第3話 酒場の夜
夕暮れの鐘が鳴る頃、街の東門近くの酒場〈赤鹿亭〉は、もう騒がしさで満ちていた。
獣脂を焚いたランプの明かりが壁を橙色に染め、樽から注がれるビールの泡が白く弾ける。
木のテーブルを叩く音、笑い声、時おり飛び交う罵声——それらは日常のBGMだった。
マリナは笑顔で皿を運び続けていた。
肩までの黒髪を後ろでざっと結び、白いエプロンはすでにワインの染みでまだら模様。
客の間を軽やかにすり抜け、グラスを回収し、注文を復唱する。
笑顔は完璧——ただし、内側は石のように固くなっている。
——妹の学費、来月が期限だ。
——あの人にバレないように払わなきゃ。
「マリナ! こっち、ビール三つ!」
カウンターの端から常連の叫び声。
「はーい!」と明るく返事しながら、トレイを抱えて樽の前へ。
樽の横では、筋肉質な男が肘をついてこちらを見ていた。
恋人——いや、最近はその言葉を口に出せなくなっている。
ダリオ。港の荷役で日銭を稼ぎ、時々は奢ってくれる。
ただ、酒が入ると——手が出ることもあった。
マリナは目を合わせず、淡々とジョッキを満たす。
その横で、彼が低く囁いた。
「今日、銀貨は持ってきたか?」
「……学費に回すって言ったでしょ」
「お前なぁ……」
言葉の先は、店の喧噪に紛れたが、彼の指が机を叩く音だけは耳に残った。
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(この女の声は、外向きと内向きで別人だ)
——俺は今、カウンターのチップ皿の中にいる。
銀貨や銅貨に混ざって、俺——金貨が一枚。
酒場に来た兵士の誰かが、景気づけに置いていったらしい。
けれど、ここでは金貨は釣り銭泣かせだ。すぐに誰かの手に渡るだろう。
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夜も更け、店はさらに騒がしくなった。
酔っ払い同士の口論が始まり、椅子が倒れ、マリナは急いで割れたグラスを片付ける。
そんな時、裏口から小さな影が覗いた。
「お姉ちゃん……」
声を潜めて入ってきたのは妹のリサだ。
まだ十二歳。小さな布袋を抱えている。
「こんな時間にどうしたの」
「学費のことで……。先生が、来週までに払わないと授業に出せないって」
マリナの心臓が一瞬止まりそうになる。
来週——ダリオの機嫌を伺って小出しにするつもりだったが、もう猶予はない。
「……待ってなさい」
マリナはカウンターの奥へ戻り、チップ皿に目をやった。
そこには俺が、銀貨たちの中で無言を決め込んでいる。
金貨一枚あれば、今月分の学費は十分だ。
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(彼女は俺を一瞬だけ見て、すぐに目を逸らした。
——盗むつもりはない。ただ、誰も困らない形で“移す”だけ)
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マリナは客の間を再び笑顔で歩き、カウンターに戻った瞬間、手際よく俺を銀貨三枚の下に滑り込ませ、そのまま布袋へ移した。
動きは自然で、誰にも気づかれない。
——こういう手際は、彼女の生きる術のひとつなのだろう。
裏口に戻り、リサの手に布袋を押しつける。
「これで明日、先生に払って。何も言わずにね」
「……ありがとう、お姉ちゃん」
リサは小走りで闇に消えていった。
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(俺はまた新しい旅に出る。けれど、今回は“嘘”に包まれた出発だ)
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戻ると、ダリオがまだカウンターにいた。
「裏で何してた?」
「皿を片付けてたのよ」
即座に笑顔で返す。その笑顔は、彼が探ろうとする何かを跳ね返すための盾だった。
夜の終わり、マリナは賄いのスープをすすりながら、ため息を一つだけついた。
——嘘は疲れる。でも、生活を守るには必要な時もある。
彼女は自分にそう言い聞かせ、空になった皿を重ねた。
その頃、俺はリサの小さな布袋の中で揺れていた。
次に出会うのは、学校の先生か、それとも——。