第10話 粉の値段
朝の光がまだ街の屋根に届かないうちに、ミレナは店の奥で粉袋を抱えていた。
袋は思った以上に軽かった。中身が少ないのではない。——値段が、倍になったのだ。
「……これじゃ、仕入れが一袋だけになる」
自分に言い聞かせるように呟く。
開店前のパン屋は、酵母の香りと小麦粉の白さに包まれている。だが、その香りも、今朝は重く感じた。
先週まで三袋買えていた粉が、今日は一袋分の値で終わった。
港税の値上げと、商会の買い占めのせいだ。
小麦粉だけじゃない。卵、バター、塩、どれもじわじわと値が上がっている。
——毎日数字を見て、ため息をつくのは、きっとこの街中の主婦も同じだろう。
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(俺は今、レジ台の引き出しにいる)
朝の開店を待つ間、銀貨や銅貨と一緒に揺れている。
この引き出しの中だけは、まだ「価値」が混ざって眠っているようだ。
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扉のベルが鳴り、最初の客が入ってきた。
「おはよう、ミレナさん」
近所の子どもを連れた若い母親だ。
目は笑っていたが、その手には小さな布袋しか握られていない。
「今日のパン、少し小さくなった?」
「……ごめんなさい。粉の値が上がって」
ミレナは言葉を濁しながら、焼きたての丸パンを渡した。
母親は一瞬ためらい、それから少し笑って「ありがとう」と言った。
その笑顔が、かえって胸に刺さる。
昼近く、常連の老人が来た。
「こないだの黒パン、もう焼かないのか」
「あれは……粉が多くいるから、しばらくは」
老人は黙ってうなずき、袋に入った白パンを受け取った。
パンの値段を変える勇気は、まだ持てなかった。だが、このままでは——。
夕方、学校帰りの子どもたちが駆け込んできた。
「ミレナおばちゃん、昨日の甘いパン、ある?」
「ごめんね、今日は作れなかったの」
子どもたちは肩を落とし、銅貨を握りしめたまま外へ出て行った。
小さな背中が、冬の風に押されて揺れていく。
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(値が上がれば、量を減らす。
量を減らせば、人は少しずつ離れていく。
それは、どの時代でも同じだ)
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閉店間際、港から帰る途中のガルシアがやって来た。
「粉、また上がったってな」
「ああ。これ以上は無理だ」
ガルシアはため息をつきながら、ポケットから銀貨を出した。
「こいつは客じゃなくて、友達としてだ。明日の分の粉を買え」
「……ありがとう。でも、返せるか分からない」
「返す必要なんざねえ。俺だって、いつかお前に助けてもらう日が来る」
そう言って笑う彼の手は、港の潮風で荒れていた。
その手を見て、ミレナは「もう少し頑張れるかもしれない」と思った。
夜、店の奥で残りの粉袋を撫でる。
あと何日、これで持つだろう。
値札を書き直す手は重く、胸の奥に石のような不安が沈んでいた。
それでも、明日はパンを焼く。
誰かがそれを食べて、少しでも温かくなれるなら——。
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(俺は引き出しの中で考える。
物の価値は変わるが、人の温もりを求める心は変わらない。
ただ、それが続けられるかどうかは、計算の外にある)
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外は冷たい風が吹き、港の鐘が遠くで鳴った。
その音は、値上げの知らせにも、明日の糧の合図にも聞こえた。
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