第8話 夜鳴き屋台
夜の街は、昼の喧騒を忘れたかのように冷えていた。
その中で、屋台から漂う湯気と香りは、まるで灯台のように人を引き寄せる。
「はいよ、スープ二つ!」
分厚い腕で鍋をかき混ぜながら、ガルシアは笑顔を作った。
屋台の看板には「夜鳴き屋台」と書かれている。日雇い労働者や孤児たちが、寒さを凌ぎにやってくる場所だ。
今日のスープは、根菜と安い肉を煮込んだもの。
肉の量は少ないが、味は濃い。ガルシアは「空腹は塩気でごまかせる」と昔から信じていた。
だが、信じても借金は減らない。
昼間は港で荷運びをしているが、稼ぎの半分は借金の返済に消える。
残りはこの屋台の仕入れと、離れて暮らす息子の養育費に。
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(俺は今、屋台の釣り銭箱の中にいる)
さっき、若い女がスープを二杯分払ったときの金だ。
彼女は笑っていたが、目の下の隈は隠せていなかった——マリナだ。
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マリナは屋台の端に腰を下ろし、隣に少女を座らせた。
蜂蜜パンの包み紙を膝に置き、湯気の立つスープを受け取る。
「ありがとう、ガルシアさん」
「礼はいらねえよ。どうせ余りもんだ」
口ではそう言いながら、ガルシアは二人の器に少しだけ多めに肉を入れた。
それを見て、向かいに座っていた少年が羨ましそうにスプーンを握り直す。
屋台の周りには、寒さを避けて労働者たちが集まってくる。
「今日は魚の荷が遅れたってよ」
「港の税がまた上がったらしい」
愚痴混じりの会話が飛び交う中、ガルシアは耳を澄ませる。
港の税金の値上げは、仕入れにも直結する。
——また物価が上がるな。
ふと、路地の影から痩せた少年が顔を出した。
着ている服は薄く、唇は紫色だ。
「……スープ、ください」
持っているのは小銅貨一枚。
「おう」
ガルシアは受け取った小銅貨を釣り銭箱に放り込み、器いっぱいにスープをよそった。
少年は何も言わず、器を両手で抱えて黙々と飲み始める。
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(人は腹が減っているとき、話すより先に食べる)
それでも、金が先に動くのがこの世界だ。
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屋台が一息ついたころ、港の仲間がやってきた。
「ガルシア、明日から荷運びは半分になるらしい」
「は?」
「商会が港の仕事をまとめて取ったんだと。俺らは呼ばれねえ」
ガルシアは無意識に鍋の中をかき混ぜた。
港の仕事が減れば、借金の返済は滞る。息子に送る金も減る。
スープ鍋の湯気が、急に薄く感じられた。
——屋台はもう続けられないかもしれない。
そんな考えが、初めて現実味を帯びて頭をよぎった。
閉店の支度をしていると、マリナが小声で言った。
「……いつもありがとう。お金、今度まとめて払うから」
「気にすんな。客が来てくれりゃ、それでいい」
本音を言えば、金は欲しい。だが、彼女とその妹がこの場所に来なくなる方が、もっと困るような気がしていた。
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(俺は釣り銭箱の底で、揺れながら考える。
俺たちはいつも、人の温もりと計算の間で使われる。
どちらが本当の価値なのか、まだ答えは出ない)
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夜が更け、屋台の灯を消すと、街は闇に沈む。
路地裏で誰かがくしゃみをした。
その音を背中で聞きながら、ガルシアは明日の仕入れを思い、胸の奥でため息を押し殺した。