第13話 神殿の帳簿
朝霧がまだ街路の石畳に薄く漂っていた。
鐘の音が三度鳴り、街の人々はそれぞれの一日を始める。
だが、その足取りの多くが、今朝は同じ方向を向いていた。白い尖塔のある丘の上——神殿だ。
神殿はこの街で唯一、商会も領主も口を出せない場所とされている。
表向きは信仰のためだが、実際は神殿が握る「帳簿」と「寄付金」が大きな力を持っているからだ。
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ラースの胸鎧の下で、俺は硬貨同士に挟まれていた。
冷たい金属の感触と、鎧越しの熱が混ざる。
(これから何が始まる? 金の流れを追うのは銀行員だった頃から変わらないが、この街の帳簿は数字より人の息で動く)
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神殿の大扉の前で、マリナ、ガルシア、タリオが待っていた。
タリオの懐には、昨日奪った施療院の帳簿の切れ端。
「このページがあれば、抜かれた金の証拠になるはずだ」
タリオの声は小さいが、眼だけは獲物を狙う猫のようだった。
扉が軋む音とともに、中から修道服の老女が現れる。
「皆さん、どうぞ」
白い大理石の床は、外の喧騒を遠ざける。冷えた空気が足元から這い上がり、背筋を伸ばさせる。
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案内された部屋は、壁一面が木製の棚で埋まり、そのすべてに分厚い帳簿が並んでいた。
老女が机に座り、手元の灯りで顔を照らす。
「あなた方が持っているという証拠を見せてください」
タリオが懐から紙束を出す。
老女は一瞥し、無言で隣の棚から同じ年度の帳簿を取り出した。
ページをめくる音だけが部屋を満たす。
やがて、老女の指がある行で止まった。
施療院への寄付金が、確かに記されている。しかし、その金額は紙束の数字よりも大きい。
「……間違いない。この金は途中で抜かれています」
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(銀行なら即座に担当者を呼び出す場面だが、この街ではそうはいかない。帳簿の数字は権力の鏡で、鏡を割れば破片が飛ぶ)
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老女は机の引き出しから細い鍵を取り出し、別の棚を開けた。
そこには封蝋された封筒が何十通も並んでいた。
「寄付金の出入りを記した裏帳簿です。表の数字と突き合わせれば、誰が抜いたのかが分かります」
ラースが眉をひそめる。
「裏帳簿なんて、存在を公にしただけで命が危ういぞ」
「だからこそ、外に出る前に整理が必要です」
老女の声は震えていなかった。
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窓の外で鐘が二度鳴った。その直後、遠くから馬の蹄の音が近づく。
老女が顔を上げる。
「急ぎましょう。あれはヴォルク商会の私兵です」
タリオが帳簿と紙束を抱え、マリナは戸口へ駆け寄る。
ガルシアは懐から短剣を抜き、背後の廊下を睨んだ。
ラースは俺を含む金袋を腰に掛け直し、老女に短く頷く。
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廊下を走り抜ける。足音が大理石に反響し、追手の影が曲がり角から伸びてくる。
出口は二つ——正面扉は包囲される可能性が高い。老女が迷いなく地下への階段を指差した。
「古い奉納庫を抜ければ、裏庭に出られます」
階段を下りると、ひんやりとした土の匂いと、蝋燭の明かりが揺れていた。
奉納庫の棚には古びた器や布が並び、その奥に小さな木の扉。
タリオが鍵を回し、外へ押し開けると、朝霧の残る裏庭が広がった。
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裏門を出る直前、老女がラースの腕を掴む。
「金の流れを止めることは、血の流れを止めることより難しい。それでも——」
「やる」
短い答えに、老女は微笑んだ。
(この瞬間、俺は金でありながら金を拒む者の手にある。
銀行員だった頃、俺は金の正しさを疑ったことがなかった。だが、今は——)
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裏庭の外壁を越えた時、街の鐘が三度鳴った。
それは新しい一日の始まりを告げる音だが、俺には戦いの合図のように響いた。
タリオは懐の帳簿を押さえ、マリナは息を切らしながらも笑っていた。
ガルシアは短剣を収め、ラースは空を見上げる。
その瞳には、白い尖塔が遠ざかっていく姿が映っていた。
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(帳簿の数字は冷たい。けれど、それを握る手の温度が、街を動かす。
俺は金として、その温度を感じるために、まだこの流れに身を預ける)
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