表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

第2話 パンと薬草


 朝の市場は、まだ夜の冷たさを少しだけ残している。

 木の屋台からは麦粉や塩の匂いが漂い、パン焼き窯の煙が白く立ち上っていた。


 リーネは片手に革袋を握りしめ、もう片方でエプロンの紐を結び直す。

 中には昨日、父が店主から借りた一枚の金貨と、細かい銀貨が数枚。

 その金貨は、昨夜からずっと彼女の掌の温度で温まっている気がした。


「……母さん、起きてるかな」

 小声でつぶやくと、胸の奥が少し締めつけられる。

 母は三日前から熱を出し、食欲も落ちていた。

 薬草茶はもう底をつき、残っているのは干からびたカモミールの茎だけだ。


 歩きながら、彼女は市場の喧騒に耳を傾ける。

 「塩一袋、銅十七!」「昨日より値が上がったぞ!」と叫ぶ声。

 戦の噂と干ばつで、どの品もじわじわと値が上がっている。

 銀貨で足りるはずの薬草が、金貨を持っていかなければ買えない日が近づいている——そう感じさせる空気だ。


---


(この手の中の温度が、彼女の心拍数を早めている)

——金貨の俺は、昨夜から彼女の細い指に包まれていた。

 指先は冷えているのに、掌は汗でじっとりと湿っている。

 その揺れと速さで、彼女がどれだけ急いでいるかがわかる。


---


 薬師の店に着くと、リーネは戸口の前で深呼吸をした。

 古びた木の扉を開けると、乾燥したハーブの香りと、瓶のカチャリという音が迎えてくれる。


「おや、朝早くからどうした?」

 カウンターの奥で、老薬師ヘルムートが腰を伸ばした。

 長い白髭に、年季の入った革の前掛け。

 その目尻の皺が、いつも少しだけ安心をくれる。


「母が……熱が下がらなくて。昨日の薬草も全部飲ませたけど、まだ……」

「わかった。少し待っていなさい」


 ヘルムートは手際よく棚から数束の薬草を取り出した。

 青緑色の葉、白い花、そして茶色い根。

 包み紙の上に並べながら、ちらりとリーネの手元を見た。


「金貨を持ってきたのか」

「はい。これで……できるだけ良い薬草をお願いします」


 リーネは革袋を開け、俺——金貨を取り出してカウンターに置いた。

 木の表面に当たる硬い音が、小さな店に響く。


---


(彼女は俺を置くとき、ほんの少しだけ力を込めた)

 まるで「これが最後の切り札」だと言わんばかりに。

 俺は硬貨として無表情だが、その重みは俺にも伝わってくる。


---


「……これは王都鋳造だな。重さも刻印も問題ない」

 ヘルムートは俺を指先で回し、裏表を確かめた。

「お釣りは銀貨で返す。それと——この黄色い花はおまけだ」

「おまけ……?」

「熱を下げる茶になる。味は少し苦いが、よく効く」


 リーネは包みを胸に抱きしめた。

 その目が少し潤んでいることに、老薬師は気づかないふりをした。


「……ありがとうございます」

「礼はいい。母上に早く飲ませてやりなさい」


---


(おまけ。商売では余計なことかもしれないが、今の彼女にとっては何よりの価値だ)

 価値は金属の重さじゃない——昨日の俺の考えは、どうやら正しかったらしい。


---


 家に戻る途中、リーネは市場の端にあるパン屋へ寄った。

 薬草だけでは母の力は戻らない。

 柔らかい白パンを買って帰れば、きっと喜んで食べてくれるはずだ。


「パン一つ、銀貨三枚だよ」

 パン屋の女主人は、焼きたてのパンを紙に包みながら言った。

 以前は二枚で買えたはずだ、とリーネは思う。

 値上げの理由は簡単だ——麦の仕入れが高くなっているから。


 銀貨三枚を差し出すと、女主人は小声で囁いた。

「お母さん、まだ具合が悪いのかい? これ、おまけしておくよ」

 紙袋の中には、もう一つ小さな丸パンが入っていた。


「……ありがとうございます」

 また胸が熱くなる。

 昨日と今日、二度も「おまけ」を受け取った。

 それは、この街の人たちがまだお互いを気にかけている証のように思えた。


---


(“おまけ”は記録に残らない取引だ。帳簿には書かれないし、計算にも出てこない。

 でも、人の記憶には残る。そういう価値もあるんだな)


---


 家に着くと、母は薄い毛布にくるまれて横になっていた。

 顔色は悪いが、目を開けると弱々しく笑った。


「ただいま。薬草と……パンだよ」

 薬草を煎じ、湯気の立つ茶を母に差し出す。

 その香りは、少し苦くて、同時にどこか懐かしい。

 母は一口飲み、しばらくしてから小さなパンをかじった。


「……おいしいね」

 その一言で、リーネの肩から力が抜けた。


---


 夕方、日が傾く頃。

 リーネは空になった薬草包みと紙袋を片付けながら、革袋の中の銀貨を数えた。

 残りはわずか。

 けれど今日は、金貨を手放したことで、確かに何かを得られた気がしていた。


(俺はまた別の手に渡るだろう。次は、どんな物語の真ん中に置かれるのか——)


 その夜、金貨の俺は老薬師の小箱の中で静かに眠った。

 外ではパン屋の煙突から、まだほんのりと焼きたての匂いが漂っていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ