第1章
――水晶のシャンデリアが千の星を撒き、楽団が優雅に弦を鳴らす夜。
王都大劇場の中央、白い大理石の階段に、彼は立っていた。
金糸の肩章、宝石を散らした剣帯。第一王子レオンハルト殿下――かつての、わたくしの婚約者。
「レティシア・アルベール。今日をもって婚約を破棄する。理由は明白――聖女アンジェリカへの度重なる嫌がらせだ」
ざわ、と空気が揺れた。視線が刺さる。
――悪役令嬢、だそうだ。物語の“踏み台”。前世の記憶を取り戻したのは、ほんの一昨日のこと。
《乙女ゲーム『瑠璃の王冠』》の悪役令嬢、レティシア。
結末は処刑か国外追放。……はい、知っている。けれど。
(よりにもよって、テンプレど真ん中で来ましたわね、殿下)
わたくしは扇子を閉じ、ゆっくりと一段、前へ。
真紅の裳裾が星屑を撫で、靴音が谺した。
「ご通告、確かに承りました。ですが、三点だけ“開示”の機会を頂戴できますか?」
殿下の眉が不快に動く。「開示だと?」
「ええ。順番に三点――一、嫌がらせの事実認定。二、その根拠。三、最後に、婚約破棄に付随する清算の件ですわ」
場の空気がまた、ざわつく。わたくしは視線を上げる。宰相、財務卿、監査官――狙いの面々、全員、出席。
そして――
黒い軍礼服、肩章も飾りも極力そぎ落とした直線の美学。
冷徹公爵、と囁かれる男。ヴォルフラム・ヴァレンシュタイン。
漆黒の瞳がこちらを一瞥し、興味を測るように瞬きをひとつ。……はい、予定どおり。
「まず一。わたくしが“聖女様に嫌がらせをした”とされる日付の一覧がこちら」
侍女に合図。銀盆に束ねた羊皮紙が運ばれ、会場中央の演説台に置かれる。
日付、場所、目撃証言の“出所”。――前世のわたくしは会計屋。帳簿の匂いで、嘘は嗅ぎ分けられる。
「王立学園の温室、図書棟、聖堂廊――すべて“偶然”の重なりにしては、あまりに整然としていますわ。証言者は三名。うち二名は――」
扇子の先で、名を示す。
「――王太子後援会の給費から、近月に“特別手当”を受け取っておられる」
どよめき。殿下の頬がぴくりと引き攣る。
宰相が低く唸った。「何を根拠に――」
「二点。根拠の開示に移ります。財務卿、監査官殿。こちらは『王国会計局・副本帳』。昨晩、監査局の保全命令に基づいて、正式に“写し”を受領しました」
侍女が第二の銀盆を運ぶ。封蝋に監査局印。
わたくしは封を割り、糸綴じを開く。
――二式、簿記。複式の轍は嘘を許さない。収入があるなら、必ず支出に足跡が残る。
「“王太子後援会”名義の支出……『慈善金:アンジェリカ聖女孤児院』。ここまでは麗しい。ですが同日付で、なぜか“王太子鷹狩別荘・石材補修費”が、まったく同額、同時刻に。摘要欄の記入筆跡、そして承認印。――監査官殿?」
監査官が盆の上の帳面を覗き込み、顔色を変えた。
「……この承認印は、確かに王太子殿下の……」
割れたさざ波が、一気に大波になる。貴族たちの囁き、楽団の音が止む。
殿下が蒼ざめ、「で、でもそれは――」と口走るより早く、わたくしは最後の頁を示した。
「さらに、証言者二名の“特別手当”。支払元は後援会、承認印は……王太子殿下。お可哀想に。聖女様の清廉のために支払われた“慈善”は、別荘の石に化け、証言は金で磨かれた。――これで“嫌がらせ”の根拠は崩れますわね?」
扇子をぱちん、と鳴らす。
場の温度が一気に冷える。
殿下は唇を震わせ、「アンジェリカがそんなことを――いや、私がそんなことを命じるはずが――」
「三点目。婚約破棄に付随する清算。殿下、契約書第四条。『いかなる一方的破棄においても、名誉毀損の復旧及び持参金の全額返還を以って、解消の条件とする』。本日付で、わたくしの名誉は“監査局の臨時告示”により回復、加えて持参金を直ちにご返還くださいませ。――あ、あと」
わたくしは柔らかく微笑む。
「後援会の帳簿、改竄の痕跡、すべて監査官立会いで控えを作りましたの。こちら“公開質問状”を添えて、明朝の広報掲示へ。王都の皆様、きっとお喜びになりますわ」
ざまぁ。
誰かが喉の奥でその言葉を転がした気がした。
殿下の手が痙攣し、剣の柄に伸びる。宰相が慌てて押さえる。
空気が荒れる寸前、低く通る声が、あっさりと騒ぎを割った。
「――証憑は、こちらで預かろう」
漆黒の軍礼服が一歩、床を鳴らす。
ヴォルフラム公爵が、まっすぐ演説台へと歩み、わたくしの前で立ち止まった。
近くで見ると、硝子のように冷たい瞳だ。けれど、底は静かに温かい。
「監査官、随行せよ。財務卿、同席。――王家の威信に関わる。速やかに事実関係を確定する」
短く、揺らがない命令。即座に動く兵と吏官たち。
公爵はわずかに視線を落とし、わたくしへ囁く。
「アルベール嬢。……見事な“開示”だ」
「ご評価、光栄に存じますわ。前世で少々、帳簿に親しんでおりましたので」
「前世?」
「乙女ゲームの話、と申し上げたら、信じていただけまして?」
「信じるかどうかは後で決める。――だが、君は“結果”を示した」
彼は指先だけで、会場の喧騒を示す。
王族席では、王が静かに目を閉じ、王妃が聖女の肩を抱いている。聖女アンジェリカは涙に濡れた瞳で、なおも“清らかさ”を演じる。……ええ、演技は上等。帳簿はもっと正直ですけれど。
公爵は一歩、さらに近づいた。低く、他者には届かない声量で。
「君は今夜、この場で“悪役”の看板を剥がした。……だが、殿下に恥をかかせた代償は重い。王党は報復を選ぶだろう」
「承知のうえですわ」
「ならば、一つ提案がある」
彼は懐から白手袋の片方を取り出し、わたくしの前へ差し出した。
舞踏会の只中、軍人の所作で、あまりにも直截に。
「――契約結婚だ。期限付きで構わない。名目は“保全”。君の身の安全と、会計改革の後ろ盾を、私が引き受ける」
会場が、別種のざわめきで満ちる。
わたくしは思わず、笑ってしまった。心の底から、軽く。
(冷徹公爵、ですって? ――いいえ、殿下よりずっと、人の理を知っておられる)
「条件を伺っても?」
「三つ。第一に、互いの自由を侵さない。第二に、政治と会計は私が守る。第三に……君は、笑っていること」
「最後だけ、少々、難題ですわ」
「慣れる」
短い言葉に、ほんの僅かな温度。
――悪役令嬢は、物語の“踏み台”を降りる。
わたくしは扇子を畳み、白手袋に指を添えた。
舞踏会の天井で、千の星がまた瞬く。
「承知いたしました、公爵様。……まずは“契約”から、順番に参りましょう」
その瞬間、聖堂側の扉が勢いよく開き、金髪の騎士が駆け込んだ。
「報告っ――王太子後援会の会計室で、焼却の煙を確認! 証拠隠滅の動きあり!」
会場が爆ぜた。
ヴォルフラム公爵はすぐに踵を返し、低く命じる。
「――始めるぞ。保全だ。全員、持ち場に」
わたくしは裳裾を握り、彼の背に続く。
“ざまぁ”は、まだ序章。
悪役令嬢の反撃は、この夜、ようやく口火を切ったのだから。