第2話 パンと薬草
朝の市場は、まだ夜の冷たさを少しだけ残している。
木の屋台からは麦粉や塩の匂いが漂い、パン焼き窯の煙が白く立ち上っていた。
リーネは片手に革袋を握りしめ、もう片方でエプロンの紐を結び直す。
中には昨日、父が店主から借りた一枚の金貨と、細かい銀貨が数枚。
その金貨は、昨夜からずっと彼女の掌の温度で温まっている気がした。
「……母さん、起きてるかな」
小声でつぶやくと、胸の奥が少し締めつけられる。
母は三日前から熱を出し、食欲も落ちていた。
薬草茶はもう底をつき、残っているのは干からびたカモミールの茎だけだ。
歩きながら、彼女は市場の喧騒に耳を傾ける。
「塩一袋、銅十七!」「昨日より値が上がったぞ!」と叫ぶ声。
戦の噂と干ばつで、どの品もじわじわと値が上がっている。
銀貨で足りるはずの薬草が、金貨を持っていかなければ買えない日が近づいている——そう感じさせる空気だ。
---
(この手の中の温度が、彼女の心拍数を早めている)
——金貨の俺は、昨夜から彼女の細い指に包まれていた。
指先は冷えているのに、掌は汗でじっとりと湿っている。
その揺れと速さで、彼女がどれだけ急いでいるかがわかる。
---
薬師の店に着くと、リーネは戸口の前で深呼吸をした。
古びた木の扉を開けると、乾燥したハーブの香りと、瓶のカチャリという音が迎えてくれる。
「おや、朝早くからどうした?」
カウンターの奥で、老薬師ヘルムートが腰を伸ばした。
長い白髭に、年季の入った革の前掛け。
その目尻の皺が、いつも少しだけ安心をくれる。
「母が……熱が下がらなくて。昨日の薬草も全部飲ませたけど、まだ……」
「わかった。少し待っていなさい」
ヘルムートは手際よく棚から数束の薬草を取り出した。
青緑色の葉、白い花、そして茶色い根。
包み紙の上に並べながら、ちらりとリーネの手元を見た。
「金貨を持ってきたのか」
「はい。これで……できるだけ良い薬草をお願いします」
リーネは革袋を開け、俺——金貨を取り出してカウンターに置いた。
木の表面に当たる硬い音が、小さな店に響く。
---
(彼女は俺を置くとき、ほんの少しだけ力を込めた)
まるで「これが最後の切り札」だと言わんばかりに。
俺は硬貨として無表情だが、その重みは俺にも伝わってくる。
---
「……これは王都鋳造だな。重さも刻印も問題ない」
ヘルムートは俺を指先で回し、裏表を確かめた。
「お釣りは銀貨で返す。それと——この黄色い花はおまけだ」
「おまけ……?」
「熱を下げる茶になる。味は少し苦いが、よく効く」
リーネは包みを胸に抱きしめた。
その目が少し潤んでいることに、老薬師は気づかないふりをした。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。母上に早く飲ませてやりなさい」
---
(おまけ。商売では余計なことかもしれないが、今の彼女にとっては何よりの価値だ)
価値は金属の重さじゃない——昨日の俺の考えは、どうやら正しかったらしい。
---
家に戻る途中、リーネは市場の端にあるパン屋へ寄った。
薬草だけでは母の力は戻らない。
柔らかい白パンを買って帰れば、きっと喜んで食べてくれるはずだ。
「パン一つ、銀貨三枚だよ」
パン屋の女主人は、焼きたてのパンを紙に包みながら言った。
以前は二枚で買えたはずだ、とリーネは思う。
値上げの理由は簡単だ——麦の仕入れが高くなっているから。
銀貨三枚を差し出すと、女主人は小声で囁いた。
「お母さん、まだ具合が悪いのかい? これ、おまけしておくよ」
紙袋の中には、もう一つ小さな丸パンが入っていた。
「……ありがとうございます」
また胸が熱くなる。
昨日と今日、二度も「おまけ」を受け取った。
それは、この街の人たちがまだお互いを気にかけている証のように思えた。
---
(“おまけ”は記録に残らない取引だ。帳簿には書かれないし、計算にも出てこない。
でも、人の記憶には残る。そういう価値もあるんだな)
---
家に着くと、母は薄い毛布にくるまれて横になっていた。
顔色は悪いが、目を開けると弱々しく笑った。
「ただいま。薬草と……パンだよ」
薬草を煎じ、湯気の立つ茶を母に差し出す。
その香りは、少し苦くて、同時にどこか懐かしい。
母は一口飲み、しばらくしてから小さなパンをかじった。
「……おいしいね」
その一言で、リーネの肩から力が抜けた。
---
夕方、日が傾く頃。
リーネは空になった薬草包みと紙袋を片付けながら、革袋の中の銀貨を数えた。
残りはわずか。
けれど今日は、金貨を手放したことで、確かに何かを得られた気がしていた。
(俺はまた別の手に渡るだろう。次は、どんな物語の真ん中に置かれるのか——)
その夜、金貨の俺は老薬師の小箱の中で静かに眠った。
外ではパン屋の煙突から、まだほんのりと焼きたての匂いが漂っていた。