表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/13

第12話 市場の口笛


 朝の市場は、夜の湿気をまだ抱えていた。石畳の隙間の水溜りに朝日が差し込み、眩しさが跳ね返る。

 柑橘の香り、パンの焼ける匂い、遠くから漂う鉄と油の匂い——街が目を覚ます音と匂いが、波のように押し寄せる。


 タリオは小柄な体をフードで隠し、空の籠を片手に人波を縫った。口笛は港で教わった古い労働歌。飢えや緊張を紛らわせる魔法みたいなものだ。

 魚屋の台に近づき、柑橘の箱を持ち上げる。箱の底、果実の下で硬い布袋が手に触れた。袋の中には金属の冷たさ——金貨だ。


(俺は今、その袋の中にいる。柑橘の香りに包まれながら、人の手が動くたび、重みが生まれる)


 魚屋の親父は気づかないふりをしている。タリオも何も言わない。この街の裏側は、口を閉じる者だけが生き残る。


---


 昼前、タリオは塩の袋をパン屋へ運んだ。

「粉の値が、また上がったんだって」

 そう言うと、ミレナは無言で頷き、端切れパンを渡してくれた。彼女の眉間の皺は、昨日より深い。

 パンの塩気はうまい。しかし、それは喜びより不安を思い出させた。食べられる日もあれば、食べられない日もある——最近は後者が増えている。


(列から外れる者が増えれば、列の先頭の者だけが太る。金は、その列を伸ばす道具にも、切る刃にもなる)


---


 午後、タリオは市場裏の小さな扉を叩いた。返事は二度のノック。

 中は倉庫だった。果実や穀物に紛れ、武器が眠っている。箱の底の布袋には、やはり金貨。帳簿が机に広がり、誰かが数字を書き込む音がする。

 そこには施療院への寄付金の記録も——だが、数字が合わない。抜かれている。タリオの胸が熱くなった。あそこは、病人の最後の砦だ。


 迷いはなかった。机に近づき、末尾の数ページを破って懐に滑り込ませる。心臓がうるさい。扉の方から足音が迫る——。


---


 天窓から屋根へ飛び出し、港風の冷たさを吸い込む。

 帳簿の紙束は、盲目の楽士の足元に預けた。

「今夜、渡す人がいる」

 楽士は頷き、弦を弾いた。旋律は、列に並ぶ歌。


---


 夜、〈赤鹿亭〉裏口。

 ラース、マリナ、ガルシアが集まっていた。タリオは紙束を差し出す。

「施療院の金が抜かれてる。港の荷も怪しい」

 三人の顔に、怒りと決意が灯る。


 「これはもう、街の問題だ」

 ラースの声は低いが確かだった。


 その時、裏通りに衛兵の足音。全員が息を殺す。影が通り過ぎるまでの数秒が、やけに長い。


 「明日の朝、神殿で会おう」

 短く言い合い、散った。


---


(俺は今、ラースの胸の鎧の下で眠る。紙束と一緒に。汗と鉄の匂いの中で、人は恐れながらも進む。金は、その手に重みを与えるだけだ)


 タリオは屋根を走りながら、楽士の旋律を口笛で吹いた。

 列の中で響く歌は、今夜は最後まで途切れなかった。


---


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ