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第1話 目覚めたら財布の中


 ——揺れている。

 左右に、上下に。まるで、ぬるい水の底で漂っているみたいだ。

 耳の奥に響くのは、規則正しい足音と、布が擦れる音。


 目を開けようとして、そこで異変に気づく。

 ——目が、ない。まぶたも、まつ毛も、視界も、何もない。

 代わりに、光と影を「感触」で感じている。


 おそるおそる動こうとする。だが、手も足も首もない。

 あるのは……表と裏。

 固く冷たい、自分自身の面。片方には複雑な模様、もう片方には数字の刻印。


(な、なんだこれ。俺、丸い……金属……いや、まさか……)


 思考は唐突に現実へ突き落とされた。

 俺は——金貨になっていた。


 会社のデスクに突っ伏した記憶が最後だ。終電を逃し、コンビニの弁当で夜を凌ぎ、

 経費精算の山を前に頭がくらくらしたあの日。

 そして胸を締め付けるような痛み。

 次に意識が戻ったときには、この革の匂いが充満する暗闇にいたのだ。


 布袋の口が開く。

 まぶしい感触が全身を刺す。

 太陽光——いや、正確には、光の熱を金属の体で感じ取っているのだ。


「……すまねぇな、ヨアヒム。これで頼む」

 低く掠れた声が、袋の外から落ちてきた。


 俺を摘み上げるのは、ごつごつと節くれ立った指。

 日焼けしてひび割れ、爪の間に土が詰まっている。

 顔を上げた——いや、正確には仰向けにされたとき、

 俺はその男の頬のこけ方と、目の奥の疲れを感じ取った。


「金貨一枚か。麦粉なら……袋にして三つ分だな」

「それで頼む。残りは来週の麦で払うよ」


 周囲には、ざわめき。

 行き交う人々の足音、馬車の車輪の軋み、遠くから聞こえる鍛冶場の打撃音。

 香ばしいパンの匂い、干し魚の塩気、革の匂いが混ざり合う。

 ここは——市場だ。


 俺は木製のカウンターに置かれ、重たげな手に拾われる。

 持ち主は変わった。今度は店主の手だ。

 丸太のように太い腕。指に金粉が入り込んで光っている。


「ヨハンのやつ、また借りか……」

 店主は小さく呟き、俺を小箱に落とした。


 暗闇。だが、今の俺にはわかる。

 隣に銀貨が数枚、銅貨が何十枚か。微かに触れ合う感触が心地いい。


(……ほんとに、俺は金貨になったんだな)


 昔、銀行で現金輸送の立会いをしたことがある。

 札束の重み、コインの冷たさ、その無機質さ。

 それらが今、俺の“体”になっているという現実は、笑えるほど皮肉だった。


---


 再び小箱が開き、店主の手が俺を摘み出す。

 外は、さっきよりも賑やかだ。

 露店の掛け声、子どもの笑い声、犬の吠える声。

 店主は麦袋を持ち上げ、俺と引き換えに差し出す。


「王都鋳造か。最近は偽刻印が出回ってるって話だが……こいつは本物だな」

「信用ってのは面倒なもんだ。鋳造元で値段が変わる」


 俺の表面をなぞる店主の親指は荒れていたが、確かにその感触は俺に“価値”を与えていた。

 重さも形も同じでも、刻印が違えば別物——それは前の世界でも変わらない。


「これで薬草を。母がもう何日も熱を出してて」

 声の主は、まだ十代半ばの少女だった。

 栗色の髪を無造作に束ね、麦粉の匂いが服に染みついている。

 彼女の指は俺を強く握りしめ、細い腕を振って市場の奥へ走った。


---


 辿り着いたのは、小さな薬草店だった。

 棚には乾燥させた葉や根、瓶詰めの液体が並び、空気はほのかに甘く苦い。


「おや、リーネじゃないか。お母さんの具合は?」

「……あまり良くないの。これで……できるだけ効くやつをお願い」


 俺は老薬師の掌に移された。

 しわだらけの指が俺の刻印を確かめ、目を細める。


「……これはいい金だ。お釣りは銀で返すよ。それと、この花も持っていきな」

「でも……」

「いいんだ。こういうのは“おまけ”が効く」


 薬師の笑顔には、商売の駆け引きとは違う、何か柔らかい温度があった。

 俺は再び木箱に入れられ、その中で考える。


(……そうか。価値は、重さや刻印だけじゃない。

 こうやって、誰の手に渡って、何に使われるかで変わるんだ)


 革袋の外で、少女の小走りの音が遠ざかる。

 彼女の家には今、熱を下げる茶の香りが広がっているだろう。


---


 夜。

 薬師がランタンを吊るし、帳簿を開く音がする。

 外では市場の片付けが進み、猫の鳴き声が短く響いた。


「……金は冷たいが、人の手を渡ると温もるもんだな」


 独り言のような薬師の声を聞きながら、

 俺は自分が何者なのか、ようやく理解し始めていた。


 俺は動けない。話せない。

 けれど——こうして、誰かの選択や迷いの真ん中に置かれ続ける。

 それが、俺の“旅”だ。


(面白くなってきたじゃないか)


 革袋の口が閉じる音と同時に、

 俺は静かに次の朝を待った。




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