から薄い糊が糸を引き、証拠は蝋に抱かれた。
* * *
「二、盤の“裏”」
梯子が運ばれ、近衛が皿を外す。
わたくしは白手袋に藻ヨードを薄く含ませ、裏面を撫でる。
――藍が、線になって咲いた。
線は柱の中へ消え、床の絨毯の縁――舎人長の立ち位置の足元で止まる。
「絹糸ですわね。藻ヨードに反応した“澱粉糊”。
糸先は――こちら」
わたくしが絨毯をめくると、床板の隙間から細い真鍮の筒。
筒の中は空洞柱へ通じ、糸はそのまま柱内を走る。
公爵が目で合図。兵が柱側面の小蓋を外す。
中に、鉛の小さな重り――“鉛舌”。滑り台に載り、糸で引けば舌の根を押す仕掛け。
「荷を置いた瞬間は“遅延膠”で止め、合図の“糸引き”で舌を押す。――遅れて沈む“演出”ですわ」
舎人長の靴音が一度、石を鳴らし、すぐ止まる。
彼の靴底――藍の粉。
房鈴が柱影に吊られていて、“ちりん”と小さく鳴った。
「“鈴”――礼礼局の“七つ鈴”と同式」
わたくしは手帳に音列を書く。
〈低・中・高〉。
近衛が足元の踏板を検める。踏めば柱内の鈴が鳴り、合図になる。
公爵の声が硬い。「舎人長ロムルス――拘束。柱・盤・舌、封鎖」
ロムルスは唇を噛み、「王の意志で“白”に」などと呟く。
王の肘掛けが二度、乾いた音で答えた。
「王の意志は“基準”にある。――続けよ」
* * *
「三、柱の“孔”」
柱の中に通る筒を辿り、床下の小室へ降りる。
そこには“舌押し滑り台”の調整孔、蘭の香油、松脂、魚膠、灰蝋。
壁には〈□二本線〉――内務審仕分け印。
さらに、押し花。白百合。短い文。
『衡の舌は笑わず、盤の裏で泣く。
――“友”』
「泣かせませんわ。――“舌封・盤封・柱封”の“三重封”を新設します」
わたくしは台へ戻り、白印蝋と監査蝋の二色に、第三の“機械封”(メカニカル・シール)――細工糸の鉛封を加える。
封を三箇所。舌根、盤裏の支座、柱孔。
「破れば音が濁る“鈴封”。――押せば“ちりん”。封切の記録は印影台帳へ」
検音治具を当てる。
――“ぎゅ、こと”。
鈴封の鈴が、微かに基準音へ重なって鳴った。
場の空気がほどけ、誰かが小さく「ざまぁ」。
* * *
休憩の間、王妃が扇を伏せたまま近寄る。「“遅延膠”、よく気付いたわね」
「前世で、倉荷の“針止め”に似た細工を見ましたの。――温度と粘りは、数字に出ますわ」
視界の端、公爵が外套を肩へ掛ける。
第四条。
胸のひやりが温度に変わる。
「解けていた」
「何度でも、結び直していただけるのね」
「何度でも。……前を見ろ」
「はい」
* * *
点検第二部――“白印銀”の試鋳・受渡。
造幣長グレゴールが標準銀板を舌の上に掲げ、二色刻印の“二重刻”を打つ。
“ぎゅ、こと”。
分銅、舌、盤、柱――すべての“音”が、同じ方向を向いた。
その時、回廊の陰で紙束が撒かれた。
『印監令は交易を殺す』『悪役令嬢は秤を奪う』。
噂書をばらまいたのは、両替商ギルドの末吏二名。
わたくしは穏やかに札を摘み、“鈴封”の試験台へ。
「二色封なし――“紙に非ず”。掲示は取り下げですわ」
近衛が末吏を連れ、掲示板には新たに“偽掲示”の札。
ざまぁ。
音は控えめでも、秤の針は確かに戻る。
* * *
夕刻。国庫庁・小会議室。
“国庫標準秤改修案”――付則の起案。
「三点、条に刻みます。
一、“舌封・盤封・柱封”の三重封――“鈴封”採用。
二、国庫の大秤は“日々検音”。記録音は“基準音録”に。
三、秤の“舌”と“針”は白印局支給、交換時は二色封で“針封”。」
宰相が頷き、王妃が扇を閉じる。
王は肘掛けを二度叩き、「採る」。
わたくしは扇子を畳み、息を整える。
(――“数の王”の庭に、基準が立った)
その刹那。
計量室の奥の梁から、白い押し花がひとひら降り、机に落ちた。
紙片が結ばれている。
『盤の裏が塞がれたなら――“算盤の珠”を外せ。
――灰冠の“友”』
公爵が目を細める。「“珠”……帳の側だ」
「なら、次は“両替率”と“勘定科目”の標準化。
――“白印勘定”を国庫・商会共通に」
「骨は私が通す。君は“珠”を並べろ」
「承知」
* * *
夜。国庫庁裏の資料庫。
会計帳の背表紙が並び、埃が薄く積もる。
わたくしは藻ヨードの布で背を撫で、書き足しが濃い簿冊を抜いた。
“雑勘定”“白用途”“特別”.……“珠”が曖昧。
扇子の先で背を弾くと、棚の奥で“かさ”。
薄板の陰に、細長い算盤。珠がいくつか外れており、珠孔の中に紙片。
『“白用途”の定義を増やせ。珠は増え、数は濁る。
――“友”』
「定義の洪水、ですわね。――なら、“白印勘定”で“科目固定”。増やすには『公開』」
公爵が肩越しに資料庫の口を見張り、短く言う。「鈴が鳴ったら下がれ」
「はい」
ちょうどその時、回廊の房鈴が“ちりん”。
影が二つ、資料庫の入口に滑り込む。
松脂、蘭、灰――馴染んだ匂い。
近衛の鎖が走る。
影の一人が歯を食いしばり、手から算盤の珠を散らす。
「“珠”は、もう“白”の数ですの」
わたくしは珠を拾い上げ、白印の刻みを入れる。
“ぎゅ、こと”。――小さな木玉が、確かに音を返した。
* * *
帰路の回廊。
白百合の列の前で、聖女アンジェリカが立ち止まり、こちらへ歩み寄る。
「“秤の音”、聞きました。……胸が静かになります」
「数字は、静かな場所を作りますわ。――涙は、あとで」
彼女は小さく笑い、「“あとで”」と繰り返した。
王太子はその隣で深く息を吐き、短く言う。
「君の“音”に、私は従う。……二度と、舌を遅らせない」
謝罪は記録に残らない。けれど、秤の皿には確かに乗る。
公爵が外套を肩に掛けてくれる。
第四条。
胸のひやりが温度に変わり、口角が上がる。
「解けていた」
「何度でも、結び直してくださいますわね」
「何度でも。……前を見ろ」
「はい、公爵様」
白は白へ。
印は印へ。
秤は、正しく鳴る音で。
“数の王”の庭に、白の音は増えた。
ざまぁは小さくていい。――基準音“ぎゅ、こと”が、王国の底で確かに鳴り続ける限り。