第13章
――朝の冷気が、王城の回廊を薄く磨いていた。
印監令布達の翌日。わたくしたちは“二色封”の初号印影を携え、王太子書斎の“公開点検”に臨む。
「記録吏、準備」
ヴォルフラム公爵の低い声に、監査官が印影台帳を広げ、私は二色の蝋壺を受け取る。
白蜜蝋にラピスと桂皮――王印蝋。深縁の監査蝋。
机上に小さく落とし、冷まし、角度を揃えて押す。
“ぎゅ、こと”――基準音。
「“鍵と蝋”は、数字と同じですもの。――誤差は小さく、癖は記録に」
そう言って微笑むと、公爵の硝子の黒が、わずかにやわらいだ。
「前を見ろ。背中は、私が見る」
「ええ。第四条、守れておりますわ」
扉が開く。近衛の立会い、王妃庁侍女、法務院書記。
王太子書斎――壁一面の書架、窓辺に白いカーテン、中央に“王冠”を象った脚の大机。
整然。……けれど、整いすぎている部屋ほど、数字の“余白”がよく見える。
「順番に三点。――一、鍵の“触れ(タッチ)”。二、机の“音”。三、紙の“欠け”。」
私は鍵の歯に薄く澱粉粉をはたき、藻ヨード液をひと滴。
青が咲いたのは“引き出し群”の中段、右から二番目――“近持出し”の印。
さらに、カーテン裾の鉛の房に、目立たぬ指跡。
(夜明け前にここへ来た指。……狭間の時間)
「二つ目。“音”」
私は大机の天板を、扇子の骨で“とん、こと、こと”。
右奥の板だけ、薄く響きが違う。
耳を寄せて、さらに軽く叩くと――“ちりん”。
ごく小さな鈴の応え。
「“鈴”。……礼礼局の“七つ鈴”の音階」
公爵が顎を引く。
私は手帳に走り書く――〈高・低・低・中・高〉。
ニコが言っていた“鈴の鳴りで指示”……音列は暗号、そして鍵。
「三つ目。“欠け”。」
引き出しの内側、金具の角――ごく小さな欠け。
工房で見た“替え枠”の角と重ね、位置を確認する。
(同じ“手”。……ここに“冠”を入れていた)
「開けますわね」
私は藻ヨードの薄布を指先に巻き、音列どおりに机の裏へ指を走らせる。
――“ちりん、りん”――小さな金属音。
右奥の板が「すう」と退き、掌ほどの秘密箱が顔を出した。
「後退」
公爵の声に合わせ、私は半歩引いて兵に合図。
刹那、箱の縁から“しゅっ”と白い煙――燐粉の癖の悪い機嫌。
先手の水霧袋が弧を描き、白は薄まる。
私は濡れ布で口鼻を覆い、小箱の芯に布を押し込んで、呼吸を止める火の道を塞いだ。
「――大丈夫」
短く告げ、布を外す。
中には、薄く巻いた羊皮紙が三巻、木の“替え枠”が二つ、灰色の蝋塊、そして――小さな指輪の頭。
冠の輪を模した印面。王家の紋ではない“冠”。
灰冠の印頭。
私は巻紙を一つずつ広げ、欠けと角度を拡大鏡に掛ける。
“灰冠委任 丑二刻/卯一刻”。
“百合庫搬入表”。
……そして、短い指示文。
『七鈴の二と四。内務審へ。
――H.』
イニシャル。
私は扇子の骨で、額に軽く触れる。
(H。……副長カリストではない。――侍従長の“本名”は――ヘルマンス)
公爵が一歩寄り、印面を見て一言。「決まったな」
「ええ。“冠の頭”は、侍従長ヘルマンス卿」
私は巻紙の端を指で撫で、インクの乾き具合を確認する。
昨夜――印監令の初日。
制度の“立ち上がり”を先に突いた、その“指”。
王の視線のすぐ横で、王意の仮面をかぶり続けた“冠”。
机の影で、別の薄板が指に触れた。
紙片が二枚。
一つは“御前午餐配膳順”。もう一つは――“祈祷演出・光粉配量表”。
その端に、百合の押し花がひとつ、潰れて貼り付いている。
「……聖女は“演出の式次第”まで“冠”と共有していた」
私は細く息を吐く。「知らずに、では済まない規模ですわ」
公爵の眼差しが一瞬だけ揺れ――すぐに静まる。
「秤に掛ける。……“公開”で」
私は頷き、羊皮紙を封筒に納め、二色封で封じる。
押印角――基準どおり。
監査官が立会い印を添える。
「――第三の“鈴”が鳴るかもしれません」
私は窓辺の房を見やり、房糸の結び目を細工する。
揺れれば鳴る。――侵入時の“音”。
記録吏が図面に書き込み、近衛が導線を修正する。
と、そのとき。
回廊の向こうで靴音。二人分。
公爵が視線だけで合図し、兵が陰に散る。
扉がわずかに開き、見慣れた金糸の外套の端――王太子レオンハルト。
その後ろに、白紗の聖女アンジェリカ。
「ここで何を」
殿下の声は乾いていた。
私が一歩、前へ。扇子を閉じ、静かに頭を垂れる。
「“公開点検”ですわ、殿下。印監令に基づき、鍵・蝋・机の“基準化”を」
「勝手に!」
彼は机に歩み寄ろうとし、公爵の視線に立ち止まる。
聖女は殿下の袖を軽く取った。
その指の動きは、小さく震えている。
「殿下。――“返還”は進んでいます。秤は、動きました」
私は白紗の向こうの瞳を見つめる。
「けれど、“冠”はまだ、王の隣に」
殿下の表情に、瞬きほどの空白。
私は机上へ封筒をそっと置き、二色封の印影を示す。
「侍従長ヘルマンス卿の“灰冠印頭”。礼礼局・書記局・内務審を鈴の音で繋いだ記録。“祈祷演出”への介入――全て、ここに」
聖女の睫毛が揺れ、「……H」と微かに息が漏れた。
殿下の喉が上下し、拳が色を失う。
公爵はただ、静かに告げた。
「殿下。秩序のため、侍従長を“公開審問”に付す。――王命を」
殿下の視線が、私と封筒と公爵の間を往復する。
数拍の沈黙。
やがて、彼は目を閉じ、短く頷いた。
「……分かった。――ただし、私の前で」
「もちろん。“公開”で」
私は息を整え、第四条を思い出す。
口角を上げる。
聖女の視線が、一瞬だけ私の唇に落ち、すぐ逸れた。
* * *
侍従長室――“冠の間”。
午後の光が床に四角を落とすころ、侍従長ヘルマンス卿は淡い香をまとって現れた。
温和な顔。だが、瞳の底に磨いた石の光。
「“公開審問”だと? 王城の中で」
彼は微笑を崩さず尋ねる。
「ええ。印監令、二色封、印影台帳――全て“基準”の上で」
私は二色封の封筒を示し、押印角と欠けを板に写す。
礼礼局・書記局・内務審――三つの“欠け”が、同じ“角”で重なった。
「鈴を」
公爵が一言。
近衛が腰飾りを三種並べ、音階を順に鳴らす。
“ちりん、りん、りり”。
私の手帳の音列が、目の前の音へ変わる。
机の底板が、ごくわずかに震えた。
「……音は、嘘をつけませんの」
ヘルマンスの微笑が、紙の角のように鋭くなる。
「――君は、危うい。帳簿の冷たさで人心を裂く」
「裂いているのは“灰”ですわ。私は“白”を並べているだけ」
私は封筒から最後の一枚を取り出す。
“御前午餐配膳順”の末尾に、微かな書き足し――藻ヨードが淡く色を変える。
『祈祷の光、二度分――“封”。』
王妃が扇を下ろし、王太子が息を呑み、聖女は目を閉じた。
公爵が短く断じる。
「侍従長ヘルマンス。――灰冠の名において“白”を偽装し、秩序を壊した。拘束する」
近衛が動く――が、ヘルマンスは歩を退かず、ただ袖を整えた。
その指に、細い指輪。
印面のない台座――“印頭”を差し替える仕様。
「王太子殿下」
彼は穏やかに殿下へ向けて頭を下げる。「私は、あなたの“冠”だっただけです。王の意志で“白”を保った」
「違う」
殿下の声は低く、震えていた。「――私の“欠片”を、君が灰で塗った」
その言葉に、ヘルマンスははじめて表情を揺らした。
わずかな空白。
公爵の手が下がる――合図。
鎖が走り、侍従長の腕に絡む。
彼は抵抗しなかった。ただ、わたくしを見た。
「悪役令嬢。……君の“公開”は、最後に“王”をも秤にかけるだろう」
「秤は、最初から王のためにありますわ」
私は静かに返す。「“白”を白へ戻すために」
* * *
審問が終わり、夕刻の光が薄くなる。
回廊で足を止め、私は胸元の徽章を確かめた。
金属の冷たさが、深呼吸を促す。
「――終わりましたわね、“冠”は」
「頭は折れた。……だが、残り火はある」
公爵の声は平らだが、安堵の温度が混じる。
彼は無言で私の手袋の付け根を整え、結び目を軽く結び直した。
「解けていた」
「何度でも、結び直してくださるのね」
「何度でも」
ふ、と笑いがこぼれる。第四条。
廊下の向こう、白百合の列の前で、聖女が立ち尽くしていた。
彼女は小さく息を吸い、こちらへ歩み寄る。
「……“告白”、します」
聖女の声は震え、けれど確かだった。
「明日の“返還第二便”の場で。――足りない椀と匙を、祈りで塗ったことを」
私は頷き、扇子を畳む。
「秤は、用意しておきますわ。椀と匙、そして――涙を拭う布も」
聖女ははじめて、ほんの少しだけ笑った。
殿下はその横で目を伏せ、ただ一言。
「すまない」
謝罪は、記録に残らない。けれど、秤の皿の片方に、確かに乗る。
私は前を向く。
数字は逃げない。印は欠けを語る。音は嘘をつけない。
“冠”は折れた。――次は、“王国”を“白”へ。
「公爵様。……明日も、前を」
「ああ。背中は、私が見る」
夕鐘がひとつ鳴り、王都の空気が静かに揺れた。
ざまぁの音は、はっきりと――けれど、まだ終章ではない。
悪役令嬢の指先は、次の頁へ。
“返還第二便”。“告白”。
そして、制度を“白”で固めていくための――新しい“基準”へ。