表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/13

第10話 粉の値段


 朝の光がまだ街の屋根に届かないうちに、ミレナは店の奥で粉袋を抱えていた。

 袋は思った以上に軽かった。中身が少ないのではない。——値段が、倍になったのだ。


「……これじゃ、仕入れが一袋だけになる」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 開店前のパン屋は、酵母の香りと小麦粉の白さに包まれている。だが、その香りも、今朝は重く感じた。


 先週まで三袋買えていた粉が、今日は一袋分の値で終わった。

 港税の値上げと、商会の買い占めのせいだ。

 小麦粉だけじゃない。卵、バター、塩、どれもじわじわと値が上がっている。

 ——毎日数字を見て、ため息をつくのは、きっとこの街中の主婦も同じだろう。


---


(俺は今、レジ台の引き出しにいる)

 朝の開店を待つ間、銀貨や銅貨と一緒に揺れている。

 この引き出しの中だけは、まだ「価値」が混ざって眠っているようだ。


---


 扉のベルが鳴り、最初の客が入ってきた。

「おはよう、ミレナさん」

 近所の子どもを連れた若い母親だ。

 目は笑っていたが、その手には小さな布袋しか握られていない。

「今日のパン、少し小さくなった?」

「……ごめんなさい。粉の値が上がって」

 ミレナは言葉を濁しながら、焼きたての丸パンを渡した。

 母親は一瞬ためらい、それから少し笑って「ありがとう」と言った。

 その笑顔が、かえって胸に刺さる。


 昼近く、常連の老人が来た。

「こないだの黒パン、もう焼かないのか」

「あれは……粉が多くいるから、しばらくは」

 老人は黙ってうなずき、袋に入った白パンを受け取った。

 パンの値段を変える勇気は、まだ持てなかった。だが、このままでは——。


 夕方、学校帰りの子どもたちが駆け込んできた。

「ミレナおばちゃん、昨日の甘いパン、ある?」

「ごめんね、今日は作れなかったの」

 子どもたちは肩を落とし、銅貨を握りしめたまま外へ出て行った。

 小さな背中が、冬の風に押されて揺れていく。


---


(値が上がれば、量を減らす。

 量を減らせば、人は少しずつ離れていく。

 それは、どの時代でも同じだ)


---


 閉店間際、港から帰る途中のガルシアがやって来た。

「粉、また上がったってな」

「ああ。これ以上は無理だ」

 ガルシアはため息をつきながら、ポケットから銀貨を出した。

「こいつは客じゃなくて、友達としてだ。明日の分の粉を買え」

「……ありがとう。でも、返せるか分からない」

「返す必要なんざねえ。俺だって、いつかお前に助けてもらう日が来る」

 そう言って笑う彼の手は、港の潮風で荒れていた。

 その手を見て、ミレナは「もう少し頑張れるかもしれない」と思った。


 夜、店の奥で残りの粉袋を撫でる。

 あと何日、これで持つだろう。

 値札を書き直す手は重く、胸の奥に石のような不安が沈んでいた。

 それでも、明日はパンを焼く。

 誰かがそれを食べて、少しでも温かくなれるなら——。


---


(俺は引き出しの中で考える。

 物の価値は変わるが、人の温もりを求める心は変わらない。

 ただ、それが続けられるかどうかは、計算の外にある)


---


 外は冷たい風が吹き、港の鐘が遠くで鳴った。

 その音は、値上げの知らせにも、明日の糧の合図にも聞こえた。


---


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ