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隣の芝生は青いのか 

作者: 夕鈴


王子が妻を迎える日、一人の貴婦人が花嫁を見て、息を呑み、崩れ落ちそうになっていた。

隣にいた義息子が貴婦人の腰を支えた。


「どうして、なんのために」

「子供は無知だから気付いていないなんて思い上がりですよ」


青年は義母の囁きを拾い、囁き返した。


「自由な選択の権利を与えたいなら、公爵令嬢として迎えいれなければよかった。妹はずっと正当な待遇を望んでいた。自分の傍で育てたかった?復讐をしたかった?」

「なんで、どうして」


貴婦人は冷たい声音で囁く、義息子を見上げた。


「選んだのは本人。夫人の夢を叶えるための生贄はもういない。夫人の復讐に罪のない、生け贄を利用するのはおかしいだろう。それに夫人が選ばれなかったのは自業自得だと思う」


祝福の鐘が響くなか、一人の貴婦人は絶望した。


「これ、返すわ」

「そうか…。愛しく想ってしまえば、互いに愛し合ってしまえば、幸せな道が見えなかった。だから、委ねた。まだ手放せるから、」


花嫁は花婿のポケットにナイトの駒を入れた。

一瞬切なそうに微笑えんだ花婿にしか見れない角度で花嫁は嘲笑った。


「お姉様に選ばれる自信があったのに惨めに捨てられたのね。私のほうが愛されていたもの」

「覚悟を決めた者が正道を歩くとは限らない。自分で決意して進んだ道が真っ暗だったら絶望するだろう?だから先人が決めた指針のもとに道を進み、責任を分けあう国の形が望まれている」

「難しい言葉でごまかして、正統性を主張しても、無様…。あの頃は殿下に憧れたけど、現実は残酷だった。でも今は納得しているわ。冷静になれば、美しく優しいお姉様にヘタレ王子は不釣り合い。私くらいが丁度いいのよ」


バルコニーから微笑みながら、手を振る王子と王子妃の話し声は互いにしか聴こえない。








***


煌びやかな部屋の中心には美男美女がいた。


「隣の芝生は青いですか?」


外国の使節団の長である青年サミュエルは隣に座り首を傾げる美女に艶やかに微笑む。

美女は美青年の微笑みに見惚れることなく、初めて聞く言葉を繰り返した。

青年の隣に座る美しい美女の名前はシラー。

シラーは持ち前の聞き上手を披露しながら、サミュエルをもてなしていた。


「人は他人が持っているものがやたらと良く見えてしまうものです。シラー様が身に着ければ、この宝石も輝きがさらに増すでしょう。シラー様のように全てを持っている方を婚約者に持つ殿下が羨ましい」


シラーはサミュエルの言葉を肯定することも否定することもなく、微笑みながら杯に酒を満たす。

本来であれば、シラーはサミュエルの斜め横に座り、話を聞くだけでよかった。

特別な事情さえなければ。

本来サミュエルを接待するはずだった婚約者の不在という無礼のお詫びに、高貴な身分(公爵令嬢)のシラーが侍女のように酒を注ぎ、おもてなしをしている。

サミュエルの言葉を聞きながら、シラーが思い浮かべるのは自由な人達、特に異母妹のこと。

自由な妹を羨ましく思う気持ちは、シラーの秘密である。

接待を終えて、夜空を見えげるシラーの姿を静かに見守る者がいたことにシラーは気付かなかった。


****


シラーは国でも屈指の資産を持つ公爵家の長女である。

資産と権力を持つ公爵は多少の横暴は許される。

だからこそ、公爵家の内情は他家では許されないことだが、表面上は受け入れられている。

シラーは帰宅し、家族との晩餐の席についた。

頬を膨らませている異母妹と宥める実母を眺めながら、異母妹の好物ばかりの料理を口に運んだ。



「どうして、お姉様ばかり!!ずるいわ!!」

「シラーは殿下の婚約者ですから、接待も未来の王太子妃としてのお役目です」


使節団が王家への貢物として献上したドレスと装飾品をいくつかシラーは下賜された。

公爵邸に届いた贈り物の中に、ルピナスの分だけがなかった。

下賜される物を選ぶ権利がシラーにないことをルピナスは知らない。

そして下賜された物は、次回の接待の席で友好の証として身に着けるようにという王家からの暗黙の命令があるので、シラーはルピナスに譲ることも貸すこともできない。

いつもシラーの物を欲しがり、羨ましいと騒ぐ癖のある外見がシラーとそっくりな3か月年下の異母妹。

19歳という適齢期になっても、自由な自信家の異母妹が公爵夫人とよく似ていると思うのはシラーの秘密の一つである。


「終わらなそうだから、行くか。エスコートする栄誉をいただけませんが?」


食事を終えた義兄のベルガが恭しくシラーの前に跪く。

父である公爵は留守であり、公爵夫人とルピナスは二人の世界。

シラーは義兄の誘いに頷いた。

目の前の母娘の白熱する話し合いなどないように、優雅な仕草でエスコートを受け退室する。


「あいつが嫁げないのは自己責任だ」

「義兄様は厳しいこと」

「我が家の恥、」


公爵家には3人の子供がいる。

長女は公爵夫人が産んだシラー。

次女は侍女が産んだルピナス。

長男は公爵家を継ぐために、養子になった公爵の弟の子であるベルガ。

公爵家の子供の中の序列はシラー>ベルガ>>>>>>>>>>>>>>>ルピナスである。

貴族(公爵)の娘でも、平民の血が流れる者は平民である。

平民の母を持つルピナスの身分は平民である。

だが、権力を持つ公爵の横暴でルピナスは公爵令嬢として表面的には扱われるが、平民である侍女の血が血統を重んじる社交界では受け入れられない。

王家は公爵の無茶を見て見ぬフリで干渉しないが、ルピナスを公爵令嬢とは認めていない。

公爵夫人の実子はシラーだけである。

シラーは生まれる前から王子の婚約者に決まっていた為、出産後公爵夫人が子供を産めなくなったと診断を受けた後にベルガが養子として迎え入れられた。

ルピナスは継承権を待たず、公爵令嬢として対面を保つ資金を与えられているが、権力はなく名ばかりの公爵令嬢である。

ペレスは公爵家の跡取りとして、名ばかりの公爵令嬢として血筋の所為と嘆いてばかりで成長しない義妹に苛立ちを抱いている。


「義兄様は憂う姿も美しいと侍女達がうっとりしていますわね」

「寛大な義妹を憂うべきか、見習うべきか」

「次代の公爵閣下と妃では求められるものが違いますのよ。好きにされればよろしいのでは?」

「息抜きはどんな立場でも必要だという持論をどう思う?」

「乙女の心を覗こうなど無粋ですよ。お気をつけなさいませ」

「難儀な女だよなぁ。まぁ、仕方ないか」


シラーは苦笑するペレスに送られ自室に戻る。

知らなければ夢が見られる。

現実を知れば知るほど夢は儚く消えていくがシラーの持論である。

ルピナスが王子に憧れているのは知っているが、シラーにその気持ちはわからない。


「皮肉ですこと」


公爵夫人がルピナスを宥める姿を思い出しシラーはため息をつきながら着替える。

貴族令嬢は着替えや湯浴み、全てにおいて侍女に世話をさせるが、シラーは自分のことは全て自分でできるように教育を受けている。

与えられた時間の中で、自分のペースで支度をする事のみがシラーの数少ない自由な時間である。

この頃はイレギュラーが多いシラーの生活に新たなイレギュラーが待っているとは知らなかった。


***

ルピナスは欲しがりである。

姉の物が羨ましくてたまらない。

ルピナスの欲しがり癖に公爵夫人はドレス等は常に同じ物を用意するようにした。

だが、立場の違うシラーとルピナスを全て同じにできるわけではない。


物心ついた時から王太子妃教育を受けるシラーは王族専門の教師がついていたが、ルピナスにつけることはできない。


「お姉様ばかりずるい!!ちょっと早く生まれただけなのに」


社交デビューする前で、ルピナスの世界は公爵邸と家族と使用人だけである。

シラーとの立場の違いを理解を求めるのは幼さゆえに無理だろうと、ルピナスは知らされていなかった。

泣き叫ぶルピナスを宥める公爵夫人は留守のため、シラーが近付き、ハンカチでゆっくりとこぼれた涙を拭う。


「私のノートを貸してあげます。お休みの日には私が教えてあげます。ルピナスは文字のお勉強が終われば一人でもお勉強できますね」


立場の違いをわかっているシラーがルピナスを慰める。

ルピナスはシラーの言葉に機嫌を直す。

ルピナスの欲しがり癖も泣き叫ぶ癖もシラーにとっては日常茶飯事だった。


「お母様、ルピナスは賢いです。私が躓いたところも」

「ルピナスに劣るなんて戯言はやめなさい。シラーが劣るということはお勉強不足ですよ。ルピナスに劣るなど、口にできるなんて立場がわかっていないのかしら」


シラーがルピナスのことを褒めると公爵夫人は厳しくシラーを叱った。

ルピナスの誕生日の贈り物に会いたがっている王子を誕生会に招待することを公爵夫人に伝えた時は、頬を叩かれ、烈火のごとく怒られた記憶は鮮明すぎて色褪せることはない。


「シラーの妹君への思いやりは夫人にとって迷惑なんだろうな。お人形遊びが好きなお年頃なのだろう」


化粧で頬の腫れを隠しても、王子は目ざとく気付き、労わるようにシラーの頬に触れた。


「生まれた瞬間に生きる道が決まるのが我が国だ。抗いたいなら、受け入れてくれる国にいくしか道はない」


高貴な血を持つ王子もシラーも生まれた瞬間に役割が決まっていた。

それが当たり前であり、抗うことは許されない。

権力者の気まぐれで変わることもあるが、稀である。

変化を嫌う国王が公爵の横暴を許すのは平穏を乱されるのを嫌っているからである。

また異質な公爵家の長女は王家の教育に従順で国王の望む通りに育っているため、王の気まぐれで許されているだけである。

幼いシラーに王子は公爵夫人との安全な距離のとりかたを教えた。


***


公爵夫人はルピナスの欲しい物は与えられる物は全て与え、ルピナスには常に優しく接している。

逆にシラーの意見は聞くことはなく、厳格に教育する。

王宮で王子が受けているさらに厳格な教育を知っているシラーは公爵夫人の教育を幼子には厳しすぎ、使用人に不憫に思われていることは知らなかった。

シラーには鞭を、ルピナスには飴を。

成長しても公爵夫人の娘達への態度の差は変わらなかったが、シラーは気にせず、ルピナスは気付かない。

シラーは質が重視の思考だったので見た目に拘りがなかったため、ルピナスの好みで用意された物を使うことに不満はなかった。


歪んだ公爵家の生活に小さな変化ができたのは義兄ができた時だった。


「不満は口にしろ。シラーにも選ぶ権利がある」


ルピナスの機嫌と嗜好が中心の公爵家の生活に異を唱えたのはペレス。

シラーはペレスの言葉の意味がわからず首を傾げた。


「不満はないのか?」

「はい。立場が違いますので差があるのは仕方がないことです。ルピナスもいずれ理解しなければいけない時がきます。それまではいいのかと」


成長したシラーは侍女の娘であるルピナスを公爵夫妻が公爵令嬢として育てないことに気付いていた。

シラーの物を欲しがるルピナスの癖は治らない。

でも、シラーと同じになりたいルピナスは自ら貴族令嬢として受ける教育を希望し、励んでいる。

理不尽な現実を知るシラーは、異母妹の努力が報われることを願っている。

言葉にすると公爵夫人に怒られるので、口にしない処世術も身に着けた。

ルピナス中心の公爵家の生活に順応しすぎているシラーにペレスは返す言葉が見つからなかった。




***



シラーが婚約者の部屋を訪ねると王子は外套を着ていた。


「シラーがいれば十分だろう?」


王子に能力を認められている事を誇ればいいのか、仕事を押し付けられることを嘆けばいいのか、考えるのをやめた。

見目麗しい王子とシラーの談笑を美しいとうっとり眺める者は、微笑むシラーの瞳が笑っていないことに気付かない。

唯一気付いている王子は気にしない。

王子はシラーが言葉にして、伝えない限り取り合わない。

言葉にしても詭弁を披露し、我を通すだけである。

外面が完璧な王子に王道や正道を求めることは無駄だとしばらく前に気付てから、シラーは王子に何かを求めたり期待することをやめた。

シラーは諦めることが得意になったのは、いつからだったか覚えていない。

シラーが無言で王子を見つめると王子は窓のほうに歩いていく。


「行ってくる」


シラーへの関心の欠片もない王子はバルコニーに出て、飛び降りた。

シラーは王子が開けっ放しのまま出かけた窓を閉めた。

シラーの周りには自由なものが多い。他人はシラーを煩わせる者ばかりなので、シラーは体面を気にしなくてすむ場所では一人を選ぶ。

だから身支度もお茶の用意もシラーは侍女に任せず、自分で行う。

勝手知ったる婚約者の部屋で一人でお茶を淹れて、一人の時間を楽しむ。

シラーにとって久しぶりの心穏やかな時間だった。



****


シラーは王子に王族専用の礼拝堂の前に呼び出された。


「シラーと二人にしてくれ。神の前で淫らなことはしないと誓おう」


王子はシラーをエスコートして、礼拝堂の扉を自ら開けて入った。

豪華なステンドグラスが輝く、礼拝堂の美しさにシラーがうっとりする。


「ここは私達しかいない。防音性にも優れ、話が外に漏れることもない」


神に祈りを捧げるためだけに作られたわけではない、密談に最適な場所という言葉にシラーは現実に引き戻された。

王家をはじめ、闇が深い社交界。

自分を見失えば一気に闇に呑まれてしまう、見た目の華やかさとは真逆の場所がシラーと王子の生きる世界である。


「知らない方がいいかもしれない。闇に呑まれて気付くより、あらかじめ知っておいたほうがいいかもしれない。どうしたい?知りたいか?」


気遣いをみせる王子にシラーは驚く。

無意味なことはしない王子の言葉にシラーは頷く。


「それでこそシラーだ」


苦笑する王子は懐から紙を出し、シラーに渡した。

王子の直筆で書かれた情報にシラーは目を見開いた。

読み間違いかと思い、一度目を閉じて、再び目を開けて確認しても内容は変わらない。

動揺しているシラーを王子は静かに見ていた。


「血縁判定に使われる聖水だ。一般的に当主と子の血族を確認するために使われるものだ。報告はいらないから、好きに使えばいい」

「殿下?」

「私はシラーを好ましいと想っているよ。でも、」


小瓶を差し出しながら言い淀む王子。

シラーは震える手で小瓶を受け取る。


「ありがとうございます。選択を委ねていただけるなんて」


小瓶を包む手の震えを止めようとしているシラーに王子は背を向けた。


「大事な臣下であり、友人への贈り物だ」


心を見せない笑顔の仮面を常に身に着けている王子らしくない行動にシラーは深い息を吐く。


「止まない雨が降る国もある。常識とは、便利だが不便でもある」


会談の場では饒舌な王子が不器用に慰めようとしている様子にシラーは小さく笑う。

国のための実利主義者だが、王子個人は違うかもしれない。

昔はシラーの方が高かった身長はいつの間に抜かれた。

シラーが見つめる背中は大きくも偉大でもない。

王子の小さな肩に圧し掛かる物は日に日に大きくなっていくだろう。

ステンドグラスの輝きに負けないくらい、王子が偉大になる日がくるかもしれない。

その時にシラーは隣にいる自分が想像できなかった。

だから美しい礼拝堂の中で偉大であろうと努力する婚約者の後ろ姿を目に焼き付けるようにした。


****


シラーは人払いをして自室に引きこもった。

誰もいない部屋でシラーは崩れ落ちた。

誰にも見せられない王子からの贈り物を眺め、瞳から涙が流れ落ちた。

王子の美しい文字はシラーの涙でにじんで、読めなくなっていく。

シラーの中での細やかな疑問への答えを得た。


「どうして……、これは」


この答えは地雷、一歩間違えれば、災厄をもたらすパンドラの箱のようなものだった。

社交界では清廉潔白の花嫁が大人気だが、シラーは程遠いものになった。

真っ暗だった窓の外からいつの間にか光が差している。

立ち止まる暇はないので、シラーは赤くなっている目元を冷やした。

冷たさで頭が冴えていく。


朝食の時間に声を掛けにきた侍女は身支度を整え、微笑むいつも通りのシラーに疑問を持たずに扉を開ける。



***


シラーが王子の部屋に入ると、王子は椅子に座ってシラーを待っていた。


「美味いな」

「光栄です」


シラーの淹れたお茶を静かに飲む王子。

多忙で婚約者とのお茶会の席では欠席か執務をしている王子が珍しく静かにお茶を飲んでいる。


「私はシラーの淹れたお茶が好きだ。シラーはこの菓子が好きだろう?」


王子がシラーの口にクッキーを入れた。


「シラーは自覚がないが、好き嫌いはある。私くらいしか気付いていないが目元が緩む。久々にチェスをするか」


シラーの返事を待たずに、王子がチェスの支度を自らした。

婚約者同士の逢瀬のために設けられた時間を王子と共にするのは珍しく、以前はいつだったか覚えていない。

いつもより距離が近い王子にシラーは戸惑う。

チェスの先手を譲られ、シラーは駒を進める。


「失うことが怖いなら何も持たなければいい。時に放り出すのも一つだ」


シラーに有利に進んでいた盤上が、いつの間にか逆転していた。

王子の勝利が決まる道筋が見えたシラーが投了しようとすると、王子が盤上の駒を振り払った。


「選択した途端に選ばなかったものが惜しくなる。選択には後悔がつきものである。シラーには身に覚えがないか?」


シラーは何かを欲しがることはしなかった。欲しい物について考えたことはない。

王家と公爵家の安寧が第一である。


「これを。シラーが託したい者が現れれば、渡していいから、もらってくれ」


愛の告白に花束や宝石を渡すのは社交界の流行である。

真剣な顔で王子はナイトの駒をシラーに渡した。

振り払われた盤上で王子のナイトは犠牲になったが、クイーンが守られた。

ナイトの駒を受け取ったシラーは、王子がクイーンの駒を拾っているのを見て、いつもクイーンだけは捨て駒にしないことを思い出した。

シラーに興味の欠片もなかった実利重視の王子が距離を詰めてきた。

それを不快に感じないことに、シラーは嫌な予感を覚える。

シラーの心に小さな種が植えられそうだった。

なぜか駒を返すことはできず、シラーは両手で駒を包んだ。

切なそうに微笑んだ婚約者の顔を見て、胸に小さな痛みを覚えた。



****


夜会で王子のエスコートを受け、挨拶を終えたシラーは王子に庭園に誘われた。


「わけあり令嬢に縁談があるが、どう思う?」

「お父様達に聞いてください」

「選択する権利を持たないシラーに聞いても無駄か。あとは頼んだ」


王子はシラーをエスコートする手を解き、暗闇の中に消えていく。

いつもの王子の態度に安堵を覚えたシラーは美しい星空を見上げた。

シラーには傍若無人なところもあるが、それは国のことを想うゆえ、懸命な、美し星空も楽しめない王子のことに想いをはせた。

夜風の冷たさが和らぎ、振り向くと見慣れた青年がいた。


「夜風が冷えますので、お使いください。シラー様」


シラーの肩にマントを掛けたのは、使節団の特使の護衛騎士の青年。

シラーに頻繁に声を掛ける青年は伯爵位を持つがシラーより家格は低い。

文化の違いを王家もシラーも受け入れているので、不敬を咎めることはせず、微笑みながら応対をする。

婚約者の王子は接待はシラーに任せているため、使節団の異性と親しくしても咎められることはない。


「うちの森では、さらに星は輝いて見えます。シラー様の美しさには劣りますが」


宝石ではなく、自然の美しさを語る青年の声に耳を傾ける。

自然の美しさを語る声は耳心地が良く、シラーにとって他人から与えられた初めての穏やかな時間になった。


****



公爵は留守が多く、晩餐の席につかないこともよくあることである。

公爵夫人は優しい顔でルピナスを見つめ、しばらくして口を開いた。

ルピナスの好物ばかり並ぶ晩餐の席で、上機嫌な公爵夫人の様子に気付かないのはルピナスだけである。



「ルピナスに縁談があります。王宮に使節団が来ているのを知っているでしょう?特使の伯爵の正妻に」

「どうして、そんな寂れた国に行かなければいけないんですか!?うちは公爵家なのに」


領土拡大を進める先進国へのルピナスの勘違いをペレスもシラーは正さない。

公爵夫人とルピナスの収拾のつかない会話に混ざらないことは、ペレスとシラーの常識である。

声を荒げるルピナスに反応せずに、シラー達は黙々と食事をする。


「あらたに国交を始める国に友好の証として嫁ぐのですから、大事にされますよ。あの国は先進的で能力主義のため血筋には寛容です。妾の子にも継承権が与えられる国ですわ。ルピナスに嫁ぎたい相思相愛の殿方はいらっしゃらないでしょう?」


貴族令嬢に婚姻相手の選択肢はほぼ与えられない。公爵夫人(義母)のいう相思相愛というのがルピナスにとって難題だった。

名ばかりの下賤な血をひく公爵令嬢を妻に迎えたい真っ当な貴族など存在しない。

ルピナスが嫁いでも、公爵家は後見につくことはない。

ルピナスの実母(侍女)は有能なので、シラーの専属侍女として仕えている。時が経っても公爵夫人はルピナスを義娘として受け入れているが他家からすれば非常識なことには変わりはない。

一般的に当主の血を継いでも、使用人の子は使用人の子。

高貴な血をもつ両親から生まれる者のみが貴族の子として認められる。ルピナスが公爵令嬢として育てているのは破格であり、イレギュラーなこと。

だが上位貴族令嬢が招待されるお茶会にルピナスへの招待状は届かない。

公爵家が夜会に招待されれば、ルピナスも希望すれば一緒に行くが、ルピナスに話しかけれくるのは家族の情報が欲しい者のみでダンスに誘う者は誰もいない。

美男子の公爵の顔立ちを引き継ぎルピナスとそっくりな顔のシラーはどんな時でも人に囲まれており人気者である。


「おんなじ顔なのに、お姉様にできることは私にもできるのに。血筋さえ」

「最近の流行りの隣の芝生は青いという言葉を知っているかしら?ルピナスはシラーが持っていないものをたくさん持っている幸運の娘よ」


慈愛に満ちた顔で諭す公爵夫人の言葉はルピナスには届かない。

部屋を飛び出して自室に駆け込むルピナスの背中をシラーとペレスは静かに見送った。


「適齢期の終わりが速いことをわかっているんだろうか。あの我儘娘に付き合えるのは義母上とお前くらいだよなぁ」

「ルピナスは特別ですよ」


ペレスはルピナスとそっくりな顔で常に同じ笑顔を浮かべる何を考えているかわからないほうの義妹にため息を溢す。


「なんでもできるからって、全部抱え込まなくていい。家族として手を貸してやる」

「ありがとうございます。お優しい義兄様を持てて私達は幸せですわ」


ペレスの利益にならなくても、手を貸すという言葉は公爵家の跡取りとしては欠点である。

利益にならない優しさを母が美徳と思いつつも、社交界のルールに反するので言葉にすることはない事を知っている。

厳しい教育を受け、洞察力に優れるシラーは顔を見れば、だいたい察せられる。

何度か言葉を躱せば、隠している本音を導き出すこともできる。

でもシラーは誰にも本音を悟らせることはしない。


****



初めての婚約の打診に喜ばず、不満を叫んでいるルピナスは部屋に引きこもり、公爵夫人は困惑していた。

シラーは公務があるので、引きこもったルピナスと話す時間はなかった。

王宮を歩くシラーは目の前に現れた青年に微笑んだ。

公爵家に婚約を申し込んだ伯爵位を持つサムは護衛騎士なのに単独行動が多いことに突っ込むことはしない。


「シラー様、ご一緒しても?」

「はい」

「あの、シラー様にお渡ししたいものが」


サムは懐からシラーの花を宝石に描いたペンダントを差し出した。


「素晴らしい技術ですわ。でも私は婚約者がいますので殿方からの個人的な贈り物はいただけません」

「この国ではシラーは咲きません。だから」


シラーは微笑みながら、首を横に振った。

文化の違いがあっても、超えてはならない線がある。


「お気持ちだけいただきます。本物、」

「本物、そうだ!!」


サムはシラーの言葉を遮り、懐から手帳を取り出した。

シラーの花を押し花にした栞だった。


「遠征で見つけて、押し花にしたんです。可愛らしいでしょう。うちでは育たなかったんですが」


シラーとサムの住む国ではシラーは咲かない。

他国での諜報活動時に植物採集をしただろうサムの行動にシラーは驚く。


「見慣れない、珍しい物、手に入らない物に人は惹かれるのでしょう」

「違います。ずっとシラーを探していたんです。遠征はついでで、シラーが欲しくて」

「まぁ、」

「シラーが好きなんです。物凄く、」

「私の乳母もシラーが好きでして、よく刺繍をしていましたわ。本物は初めて見ました」

「野原に様々な花が咲き誇る中、特に可憐で、初めて見つけた時は感動しました。厳しい外の世界で自らの力で咲くシラーを俺なんかが育てようなど、傲慢だったのかもしれません。でも、シラーと同じ名を持つ可憐なシラー様になら」

「お上手ですこと」

「シラー様、俺はシラーのためならどんなことでもできます」


シラーの花を好きと話す素直なサムにシラーは小さく笑う。

好きなものを好きと言えるのはシラーにとっては難しいことである。

異母妹と同じ好みを求める母親、王族に相応しいかのみを求める王族。

婚約の話を聞いてから部屋に引きこもり、泣いている異母妹。

シラーにとって大事な者の幸せを考えるとある光景が浮かび上がった。

サムを見つめると、照れたように笑う顔にシラーは微笑み返した。


****


シラーは自室に引きこもった異母妹の部屋に行った。

拒まれると思ったが、あっさり部屋に入ることを許されたシラーはベッドにうずくまるルピナスの顔を覗いた。


「そんなに嫌ですか?」

「どうして、お姉様ばかり!!ずるいわ!!お姉様さえいなければ、私が殿下と」

「そんなに殿下が?」

「殿下は格好いいし、優しいし、」


ルピナスはうっとりと王子のことを語る。

ルピナスは王家の催しに招待されることはないので、遠目で見るだけで言葉を交わしたことはない。


「貴方にとって一番の幸せは私の立場になることなんですね」

「そうよ。血筋さえあれば」

「後悔しないなら代わってあげますよ。ただし、戻れませんよ」

「後悔しない。絶対に」

「わかりました。なら、まずは脱いでください」

「は?」

「時間がありません。」


シラーは器用にドレスを脱ぐ。

肌着のみになったシラーは胡散臭い顔で見つめてくるルピナスのドレスを脱がせ、先ほどまで着ていた自分のドレスを着せる。


「着替えくらい一人でできるようになってくださいませ」

「は?侍女がいるのに」

「これからの貴方の居場所は温室でないことは忘れないでください。この薬を飲めば3日は熱が出て、寝込みます。熱の所為で記憶障害が出たと聞かれたら答えなさい。あとは私と同じと豪語する貴方ならうまくできるでしょう?では、お姉様はお部屋に戻ってくださいませ」

「お姉様?」

「お姉様、どうされましたの?急がないとお約束に遅れるのではなくて?」

「約束?」

「体調が悪いお姉様を働かせるほど、うちは非情ではありません。私が代わりにお約束した方へのお手紙を書きますので、お休みになって。ではお姉様の幸せをお祈りしておりますわ」


入れ替わりを提案し、ルピナスそっくりに笑うシラーにルピナスは寒気を覚えた。


「今なら戻れますが、いかがなさいますか?」


挑戦的なシラーの物言いにルピナスは首を横に振る。

ルピナスは薬をドレスのポケットに入れて、自分の部屋からシラーの部屋に入る。

渡された薬を飲んだ。


「お嬢様、お時間が、あら?熱がありますね。お薬はご用意しますか」


ルピナスが頷くと侍女は一瞬驚きで目を見開くも嬉しそうに頷き、甲斐甲斐しくルピナスが休むための準備を整えた。

今まで一度も寝込むことがなかったシラーの見舞いに王子が訪問した。


「熱でバカになったか…」


笑顔の王子の言葉にルピナスは目を見開く。


「妃教育もやり直しが必要か…。資質はあるのは実証されているから、仕方ないか」


公爵家では今まで身支度を自分ですませていたシラーの変化より、突然嫁ぐことを決め、我儘を言わなくなったルピナスへの戸惑いの方が大きかった。



「熱の後遺症もあるけど、お荷物の妹が嫁いで、お姉様も肩の荷が下りたのでしょう。病み上がりのお姉様をお願いね。今まで大切にしてくださり、ありがとうございました。お姉様にはもうお別れを告げてあるから、起こさないで」

「辛かったらいつでも報せなさい。嫁いでもここは貴方の家だから」


婚儀は婚約者の国で挙げることを決め、婚約者の使節団の帰国にルピナスも同行することが許された。

自室で反省し、婚約を決めてからのルピナスの変化を周囲は成長と捉えることにした。


「お兄様、恥ずかしいから一人の時に読んで。お兄様以外には見せないで。最後の妹のお願いを叶えてくれるよね?」


ペレスは笑顔で手紙を託す妹を胡散臭そうな顔で見た。

公爵夫人が涙し、使用人達が安堵に包まれみながら、笑顔で嫁ぐために馬車に乗るお嬢様を見送った。

馬車が出立した後、ペレスが自室で手紙を読み、ずっと感じていた違和感の正体に気付いた。

読んだ手紙を握りつぶし、義妹の選んだ道に幸があるように祈りを捧げた。





****



ルピナスのフリをして、船に乗ったシラーはサミュエルにエスコートされていた。

出国の手続きは婚約者になったサムではなく、使節団長のサミュエルと進めていた。

出航直前の船の中で、サミュエルはシラーの耳に囁いた言葉にシラーは目を見張った。



「お姫様、本当にいいのか?」

「気付かないフリをしていただきありがとうございます。私、サミュエル様とサム様が同一人物とは気付きませんでしたわ」

「お姫様が惹かれたのは、サムか?」

「さぁ」

「今なら受け取ってもらえますか?」


サミュエルが声音を高くし、サムの声で囁いた。

シラーの花のペンダントを渡されたシラーは頷き、笑いを堪えた。

新たな婚約者も自由な人だった。

でも、シラーの大事な人は自由な人ばかりなので親しみを覚えた。


「ありがとうございます」

「婚約はこのままでも?」


貴族らしく余裕のある態度なのに、サミュエルの瞳に頼りない揺れを見つけて、シラーは笑う。

誠実そうに見えたサムが、狡猾そうなサミュエルの中にも生きているのを見つけた。


「今の私は貴方の妻になりたく存じますが、いかがでしょうか?隣の芝生でなくなれば、羨ましく思えませんか?」

「羨ましいなんて気持ちが生まれる余地がないほどの幸福感に満たされている。では未来の我が妻が所望するものは?」

「私はたった一人の妻でありたいので、他の女性に気持ちが向く、受け入れる際は離縁し、私を自由にしてくださいませ。慰謝料はいりません」

「俺でなくてもいいってことか」


落ち込んでいることが伝わる声音に、シラーは首を傾げた。


「貴方様を好ましく想っていますが、手放したくなくなるほどの関係になるほどの何かが私達にありますか?」


シラーの瞳に映るのは、仄かな親愛。

シラーの選びたい未来へ繋がる切符を目の前の青年が持っていたから、シラーは手を伸ばした。


「挑戦的なお姫様も大歓迎だ。王子様に物足りなさを覚えた、貪欲なお姫様の心を手に入れると誓いましょう。ではご命令を」


舞台役者のように振舞う諜報員だろう青年に、シラーは勘違いされているが訂正はしない。

シラーのポケットにはナイトではなく、クイーンの駒があった。

王様に守られないといけない妃にはなりたくなかった。

傍若無人なかつての婚約者の自由さに思うところがあったが、シラーは枷になりたくなかった。

シラーの胸に小さな種を植えた大事な人の最善の一手になりたかった。

貪欲さの欠片もないシラーは、我儘なルピナスの真似をして微笑む。



「私を満足させてくださいませ」

「ではまずは、航海の旅に案内しましょう。海には芝生はないから、よそ見の心配はいらない」

「もし私の心を奪っても、情報は渡しません。しつこい殿方は好きではないので、覚えておいてくださいませ」


シラーは新たに婚約した男の短剣を借りて、長い髪を短く切った。

驚いて悲鳴を上げ、切った髪を欲しがるサミュエルにドン引きして、海に投げ捨てた。


公爵家の真実は愛され、大事にされていたのはルピナスである。

貴族というしがらみに縛られず、やりたいことを選べ、人生のパートナーを選ぶ時間も与えられた。

ルピナスは自分の幸運に気付かず、実母が不幸と信じる世界に足を踏み入れた。

ルピナスが恋焦がれた男は面倒くさがりやで実利主義でも、情の欠片は持っている優秀な王子様。

王子様の隣にいるのが許されるのは優秀な者(乳母の子)ではなく、正しい者(公爵令嬢)である。



かつて、公爵の愛人の乳母と協力しシラー(平民)ルピナス(公爵令嬢)の立場を入れ替えた公爵夫人は愛した芸術家を夢見る男と結ばれることを許されなかった。


高貴な血(王族)平民の下賤な血(シラー)を嫁がせる禁忌を犯そうとしたのは復讐心があったのかもしれない。

巧妙に隠しても、絶対に見つからないことはない。

シラーはそんなに現実が甘くないことを知っている。

王子が気づき、シラーに選択を委ねた。

貴族の血を半分持ち、恩恵を受けたゆえに道を正すことを選んだ。

異母妹の夢も叶えられ、憧れていた自由な選択も手に入れられ、一石二鳥である。

シラーの選んだ道が大事な人達の幸せに繋がると信じて、これからは下賤な血と蔑まれながらも、いくつかの選択の自由を持つ平民らしい生き方を選べることにシラーは笑う。

船に揺られるシラーの目的地は、女性の自立が認められている先進国である。

今までは許されなかったやってみたいことを思い浮かべ、幸せそうに笑うシラーに利用されたと知っていても男は幸せを噛みしめる。

飛ぶことを覚えた鳥の宿り木になれるように。

シラーと同じ名前を持つ、青く可愛らしい花の持つ言葉は「寂しさ」や「悲しさ」が有名だが青年の国では「変わらない愛」という言葉も持つ。

妻となる美しい人に寂しさも悲しさも与えず、変わらない愛を向けてもらえるようになるかは青年の努力次第である。


****




展示会で一番人目を惹きつけた白鳥の像の製作者である男に話しかける者はいなかった。

国で唯一の公爵が主催する展覧会はどんな身分の者でも作品を展示することが許される。

平民で芸術家を目指す者達が貴族の後見を見つける絶好の場である。


「父さんの作品を褒めたくせに、俺達を見た途端に」

「出品者と家族はお金を払わず、ここに入ることができるんだ。俺達みたいな平民が芸術品を見れる機会があるだけで、欲張ってはいけないよ。サムもみてごらん?」


芸術家にとってパトロンを見つけるのは大切なことである。

サムの父親は鉱山で働き、休みの日は石造を掘っている。

サムの目には煌びやかな絵やツボよりも、父の作品が一番素晴らしく映っていた。

毎年出品しても、父がパトロンを見つけることはなかった。

サムの父はサムと違い、芸術に触れるためだけに出品しており、野心もなかった。

会場にある庭園で父が認められない悔しさでうずくまるサム。

サムは甘い香りに顔を上げると綺麗な少女にハンカチを差し出されていた。


「不満を口にしない分別はご家族の教育がしっかりされていますのね。残念ながらここでパトロンを見つけることはできません」

「どうして」

「血筋が全ての貴族が無償で主催する者は利益が絡んでいます」

「血筋が全て」

「この国では血筋が第一ですが、でも他国は違います。たしかに貴方のお父様の技術は素晴らしいですが、ここでは芽が出ることはありません。もし、芽が出ても、花が咲くことはありません」

「どういうこと?」

「貴族に飼われるということです。作る物はパトロン好みの物を強いられたり、作品の作者は別の者の名前で発表されたり、決して報われることがありません。だからこの国の芸術は他国に遅れをとっていますが、陛下は不便を感じていませんから」


美しい少女の口から零れる言葉は冷たい。

サムの目から落ちる涙を少女はハンカチで優しく拭う。


「悔しくて泣けるなんて尊いこと」

「バカにしてんのか」

「いいえ。でも、幼い子を泣かせてしまったお詫びに切符をさしあげましょう」

「は?」


サムは年下に見える少女に幼い子と言われ、少女を睨んだ。

潤んだ瞳で訝し気に睨むサムに少女は優しく微笑んだ。


「ハンカチはさしあげますので、涙は自分で拭いてくださいませ」


少女はポケットからペンと紙を取り出し、何かを書いている。

次に封筒や重みのある小袋、次々出てくるものにサムの涙は止まった。


「どこにそんなに入ってるんだよ」

「淑女の嗜みですわ。その質問は無粋ですので、気をつけてくださいませ」


少女は書いたものを封筒に入れて、小袋とともにサムに差し出した。

サムは袋の重みに中を開けると金貨が詰まっていた。


「な!?」

「これは片道切符です。私からすれば、はした金?でしたっけ?まぁ、軍資金としては心もとないかもしれませんが、海を渡るだけなら十分ですわ。でも、難破船のようですね、そうですね。明日の、この時間にここに」


サムの返答など待たず、少女は帰っていった。

サムは父に話さなければいけないのに、少女との約束を止められたくないので話さなかった。

明日までなら、展覧会の関係者であるサムもこの十分に手入れされた庭園に来ることは許される。

少女から渡された白いハンカチには青い花が刺繍されていた。

サムは同じ青い花を探したが、色とりどりのルピナスが咲き誇る庭園には見つからなかった。

次の日の同じ時間にサムが訪ねると少女はルピナスの花を見つめていた。

花に囲まれる少女は絵画のモデルになりそうなほど美しいが、なぜかサムには少女が悲しそうに見えた。

亡くなる前の母の儚い姿と重なり、思わず手を伸ばすと華奢な肩に触れる前に少女が振り向いた。


「お、お姫様、」

「お姫様ではありませんが、まぁもうお会いすることはないでしょう。こちらの本をさしあげます。あとは貴方次第です。それでは」

「ちょ、待って」


少女は艶やかな微笑みを浮かべ、サムに重たい本を渡して去っていく。

少女に見惚れ固まっていたサムが動いた時には少女の背中は遠かった。


「もう会えない?」


走って追いかけたが、少女はサムが入ることが許されない敷地に入ってしまった。


少女から渡されたのは辞書と外国の文化と法律、船旅、医術に関する本だった。

昨日は開けなかった封筒を開けると外国の船に乗るための渡航許可書と紹介状。

家に帰り、サムは少女のことを父親に話した。


「ハンカチを見せてくれるかい。この花はシラー、サムが会ったのは公爵家のお嬢様だろう。サムはどうしたい?」

「あの子に会いたい」

「会うことは難しいかもしれないねぇ。努力と運を味方につけても、大博打だろう。でも、一生会うことがないだろうお嬢様に会えたサムは運を持っているかもしれない」


母が亡くなり、一人でこっそり落ち込んでいるサムを心配した父親が展覧会に参加したとはサムは気付かなかった。

鉱山での仕事は危険と隣合わせのため農夫より賃金はいいが、息子に同じ道を歩かせたくはない。

サムよりも現実を知っている父親は貴族のご令嬢の気まぐれに賭けることにした。


船に乗り、実力主義を掲げる国での生活はサムが覚悟していたような過酷な生活は待っていなかった。

少女からの紹介状を持って商家を訪ね、父親が彫刻の技術を披露すると部屋と職を与えられた。


「初恋は叶わないものだ。サムが会ったシラーお嬢様は王子殿下との婚約が決まっている。まぁ、もう一人の訳ありお嬢様ならわからないが、シラーお嬢様は平民の身分では話すことなどありえない雲の上のお方だ」

「爵位か」

「軍人として武功を上げるのが爵位を上げる一番の近道だろう」


サムの父親は多才で、重宝される宝石の細工師として有名になった頃、サムは士官学校に入学を決めた。

士官学校で王子に出会い、諜報の才能を磨くよう鍛え抜かれた。

世間では温厚で穏便派といわれているが、王子は腹が真っ黒な策略家だった。

サムの夢への道筋を教えてくれた王子に命じられるまま、他国を侵略し、領土拡大第一の王の下で危険な役を積極的に引き受け、顔を売った。

無我夢中に走り、武勲を上げた翌年王が崩御し、穏便派の王子が即位し戦乱の世が終わった。

自衛ができ、外国語に明るいサムは表向きは外交官、裏では諜報員として動き、爵位を得た。

爵位を得た時に、サミュエルの名を与えられ、貴族らしい振舞いを友人達に教え込まれた。

シラーの婚約者の王子の情報を集め、立ち振る舞いを真似した。


「可能性は0じゃないよ。手に入れる方法はある」


サミュエルへのご褒美として、王となった王子が国交のなかったサムの母国への使節団が編成した。

サミュエルは少女から女性に成長したシラーの美しさに見惚れたが、接待をするシラーの美しい瞳からは何の感情の色もない。

かつて出会った美少女の瞳は感情豊かで、足取りは軽やかだった。

星空を見上げるシラーは儚く消えそうだったので、王子の策にのることにした。

公爵夫人が用意したパンドラの箱の鍵を手配したが、パンドラの箱は開けられることはなかった。


高貴な少女に一目惚れされた青年は夢を叶える道を閉ざされた。

青年を救ったのは、パンドラの箱として育てられた少女。

生まれを歪められた幼い少女は、パンドラの箱になるかもしれない少女に憧れ欲しがりになった。

青年の息子はパンドラの箱の鍵を王子に渡した。

王子はパンドラの箱になることを選ぶなら守る意思があると伝え少女に託した。

少女はパンドラの箱でなくなる方法を選び、欲しがりの少女に託すことを選んだ。

素直でない欲しがりやの少女の憧れは、空回りしたが、最終的にパンドラの箱が完成されることを防いだ。


「失策でしたか?」

「うまくいくとは思っていなかった。まさか、婚約できるなんて」

「臣下の初恋を応援するフリをして、内乱の種を撒こうとした陛下の負けでしょう。純粋に友人の婚約を祝いましょう」

「おもしろくない。欲に忠実に動けば違ったものを!!他人ばかり優先しやがって」

「先人の教えを守り、高貴な血への執着が強い一族が統べる国は、簒奪者が現れず、内乱がおきないから、安定していますよね。うちとは正反対の平穏な国。まぁ隣の芝生は青く見えるものですから、実情はわかりませんよ」


悪巧みをしていた男達の言葉は暗闇に消えていった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。

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