第11章
――明けやらぬ王都。
白い靄が庭の木々を薄く包み、石畳の朝露が鈍く光る。
ヴァレンシュタイン邸の執務室で、わたくしは二つの小瓶を並べていた。
「右が“王印蝋”。白蜜蝋にラピスと桂皮。左が“灰蝋”。蜂蝋に松脂と……灰」
試験板にそれぞれ米粒ほどを落とし、火から同じ距離で温める。
王印蝋は柔らかくなっても“しな”を保ち、指で押せば弾む。
灰蝋は一見同じだが、指で押すと端が欠け、粉が指先に移る。
「――脆い」
低い声。ヴォルフラム公爵が観察鏡を傾けた。
彼は短く頷き、「広間でやれ」とだけ言う。
「“公開”で、ですわね」
「そうだ。今日の朝議は“印”が主戦場だ」
外套を羽織る手が止まる。公爵の視線が、わたくしの手袋の付け根で留まった。
指先に緊張が滲む。彼はそれをほどくように、いつもの簡潔な言葉を落とす。
「前を見ろ。背中は、私が見る」
「――はい」
第四条“笑うこと”。
扇子の骨が、かすかに鳴った。
* * *
王城・大広間。
王と王妃、宰相に重臣。王太子レオンハルトと聖女アンジェリカは列の端。
中央の台には、わたくしの用意した試験板と小瓶、拡大鏡、そして押収した“灰冠委任”の羊皮紙が並ぶ。
「開廷。――印蝋の検証及び“灰冠”疑義」
宰相の杖が床を鳴らすと同時に、公爵が一歩前へ出た。
「秩序は印から崩れる。ゆえに、まず印を正す。……特任補、説明を」
「畏まりました」
わたくしは台へ進み、観衆に見えるよう手元を開いた。
「本日、三点。“蝋の違い”“欠けの一致”“押印角の癖”。順に“開示”いたします」
最初に、小瓶を掲げる。
「王城で用いる正規の“王印蝋”――白蜜蝋にラピス、桂皮。香りは軽く、青い粒が光を弾き、温めればしなやか。
対して、こちら。“灰蝋”。蜂蝋に松脂、灰。香りは重く、温めると端が欠け粉を生む。――これを“灰冠”は用いました」
わたくしは両者を同温度で押し、欠けを指先に見せる。
ざわ、と空気が揺れた。
「次に、欠けの一致。偽の王命、礼礼局の聖具箱、孤児院札――それぞれの“押印具”の端にある微細な欠け。……一致。
最後に“押印角”。印は真ん中を押すようでいて、人は癖を持つ。左手の者は“左下から右上”への圧が強く出る。灰冠委任の羊皮紙、全て同じ“角度”の偏り」
拡大鏡を宰相に渡し、王妃に香りの違いを示し、王に小瓶を差し出す。
王は短く嗅ぎ、桂皮の香に頷いた。
「……確かに、違う」
王太子の顔色が薄くなる。
聖女は静かに目を伏せ、扇の縁で指を隠した。
わたくしは台上の最後の一枚――灰冠委任の写しを掲げた。
「“灰冠”は、王意の仮面をかぶり、受領名を“匿名”にし、“百合庫”に流し、そして――昨日、返還の列の上から“王の意志で白”と掲げました。
ですが、王の意志はここにあります。――“王命には大臣副署、王妃庁の記載、正規の蝋”」
宰相が深く息を吐く。「結論は明白だな」
公爵が一歩、前へ。「秩序を戻すため、“印監令”を提案する。
一、王命・公金・大封の押印は“二重封”――王印蝋と監査印蝋の二色封。
二、押印角・押圧を“印影台帳”に常時記録する。
三、蝋の調合と保管は“王室印監局”を新設し一元管理。
四、違反時は即時“公開”」
王妃が扇を伏せた。「採るわ」
王の肘掛けが軽く鳴る。「印は秩序だ。……“印監令”を今日付で施行する」
広間の端で、「ざまぁ」と小さく噛んだ音がした。
王太子の喉仏が上下する。聖女はその横でわずかに肩を丸め、視線を逃がさない。
(第一のざまぁ。――けれど、冠はまだ剥がれていない)
* * *
朝議散会の後、控えの間。
わたくしたちは即席の“印影台”を広げ、“灰冠”の羊皮紙を時刻順に並べていた。
「時刻表記――“丑二刻”“卯一刻”。……夜明け前と朝のはじめに偏っている」
監査官が顎に手を当てる。
「王室書記局の交替印の時間だ」
公爵の声。
「夜明け前、当番が入れ替わる。その狭間なら、監督が緩む」
「押印角は左下から右上。――左利き」
わたくしは筆跡の癖も重ねる。数字の“4”の尻が丸い、“7”の横棒が長い――以前、会計局の“回し”に見た癖。
「候補は絞れる」
監査官が名簿を繰る。「王室書記局・第二書記官グイード。左利き。交替当番“丑の二刻”に配置」
「参りましょう」
公爵の言葉は短く、足は速い。
書記局の廊下は薄暗く、古い羊皮紙と墨の匂いが満ちる。
扉を開けると、痩せた男が机に凭れ、急ぎ手を動かしていた。
顔を上げた瞬間、目に射が走る。――逃げの目だ。
「王室書記局第二書記官グイード、尋問」
公爵の低声に、男は椅子を倒して立ち上がり、机の上の油皿へ手を伸ばした。
油に紙を――燃やすつもり。
「させませんわ」
わたくしは水差しを掴み、油皿へ斜めに注ぐ。油は水に浮き、火は一瞬遅れて眠る。
男の顔が歪む。次の瞬間、近衛の手が手首を絡めた。
「白は白のまま、だろう?」
公爵の言葉に、男は首を振る。「俺は……命じられた通りに……!」
「命じたのは誰?」
わたくしは机の抽斗を引く。中から箱――鈴。礼礼局副官と同じ造り。
もう一つ、小袋。灰と松脂の匂い。
そして、巻紙――“影蝋工房・納入書”。
「……蝋の出所」
公爵の眼差しが鋭くなる。「場所は」
「河岸の染物問屋の裏、地下に、工房が……“灰冠”様の、御用達で……!」
「“様”?」
監査官が噛みつく。
「し、知らねえ! 姿は見たことがねえ! 指示は、鈴で……鈴の鳴りで……!」
鈴の鳴り。副官セウェリオの腰飾り。礼礼局と書記局――線が繋がる。
わたくしは巻紙を開き、印影を拡大鏡に当てた。
“影蝋工房”の印の角――ごく小さな欠け。
(また、欠け。……工房で“欠け”を押し続けた? それとも“灰冠”がわざと)
「工房へ――行く」
公爵の判断は早い。「だが、今は“印監令”の布達が先。グイードは拘束。机上の物は封。……オスカー」
老執事が黙って現れ、封蝋と番号札を配る。
蝋の香――桂皮と青。王印蝋。
わたくしは安堵と共に、小瓶をそっと撫でた。
「午後、布達。夜――工房」
「承知」
公爵はそれだけ言い、部屋を出る前に一瞬、わたくしの手袋を軽く摘んだ。
緊張の糸が、ほんの少しだけ緩む。
* * *
午後。王都・公示広場。
“印監令”の布達。
王妃が布を掲げ、宰相が項目を読み上げる。
“二重封”“印影台帳”“印監局”。
わたくしは実演台で二色封を示し、押印角の採り方を説明する。
民衆の目が“白から灰へ”移るのを、はっきり感じた。
祈りの“白”ではなく、秩序の“白”へ。
広場の端で、王太子の後援会の者たちが悔しげに舌打ちをする。だが、声は小さい。
百合同盟代表は肩をすくめ、「規則がある方が商いは楽だ」と苦笑した。
「――ざまぁ」
石畳のどこかで、誰かが呟いた。
音は派手ではない。けれども、確かな重みで落ちた。
* * *
夜。河岸の染物問屋街。
川霧が低く這い、染色の匂いと湿った布の重さが鼻にかかる。
“影蝋工房”の入口は、染物店の奥の半地下。
梯子を下りると、蝋と松脂、灰の匂いが濃い。
壁に棚。白、赤、黒、そして――灰色の蝋が並んでいる。
「保全――開始」
公爵の声で、兵が入口と窓穴を塞ぐ。
わたくしは作業台を一つずつ見て回る。
鋳型、温度計、粉砕したラピス……いや、これは青いガラスだ。
“偽物の青”。
「王印蝋“風”の再現。……徹底してますわね」
棚の一角に、麻袋。中は灰と、黒く煤けた貝殻。
(灰受けの残滓を“材料”に……証拠を蝋に混ぜて隠す。最悪のやり口)
作業台の下から、薄い板箱。
開けると、押印具の“替え枠”が七つ。角の欠けは――三つ同じ、四つ違う。
(“欠け”は工房側の癖か、注文の“仕様”か)
「人影、奥!」
兵の声。
奥の小部屋の布がはね、痩せた男が外へ逃れようとする。
公爵が手を上げる――鉄鎖が走り、足を絡め取った。
男は床に倒れ、息を荒げる。手には、鈴。礼礼局のものと同型。
「工房主か」
公爵の問いに、男は歯を食いしばる。「ち、違う! 俺はただ、蝋を――注文通りに――」
「注文主の名。――“灰冠”」
「知らねえ! いつも“代理”が来る! 鈴が鳴って、金が置かれて……!」
鈴。
わたくしは男の掌を取り、指の腹を観る。蝋の色。
白、赤、黒、そして、灰。
爪の根に青い粉。砕いたガラス。
――ラピスは使っていない。
「“王印蝋”の青は偽物。香りの桂皮も無し。――つまり、“灰冠”は王の蝋を完全には偽装できなかった」
「王城の調合室は別だ」
公爵が短く言う。「だが、工房は“灰を混ぜた冠”の手。……押さえるには十分」
封印札が次々と打たれる。
蝋の匂いに混じって、どこか金属の冷たさ――剣の匂いが流れた。
公爵がわたくしの肩越しに視線を巡らす。
「レティシア」
「はい」
「ここが“灰冠”の手なら、頭は――王のさらに近くにいる」
手袋の内側で、指が汗ばむ。
(王に冠を掲げ、“意志で白”と言い切る者。――誰)
作業台の隅。
羊皮紙の切れ端が一枚。
“灰冠”の紋――簡略化された冠輪――と並んで、小さな記号。
〈□に二本線〉
「……これ、見覚えが」
わたくしは扇子の内側に挟んだ“王室秘蔵庫”の鍵札の写しを取り出す。
“特別使途”の札の角に、同じ記号。
〈□に二本線〉――王室内務審の仕分け印。
「内務審」
公爵の瞳に陰が差す。「王の身近で、王の“日常”を回す部署だ。……王太子付き侍従長のラインに掛かる」
「殿下、ですの――」
「断定はしない」
彼は首を振る。「だが、殿下の“側”に、“冠”がいる」
静寂。
蝋の滴る音だけが、暗い部屋の隅で続く。
「――戻るぞ。今夜はここまでだ」
公爵は短く言い、封印札と番号の記録を確認する。
帰り際、梯子の手前で立ち止まり、さりげなくわたくしのリボンを結び直した。
「解けていた」
「……ありがとうございますわ」
「第四条」
「ええ。守っています」
彼の口角が、わずかに上がる。
それだけで、胸の緊張が少しほどけた。
* * *
帰路の馬車。
窓の外で川霧がほどけ、遠くで鐘が一度鳴る。
オスカーが膝掛けを整え、蜂蜜湯を差し出す。
「お嬢さま、喉を」
「ありがとう、オスカー」
湯気に桂皮の香。王印蝋と同じ、軽い甘さ。
扇子を膝に置き、わたくしは目を閉じる。
(白は白へ――返還は進む。印は二重封に。……残るは“冠”)
馬車が石畳を曲がる。
その瞬間、車輪の音に紛れて、ひら、と膝上に何かが落ちた。
白い押し花――百合。
小さな紙片が結ばれている。
『――“冠”は、秤を笑う』
わたくしは紙片を指で挟み、静かに微笑んだ。
「笑えばよろしい。――秤は、数字で笑い返しますわ」
公爵が視線を寄越す。
硝子の黒の奥に、炎ではなく、揺るがない芯の色。
「レティシア。明朝、王城“内務審”だ」
「はい。椀と匙を数え終えた今度は――“鍵と蝋”を数えますの」
馬車は夜を割り、王都の中心へ滑っていく。
“灰冠”の影は濃くなった。
だが、秤はもう、こちらに傾き始めている。
第四条――笑うこと。
わたくしは、静かに息を吐き、口角を上げた。
ざまぁの音は、まだ小さい。
けれど、次の朝議で――きっと、はっきりと鳴る。