第10章
――返還第一便の余韻がまだ乾かぬ夜明け前。
王都は寝静まり、石畳が月の光を抱いている。
ヴァレンシュタイン公爵邸・小広間。
机の上には『返還台帳』の写し、押収帳、そしてあの薄い押し花――白百合が一枚、銀盆に置かれていた。
わたくしは手袋を外し、紙片の縁を指先でなぞる。湿りは取れ、文字は乾いている。
(“灰冠”……王の意志で白、だと)
公爵は壁際の暖炉に背を向け、静かに地図を広げていた。燭の影が彼の輪郭を幾分か柔らげる。
「“灰”の語は、物質よりイメージだ。灰は燃え残り、跡形を消すつもりで残す。冠は権威だ。――結びは悪い」
公爵の言葉はいつも簡潔で、しかし意味は深く落ちる。
彼の指先が地図上の王宮から南へ、僅かな点線をなぞった。
「ここだ。――王の私室と、王家の“秘蔵庫”。公的帳簿には出ない、王室の“寄進”と“特別使途”の保管場所」
「王家の秘蔵庫?」
わたくしは驚きを押し殺し、声を低くする。
「王の名で行われる事案は、形式上“王意”。だが、王意を“冠”と称して行使する者が居れば、それは別物だ。――今夜、そこへ入る」
わたくしの心拍が速くなる。王城に踏み込む――しかも“私室”と“秘蔵庫”へ。公爵の許可と手腕がなければ、命取りだ。
「護衛は?」
わたくしが問うと、公爵はわずかに顎を引いた。
「近衛、監査官、法務院――表向きの同行者は揃える。だが、君は目立たぬこと。帳面を持つ者として、君自身が“証”であることを忘れるな」
「見張られるより、裏から入る。――了解しました」
* * *
夜更け、王城の北側。月は厚い雲の背に隠れ、石壁は深い藍に沈む。
近衛の一団が門前で控え、監査官と法務書記は仮面のように無表情だ。公爵は軍帽を低く被り、わたくしは白手袋の上に黒の薄手外套を羽織る。
「合図は?」
わたくしは耳元で囁く。
「鐘が二回に入ったら、回廊の扉が開く。——礼礼局の書類移送だ。そこで、秘蔵庫の鍵を奪取する。動きは一瞬だ」
「一瞬で、ですわね」
公爵が短く頷く。彼の掌がわたくしの手袋越しの指先をつい、と掴む。温度が伝わる。簡潔な安心。
扉が静かに開く。回廊を一団が通過し、木製の車に積まれた箱がゆっくりと運ばれる。月明かりの隙間から、公爵の合図が走る。近衛が箱を押し、道を塞ぐふりをして――その瞬間、二人の兵が車輪を止め、鍵のかかった箱に短剣を刺した。
「鍵、取れ」
公爵の命は低いが即効だ。箱の錠を外すと、内側に小さな木箱がもう一つ。蓋を開けると、蝋で封じた羊皮紙の束が見えた。封蝋は――黒っぽく、灰が混じる。ラピスの青は無い。香りも重い。
「灰蝋――偽りの冠蝋だ」
監査官が息を詰める。「王城の印蝋とは別物。だが、封の中の筆跡は……」
羊皮紙を広げると、そこには短い文言が幾つか。読めば、王家名義の“特別遣い”の記録である。だが、受領者名の欄に空欄が複数――そして“灰冠委任”と書かれた判が押されていた。判の紋は簡素で、王家の紋ではない。冠を模した簡略化された輪――それが“灰冠”の紋らしい。
「立会いに入れてくれ」
わたくしは息を詰め、指で頁を撫でる。筆跡の癖、承認印の角、文字の詰まり方――すべて、これまで見た“回し”と一致する。
「“灰冠”は王意の仮面を被って、受領を黒にする仕組みだった。王の名を借り、口座を開き、裏で“保管”と“運搬”を行う。――受領者はいつも“匿名”か“百合庫”だ」
「……王を騙す“冠”が、王の名で動いている。もし公儀に出せば、王は大恥をかきかねない」
公爵の瞳がわずかに闇を帯びる。彼はゆっくりとページを揃え、羊皮紙を折り直した。
「だからこそ、方法を間違えぬ。今は“証”を繋げること。王を庇いつつ、冠を剥がす。王家と公の秩序を守るために」
「王を守る――冠を剥ぐ。矛盾のようですけれど、必要なのですね」
わたくしは深く息を吸い、胸元の徽章を確かめる。金属がひんやりと冷たい。公爵の手が一度、軽くそれを撫でた。
* * *
回廊を抜け、外へ出ると、月は一瞬だけ顔を出した。石畳に影が伸び、わたくしは背を正す。公爵は低く命じる。
「明朝、王城内部で公的告示を行う。だが、その場は我らの“場”にしない。――ここから先は、君の仕事だ。帳を広げ、“灰冠”の線を一本ずつ繋げよ。私は人の手を動かす」
「数字で、印で。承知しました、公爵様」
公爵の瞳が、少しだけ柔らかくなる。夜明けの冷気が、二人の間に新しい約束のように落ちる。
(“灰冠”は冠、だが冠は影をかぶっていた。――今、その影を掴む)
公爵がわたくしの手に再び触れ、指先が短く締め付ける。
その触れは言葉より確かで、夜の冷たさを忘れさせる。
「背中は、私が見る」
彼は低く囁いた。
「前だけを、見ます」
わたくしは羊皮紙を懐にしまい、黒の外套を翻して歩き出す。王都の朝はまだ薄く青い。だが、その青は、これから確かに変わるだろう。
“白”を返し、“灰冠”を剥ぐための戦いは、今、宮廷の深みへと向かっているのだから。