表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/13

第13話 神殿の帳簿

 朝霧がまだ街路の石畳に薄く漂っていた。

 鐘の音が三度鳴り、街の人々はそれぞれの一日を始める。

 だが、その足取りの多くが、今朝は同じ方向を向いていた。白い尖塔のある丘の上——神殿だ。


 神殿はこの街で唯一、商会も領主も口を出せない場所とされている。

 表向きは信仰のためだが、実際は神殿が握る「帳簿」と「寄付金」が大きな力を持っているからだ。


---


 ラースの胸鎧の下で、俺は硬貨同士に挟まれていた。

 冷たい金属の感触と、鎧越しの熱が混ざる。

(これから何が始まる? 金の流れを追うのは銀行員だった頃から変わらないが、この街の帳簿は数字より人の息で動く)


---


 神殿の大扉の前で、マリナ、ガルシア、タリオが待っていた。

 タリオの懐には、昨日奪った施療院の帳簿の切れ端。

「このページがあれば、抜かれた金の証拠になるはずだ」

 タリオの声は小さいが、眼だけは獲物を狙う猫のようだった。


 扉が軋む音とともに、中から修道服の老女が現れる。

「皆さん、どうぞ」

 白い大理石の床は、外の喧騒を遠ざける。冷えた空気が足元から這い上がり、背筋を伸ばさせる。


---


 案内された部屋は、壁一面が木製の棚で埋まり、そのすべてに分厚い帳簿が並んでいた。

 老女が机に座り、手元の灯りで顔を照らす。

「あなた方が持っているという証拠を見せてください」


 タリオが懐から紙束を出す。

 老女は一瞥し、無言で隣の棚から同じ年度の帳簿を取り出した。

 ページをめくる音だけが部屋を満たす。


 やがて、老女の指がある行で止まった。

 施療院への寄付金が、確かに記されている。しかし、その金額は紙束の数字よりも大きい。

「……間違いない。この金は途中で抜かれています」


---


(銀行なら即座に担当者を呼び出す場面だが、この街ではそうはいかない。帳簿の数字は権力の鏡で、鏡を割れば破片が飛ぶ)


---


 老女は机の引き出しから細い鍵を取り出し、別の棚を開けた。

 そこには封蝋された封筒が何十通も並んでいた。

「寄付金の出入りを記した裏帳簿です。表の数字と突き合わせれば、誰が抜いたのかが分かります」


 ラースが眉をひそめる。

「裏帳簿なんて、存在を公にしただけで命が危ういぞ」

「だからこそ、外に出る前に整理が必要です」

 老女の声は震えていなかった。


---


 窓の外で鐘が二度鳴った。その直後、遠くから馬の蹄の音が近づく。

 老女が顔を上げる。

「急ぎましょう。あれはヴォルク商会の私兵です」


 タリオが帳簿と紙束を抱え、マリナは戸口へ駆け寄る。

 ガルシアは懐から短剣を抜き、背後の廊下を睨んだ。

 ラースは俺を含む金袋を腰に掛け直し、老女に短く頷く。


---


 廊下を走り抜ける。足音が大理石に反響し、追手の影が曲がり角から伸びてくる。

 出口は二つ——正面扉は包囲される可能性が高い。老女が迷いなく地下への階段を指差した。

「古い奉納庫を抜ければ、裏庭に出られます」


 階段を下りると、ひんやりとした土の匂いと、蝋燭の明かりが揺れていた。

 奉納庫の棚には古びた器や布が並び、その奥に小さな木の扉。

 タリオが鍵を回し、外へ押し開けると、朝霧の残る裏庭が広がった。


---


 裏門を出る直前、老女がラースの腕を掴む。

「金の流れを止めることは、血の流れを止めることより難しい。それでも——」

「やる」

 短い答えに、老女は微笑んだ。


(この瞬間、俺は金でありながら金を拒む者の手にある。

 銀行員だった頃、俺は金の正しさを疑ったことがなかった。だが、今は——)


---


 裏庭の外壁を越えた時、街の鐘が三度鳴った。

 それは新しい一日の始まりを告げる音だが、俺には戦いの合図のように響いた。


 タリオは懐の帳簿を押さえ、マリナは息を切らしながらも笑っていた。

 ガルシアは短剣を収め、ラースは空を見上げる。

 その瞳には、白い尖塔が遠ざかっていく姿が映っていた。


---


(帳簿の数字は冷たい。けれど、それを握る手の温度が、街を動かす。

 俺は金として、その温度を感じるために、まだこの流れに身を預ける)


---



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ