第12話 市場の口笛
朝の市場は、夜の湿気をまだ抱えていた。石畳の隙間の水溜りに朝日が差し込み、眩しさが跳ね返る。
柑橘の香り、パンの焼ける匂い、遠くから漂う鉄と油の匂い——街が目を覚ます音と匂いが、波のように押し寄せる。
タリオは小柄な体をフードで隠し、空の籠を片手に人波を縫った。口笛は港で教わった古い労働歌。飢えや緊張を紛らわせる魔法みたいなものだ。
魚屋の台に近づき、柑橘の箱を持ち上げる。箱の底、果実の下で硬い布袋が手に触れた。袋の中には金属の冷たさ——金貨だ。
(俺は今、その袋の中にいる。柑橘の香りに包まれながら、人の手が動くたび、重みが生まれる)
魚屋の親父は気づかないふりをしている。タリオも何も言わない。この街の裏側は、口を閉じる者だけが生き残る。
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昼前、タリオは塩の袋をパン屋へ運んだ。
「粉の値が、また上がったんだって」
そう言うと、ミレナは無言で頷き、端切れパンを渡してくれた。彼女の眉間の皺は、昨日より深い。
パンの塩気はうまい。しかし、それは喜びより不安を思い出させた。食べられる日もあれば、食べられない日もある——最近は後者が増えている。
(列から外れる者が増えれば、列の先頭の者だけが太る。金は、その列を伸ばす道具にも、切る刃にもなる)
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午後、タリオは市場裏の小さな扉を叩いた。返事は二度のノック。
中は倉庫だった。果実や穀物に紛れ、武器が眠っている。箱の底の布袋には、やはり金貨。帳簿が机に広がり、誰かが数字を書き込む音がする。
そこには施療院への寄付金の記録も——だが、数字が合わない。抜かれている。タリオの胸が熱くなった。あそこは、病人の最後の砦だ。
迷いはなかった。机に近づき、末尾の数ページを破って懐に滑り込ませる。心臓がうるさい。扉の方から足音が迫る——。
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天窓から屋根へ飛び出し、港風の冷たさを吸い込む。
帳簿の紙束は、盲目の楽士の足元に預けた。
「今夜、渡す人がいる」
楽士は頷き、弦を弾いた。旋律は、列に並ぶ歌。
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夜、〈赤鹿亭〉裏口。
ラース、マリナ、ガルシアが集まっていた。タリオは紙束を差し出す。
「施療院の金が抜かれてる。港の荷も怪しい」
三人の顔に、怒りと決意が灯る。
「これはもう、街の問題だ」
ラースの声は低いが確かだった。
その時、裏通りに衛兵の足音。全員が息を殺す。影が通り過ぎるまでの数秒が、やけに長い。
「明日の朝、神殿で会おう」
短く言い合い、散った。
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(俺は今、ラースの胸の鎧の下で眠る。紙束と一緒に。汗と鉄の匂いの中で、人は恐れながらも進む。金は、その手に重みを与えるだけだ)
タリオは屋根を走りながら、楽士の旋律を口笛で吹いた。
列の中で響く歌は、今夜は最後まで途切れなかった。
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