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王の村

作者: もち米

 火山帯から広がる緩やかな扇状地、それがそのまま海岸線に達して崖となっている。穏やかだが活動自体はしている火山の周辺以外は深い森だが、土壌としては火山性の礫が多く農地には向かない。


 火山帯と森を挟む両側の地域は大規模な農産地と国外との交易拠点で互いに活発に交流があるのだが、この二つの地域のやり取りは森のある土地を介していない。

 森の端に接する海は潮の流れが速い上に陸地側に接岸に適した個所がなく、交易を行うための船は森の沿岸を大きく迂回する航路を採っている。陸の側も森を経由しない、火山帯の逆側を大きく迂回するのが主要ルートだ。森を抜ける道はあるのだが、抜けるのに数日かかる上に人が居らず、しかも冬期にはそれなりに積雪がある。

 森は、今のところ陸路移動の障害にしかなっていない。



 こうして知識を得れば得るほど、自分の故郷のおかしさがわかる。




 タジは授業で渡された地図を眺めていた。先程まで実践課題の導入授業を受けており、五日後までに自分の出身地域の産業振興のための施策を挙げなければならない。後の日程で学生たちから挙げられた内容を検討する授業を行うのだ。


「お前のところだと特徴あっていいなあ」


 自分に渡された地図を嫌そうに眺めていた同級生・イトロが声をかけてきた。タジの友人でもある彼は、この学校がある領都の出身だ。

 領主家の元で働く官僚を育てる目的で設けられた学校は、かかる費用を領主家がすべて負担している。一定の成績を収め続けた上できちんと官吏として就業し、六年以上働けば費用の返還も求められないので、地方出身の学生も多い。


「領都区と比べると本当になんにもないけどね」

「そりゃそうかもしれないけどよ、この辺で更に産業振興とかあと何があるんだよ? 伸ばす余地が思いつかねえよ」


 大げさに頭を抱えるイトロに笑いながら、都会は都会で大変だよなとタジは思う。ここは国の中でも首都に次ぐと言われる華やな街だ。産業振興よりも人口集中の弊害のほうを心配する必要があるのではないか。

 一方で、タジの故郷である深い森がある地域は領都から遠くはなれており、領の端だ。首都からはさらに遠く、地域全体が人口よりも家畜のほうが多いと揶揄されるような場所である。地元の外の世界の話を聞くのが好きな少年だったタジは、初等学校の成績がよく家業の都合などもなかったので、こうしてはるばる領都まで出てきて学んでいる。


「余地しかなくて元手になるものが少なすぎるのも困るんだけどね……」

「フォロアモ山を見に行く人がいるって聞いたことあるけど、あそこ火山なんだし、周りになんかないの」

「温泉が湧いているところはいくつかある」

「それを使えばいいんじゃねえの」

「そこそこ近くに大きい保養地がもうあるんだよ。しかもそれは隣の領なんだよな……」


 イトロにああー、という顔をされた。森を抜けた先はすぐに隣の領となっており、保養地はそちらにある。大きな港町から訪れやすいせいか貴族や大商人にも人気があり、それなりに名の知れた観光地だ。主要な道は大きく迂回しており移動に時間がかかるとはいえ、それと被る性質のものをこちらの領に作るには少し近すぎる。そしてこちら側で森に隣接するのは農産地、主に牧畜を行っている地域だ。


「やっぱり畜産を軸にするのが堅実かなあ。でも俺こっちのほうはあんまり詳しくないんだよな」

「……うん? お前んちはこの中のどの辺なんだ? 山のほうか?」

「森の中だよ」

「森の中?」


 タジの持つ地図を指でつついていたイトロが、オウム返しに問うてきた。


「お前、地元で初等学校通ったって言ってなかったか? 学校があるぐらいには人が住んでるんだよな。それが森の中?」

「森の中にそこそこ大きい村があるんだよ。学校も郵便管理局もあるし、温泉使った湯治やってる宿もいくつかある。畑もあって、住んでる人間の分ぐらいはギリギリ賄えてるって聞いたことがある。嗜好品は全部外から持ち込みだけどね」

「はあ? それがこの森の中にあんの? 本当に?」


 イトロの怪訝な顔を見る限り、自分の故郷が客観的に見ておかしい、という認識は間違ってはいないのだろう。


「変だろう? 今考えると、あの森の環境で自然にそうなるとは思えないんだ。だいたいこの地図には描かれてもいない」


 手にしている地図に描かれている森の中には、集落を示す記載は何もない。森を抜けるための道は頼りない点線で描かれているが、それだけだ。


「でもお前はそこで育ったと」

「そうなんだよ」


 タジは地図を丁寧に畳んで鞄にしまった。休憩時間はもうすぐ終わるので、次の授業の準備をしなければならない。


「うちの地元の話、聞きたければ後で話すよ」


 課題の目途をつけてからでよければ、と付け加えるとイトロは嫌そうな顔をした。





 あれからしばらく悩んでいた課題だが、結局は現状で一番安定しており余裕がありそうな畜産を軸に考えることにした。選抜した家畜を手をかけて育て、品質保証をした上で高級品として売り出す、というありがちな案だが、もともと農産地なのだから奇を衒ったことは向かないだろうという判断だ。おそらくこの判断理由も評価対象になるので、提出した文書にはそのあたりにも言及しておいた。

 イトロのほうは、産業振興というお題目への直接のアプローチは諦めて、領都の一部に集中しがちな人口を分散させる、という方向でいくことにしたようだ。具体的な方策が思いつかないと転がる彼と一緒に唸ってみたりもしたが、実現の可能性が高くて効果が見込めるものとなるとかなり難しい。都会は都会なりに本当に大変だ。

 他の友人達も交えて七転八倒しながらも課題を提出し終えた休日、タジはイトロと寮の食堂にいた。食堂は、学校が休みの日の営業時間外であれば談話室代わりに使っていいことになっている。自室は一人部屋ではあるがベットと簡易の机で埋まる大きさだし、寮の談話室は申請しなければ使えない上に予約優先だ。その点、食堂ならば出入り自由な上にお茶は飲み放題なのである。休日なのに寮で男に囲まれるのは嫌だと言って外に遊びに出る学生も多いが、地方出身で自由に使える金銭に余裕がないタジにとってはありがたい気分転換先だった。

 食堂の端のほうの机を選んでタジの正面に座ったイトロは、お茶を一口啜った後に悪巧みするように声を潜めた。


「改めてお前の地元の話しようぜ」

「なんでそんなに楽しそうなんだよ」

「領の行政府には確実に認識されてて、それなのに領発行の地図に載ってないとか、どっかの都市伝説でありそうな話が現実な上に身近なんだぞ? 楽しいに決まってるだろ」


 初等学校や郵便管理局は領立の施設だ。管理も領の行政府が行っており、教師や技官は領から派遣されている。


「俺の地元だぞ?」

「申し訳ないけど楽しい」

「そっか……」


 そこで育ったタジとしては複雑だが、領都育ちのイトロにとってはほどほどに他人事なのは確かだ。彼に悪意がないことはわかるので、その辺りはつっこまずにおいた。


「実は全然地図に載ってないという訳でもなかったんだ。こっちの旅行地図帳だと名前がある」


 課題のための資料を集める際、民間発行の旅行者用の地図の一部には地元の名前の記載があることに気が付いたのだ。十年ほど前に旅行ブームがあったらしく、その際に発行されたとおぼしき冊子が古本屋で捨て値で売られていたので、話のタネになるかと買ってみていた。

 ただ、載っているのは地名だけだ。具体的な施設や集落を示す内容の記載はなかった。


「『オーノイリ』……名前はあってるんだよな?」

「あってるよ。地元でもそう呼んでる」

「これだと道からちょっと離れてる感じに見えるな。場所はあってるのか?」

「だいたいあってると思うけど、自信はない」

「お前、今年の年始めの休暇で帰省したんだよな?」

「したよ! だいたいの場所はわかるけど地図上の位置が曖昧なだけだ」

「……前に湯治客がいるとか言ってなかったか? これでよく辿り着けるな」

「この道からのちゃんとした脇道は二か所しかないし、どっちもオーノイリで行き止まりなんだよ」


 他にも脇道はあるが、それはすべて荷馬車どころか馬でも入れないような獣道で、間違うことはまず考えられない。そう言うと、目の前のイトロが首を捻った。


「逆に言えばさ、オーノイリに行く脇道は馬車が通れる程度にはちゃんと整備されてるってことだろ? じゃあなんでその道は地図に描いてないんだよ」

「それは……なんでだろうな?」

「やっぱ都市伝説っぽい」


 国とか領とかのなんか重要な施設が隠されてるとかさ、とイトロは楽しそうだが、出身者にして官僚の卵であるタジにそんな心当たりは一切ない。道はわかりやすくて現地で困ることなどないし、学校では退任する先生と入れ替わりで新任の先生がちゃんと来ていたし、郵便だって普通に届く。

 そこまで考えて、その認識がちょっと違っている可能性があることに気が付いた。


「そういえば、時々郵便が届くのが遅れてた気はする」

「郵便が遅れるのは領都でもたまにあるぞ? 特に冬」

「そういうやつじゃなくて、何でもない時に時々遅れてたっぽいんだよな。周りの大人はまたか、仕方ないな、みたいな反応してたと思う」


 子供だったタジが郵便事情を気にする理由はなかったので記憶が曖昧だが、確かにそういうことは何度もあった。タジの父親は普段は大工をしているが、湯治客の滞在に必要な諸々を代理で手配する仕事もしており、郵便の遅れが話題になっているのを耳にした覚えがあるのだ。郵便は、通常なら二日に一度届くのだが、たまにオーノイリ宛のものすべてが届かない、ということが起こり、そういう時は大抵四日後に二回分まとめて届いていた、ような気がする。逆に、オーノイリから差し出した郵便物にそういう遅れが出たという話は聞いた覚えがなかった。


「今考えると、やっぱちょっと変だよな」

「ちょっとどころかだいぶ面白いな。郵便馬車が頻繁に迷子になる土地かあ」

「迷子って……。何度も言うけど迷うような道じゃないんだよ。しかも相手は荷運びのプロどころか精鋭だぞ?」

「他にまとめて遅れる理由あるか? 届かないんじゃなくてちょっと遅れるだけなんだろ? 迷子になって次の便に保護されて一緒に届く、ぐらいしか思いつかねえ」


 迷子の馬車と言われるとちょっと面白く感じてしまうが、起きていること自体はそれで説明がつくいといえばつく。


「迷子なあ。そういえば時々、湯治客が辿り着かないって話もあったような気がする」

「やっぱ迷子出てんじゃねえか」

「だからそんな迷うような道じゃないっての」

「たださあ、そんだけ迷子が出てるなら、なんで地図に道載せてないんだろうな。特に何か隠されてる感じはないんだよな?」

「ないって。だいたい、隠されてたら湯治客も来てないだろ。金持ちは隣の領の保養地に行くから、うちの地元に来る客はみんなちょっと裕福程度の平民だよ」


 イトロが黙って思案顔になった。疑問が一周回って戻ってきてしまったことに気付いたようだ。


「この話は今のところ出口なさそうだから一旦ここまでかな。他に面白そうなことあったら教えてくれよ、領都にないけどオーノイリにあるものとか」

「温泉?」

「それ以外で」

「無茶言うなよ」


 逆ならいくらでも思いつける。首都に次ぐと言われるだけあり、領都には巨大な図書館があるし、博物館や美術館、立派な教会、大きな劇場もある。そしてそういうものはたくさん人が集まっているところにしかないものだ。オーノイリにある文化施設と呼べるようなものは、初等学校に併設されている小さな図書館ぐらいだろうか。


「……そういえば、地元には教会がないな」

「えっ?」


 国と近い関係にある国教会が運営している建物が教会だ。領都の中心街にあるような大きくて立派な建物であるとは限らないが、教会そのものは国内のどんな地方にもあるし、大抵は初等学校の近くに建っている。……ということを、タジは領都に出て他の地方出身の学生達と話していてはじめて知った。ただ、自分の地元には無いということ自体はおかしいとは思わなかった。そういうものだったからだ。


「教会って地方の初等学校整備したときにあわせて一緒に作ったって聞いたぞ? 他の宗派と領や国とのやり取りの橋渡しなんかもするし、救護院も兼ねてたりして、必要だからって」

「初等学校のとこには初等学校しかなかった」

「ええ……。ってことは救護院とかは別にあんの?」

「専門の施設はなかったよ」


 救護院は身寄りのない人や行き場のない人を保護する施設だ。領都でその存在を知ったタジは、都会だと専門の施設があるんだなあと思っていたのだが、そうでないところでは教会が役割を担っているというのは知らなかった。


「そんな感じのことはお役目の家がやってたと思う」

「『お役目の家』って何?」

「えっ?」

「聞いたことねえ役職っぽいのがスルっと出てきてるけど、それほんと何? 村長の家ってこと?」

「お役目と行政長は別だよ。行政長は領都から派遣されてる人だし、お役目はずっと同じ家の人がやってるけど徴税とか裁判とかには関わってないんじゃないかな」


 ううん、と唸りつつイトロが上を向いてしまった。タジはとりあえず自分の故郷がいろんな面でだいぶ特殊であることを改めて認識した。立地がおかしくて地図上での扱いもおかしいとはいえ、それでも中身は普通の地方の村だと思っていたのだが、実はそうでもなかったらしい。


「……湯治客が来る宿があるって言ってたよな? ということは別に俺が泊まりに行ってもおかしくはないよな?」

「来る気かよ」

「おかしくはないんだよな?」

「全くおかしくはない。けど、本当に特別なものはなんにもないぞ? 温泉はあるけどあとは森しかない」

「どうだかなあ。まあ俺は俺で領都以外はほとんど知らないし、今のうちに他の地域を見るのも何かの役に立ちそうなんだよな。この前課題みたいなのとか」

「あー。それじゃあ、夏の休暇の時にでも来るか? 俺も一緒に帰ればいいし、宿取るのはもったいないから、うちに泊れないか親に聞いてみるよ」


 タジの提案にイトロが相好を崩した。地方出身の学生は長期休暇で領都を満喫したりもするが、領都が地元だとそういう楽しみは薄いようだ。旅行の予定ができたと喜ぶ彼に、男二人旅になってしまうという現実を突きつけたところ、複雑だけど旅行は旅行ー!とのたうち回って苦しみだしたので笑ってしまう。楽しい休暇になりそうだ。





 夏の休暇にイトロを伴って帰省することを手紙で伝えたところ、両親からは歓迎するという返信が来た。家にはタジと兄が使っていた部屋があるのだが、そこに残している兄の使っていたベッドで良ければ使えるという。

 イトロのほうも、親に話してくると言って彼の家に戻った。タジと同じ寮住まいだがここは地元、そう遠くない場所に実家があるそうで、普段から時々帰っていると言う。


「旅行の軍資金を確保してきたぞ。領内のいろんな土地についての勉強の一環だって言い張って路銀をせびってきた」

「間違ってないけど言い方さあ」

「ついでに新情報がある。うちの親父がオーノイリを知ってた」

「えっ?」

「例の森を抜ける道、あそこの整備に関わったことがあるんだと」


 イトロの家のことをきちんと聞いたことはなかったのだが、領都で土木工事や建物建築に関する商会をやっているのだそうだ。直接工事を請け負うほかに、大規模な工事では資材や人員の手配もしているという。

 そのイトロの家が関わったという工事について詳しく聞くと、あの森の道は元はもっと道幅が狭く、大きな荷馬車は通れない状態だったらしい。その頃の領主家は領内の主要な街道を舗装する事業を行っていて、それと一緒に森の道の道幅を広げる改良工事も行われたそうだ。タジやイトロが生まれる前の話である。


「街道の舗装事業があったってのは見たけど、あんな森しかない道も一緒に改良? 領の予算で?」

「フォロアモ街道に何かあった時の迂回路らしいぞ」

「なるほど……?」

「で、親父は直接森までは行ってないらしいんだけど、作業員の何人かがオーノイリまで行ったんだと。温泉が良かったっつー話してたって。湯治客とかじゃなくて、ちょろっと立ち寄った作業員なんかでも入れる温泉もあんの?」

「地元民向けの外湯がいくつかあるけど、それに入ったかな」


 森を抜ける道からの分岐点から村まではそれなりに離れている。道の工事の従事者が仕事終わりに歩いて立ち寄れるほどに気楽な距離ではない。だが、イトロの言い方で判断する限りでは、村に泊まったわけでもなさそうだ。


「いいなあ! それ俺も入っていいやつなんだよな?」

「大丈夫だと思う。そもそも俺んちの客って扱いになるだろうし」

「タジ、お前ほんとーにいい奴だよな!」


 手を掴んでわざとらしい笑顔で大きく振り回すイトロにツッコミを入れている間に、ちょっとした違和感はタジの中を通り過ぎていった。





 イトロ曰く「止むを得ず男二人になってしまう旅」という名の旅行(タジにとっては帰省)の準備はあちこち脱線しながらも進んでいく。当然そればかりしていた訳ではなく、学生の本分もおろそかにはしていない。なにしろ夏の休暇の直前には試験という関門が待っていて、結果が悪すぎると休暇はすべて補講で埋まってしまう。

 そもそもの大前提として、厚遇が受けられるこの学校で成績を落とすということは、その厚遇を失うということを意味している。地方から出てきている裕福でない学生にとっては死活問題になるため、誰もが真剣に勉強するのだ。去年よりもやることが格段に増えた休暇前、必死に受けた試験の直後は気が抜けて、タジは丸一日寝て過ごしてしまった。


 この学校での成績の判断では、試験の点数の順のような相対的な基準は用いておらず、点数の多寡そのものが評価基準となる。それでも順位自体は公開されるので、学生は一喜一憂してしまうのだが、今回のタジはどうやら上の下ぐらいには食い込めたようだ。帰省の際に親への土産話ぐらいにはできそうでほっとした。

 イトロはタジより点が良かったようで、上の中ぐらいにつけていた。普段は遊んでいる雰囲気を堂々と醸し出している癖に成績は堅実に出してくるあたり、本当に油断ならない奴だと思う。


 そんなどたばたを経て、無事に夏の休暇がやって来た。領都から森まではほとんどの区間で舗装された街道を行くことができ、街道には乗り合いの馬車が運行しているので、タジの帰省はこれを乗り継いでいく。

 タジにとっては既に何度か辿ったことのある行程だが、領都以外はほとんど知らないと言っていたイトロにとっては何もかもが物珍しいようだ。彼は良家の子息でもあるので、庶民向けの乗り合い馬車を乗り継ぐこと自体が初だという。

 何度か見ている珍しくもない光景も、違う視点が加われば知らなかった面に気付くことがある。土地についての知見を深めます、と見え見えの建前を掲げていた今回の帰省旅行だが、これは案外本当に勉強になるのでは、とタジは思い始めている。

 あれは何だ、これはあれじゃないか、実物を初めて見た、と口数多めで行く旅路は、なんだかとても面白かった。


 途中で多少の雨はあったものの天候は概ね悪くなく、旅は予定通りに進んだ。乗り合いの馬車を乗り継いでいく方法では、領都から森の手前まで四日ほどかかる。

 タジは今までずっと、領都までの遠さを辟易する以外のことをしていなかった。ところが今回の帰省には気の置けない友人が同行していて、過ぎてゆくだけだった景色の中にも見るべきものがたくさんあることに気が付いて、時間の経過がとても早い。途中の街に宿をとり、周辺をあちこち見て回り、自分の世界はこれまでとても狭かったのだなと実感しつつ、周囲の景色に懐かしい色を見出したあたりで乗り合いの馬車の旅は終わった。

 森の入り口の手前には、この地域としては大きめの街があり、森を抜ける道はこのポロトアと呼ばれる街の外れで街道から分岐している。ここから先は、村からの迎えの馬車に乗る。


「おうタジ。お前また背が伸びただろ。小さいのを探しちまったから一瞬わかんなかったよ」

「おっちゃんが縮んだんだろ」

「まだ縮むほどの歳じゃねえよ」


 待ち合わせ場所として指定されていた乗り合い馬車の停車場で、笑いながら出迎えてくれたのは父の友人のジトだ。村とこの街の間で、郵便には載せられない荷物を運ぶ馬車を繰っており、荷物のついでに人も運んでくれるのだ。荷台の隙間に荷物と一緒に乗る形にはなるがそのぶん料金は格安で、地元民にはとてもありがたい存在である。小さな頃のタジは彼が持ち込む外の世界の話を聞くのがとても好きで、その結果が今である。

 同行者がいる旨は既に伝えてあったので、同級生の友人としてイトロを紹介した。人当たりの良いイトロはさっさと馴染みそうだと思ってはいたが、気が付いたら会話が軽口のたたきあいになっていた。彼ら二人はどこででも生きていけるタイプなんだと思う。


「お前ら、この後の飯になるもんは持ってるか? あるならもうこのまま出発しちまってもいいんだが、休憩したほうがいいか? この時期なら日はまだしばらく高いし、時間の余裕はあるぞ」

「携帯食持ってきてるし、さっき追加で買い足したから完璧。大丈夫だよ」

「俺も大丈夫っす」

「それならこのまま出ちまうぞ」


 この街は村から一番近い集落にあたるが、それでも村までは荷馬車で丸一日かかる。荷の揚げ降ろしに使う時間もあるため、ジトはポロトアでは泊まらず、森の中で一泊する。タジが最初にここまで送ってもらった時には、荷馬車を一泊させるのもタダじゃないしな、と笑いながら言われた。

 今回は予めこの予定でイトロに話を通しているのだが、彼は建物があるところ以外に泊ったことがないそうで、人生初の野宿だと盛り上がっていた。今もものすごく期待した顔をしているので、タジもつられて楽しい気分になってしまう。

 街外れの流通倉庫に停められていた馬車の荷台に乗り込んで、荷物と一緒に揺られる旅が始まった。今回の荷物は主に布と紙、それ以外は砂糖や村では採れないスパイス、調味料の類が多いそうだ。村で自給できるものであっても加工に手がかかるなら量は作れず、大規模に生産している地域のものは質も安定している。そんな感じで、最近は外から買ってるほうが多いんだよな、とジトは言った。


 街を出た先は牧草地帯で、まばらにある民家の間にぽつり、ぽつりと牛がいる。遠ざかる街は影のようにおぼろになり、最初はまだ太かった道は徐々に貧相になって、前方には森が見えてきた。

 数頭単位でゆっくりと草を食む牛を見ながら、イトロが首を傾げる。


「あの牛達、特に柵とかなさそうだけど大丈夫なの」

「夜は牛舎に入れてると思うよ」

「そりゃそうなんだろうけどさ、森の近くは獣が出やすくて危ないって聞いたことあるぞ。身を隠すところが多いから近寄って来やすいんだと」

「そういや聞いたことある。でも、どうなんだろ? うちは村自体が森の中だけど、普通に牛も豚も鶏もいる」

「森の近くが危ないってのが偽情報か? でもまあまあ聞く話なんだよな」

「『森の近くは獣が出やすくて危ない』ってのは本当だ、よそではちゃんと気をつけろよ。ただ、うちの森にはそれが当てはまらねえんだよ。だから呑気にしてられんだ」


 ガタガタと揺れる荷台の上での取り留めのない会話に、前方を向いたままのジトが解答を示してくれた。


「そうでなきゃあんな森の真ん中に村なんか作らねえだろ」

「なに、うちの森ってやっぱなんか特殊なの」

「王の森だからな。タジは聞いたことないか? 若い連中はもうあんまりこの言い方してねえけど、年寄り連中は言うだろ」

「そういや言ってたなあ」

「その辺はまた後で話してやるよ。今は馬の面倒を見にゃならん」


 ガハハ、と笑って姿勢を直したジトを後目に、タジとイトロは顔を見合わせ、なんとなく声を潜める。


「……またしれっと知らない言葉出て来てるけど、『王の森』って何」

「俺も詳しくはわかんない。うちの森は王の森だってのはわかるけど、具体的に何なのかは気にしたことなかった」

「そっかー、気にしたことなかったかー」

「なかったなあ」

「まーでも、きっと、そういうもんなんだろうな。俺だって領都の道が全部舗装されてる理由とか気にしたことねえし」


 そういうものだったのだ。ただ、それはおそらく皆がそうで、そういうものがなぜ「そういうもの」であるのかは、「そういうもの」でない場所から指摘されでもしない限り、認識することは難しいのだろう。


 荷台をガタガタ揺らしながら進んだ荷馬車は、傾いた日差しが落ち切る前に森の中に到達した。日没も近い時間でだいぶ暗くなってはいるが、周囲の様子はなんとなくわかる。タジは久しぶりに見る夏の森を懐かしく、イトロは物珍しく眺めている。少し身を乗り出してしまったが、荷台から放り出されるようなことはなかった。

 森の中を少しだけ進み、入口が見えなくなったあたりで道の脇に馬車を止める。森の道には行き違いや休憩ができるように少し幅を広げた個所が時々設けられており、これもそのうちの一つだ。他との違いはすぐ近くに飲める水が湧く小さな泉があることで、道をよく使う村の関係者は大抵ここで休憩をとっている。


「この泉、川の一部っぽいな」

「言われてみればそうかも。こんな感じの泉、結構あちこちにあるんだよな」


 泉の端で静かに湧いた水は泉の底でそのまま地面に戻っているようで、僅かな水音しか聞こえない。少しでも離れてしまえば葉擦れの音に紛れてしまい、道から気付くのは難しそうだ。

 この泉には人の手で掘られたらしい深い部分がある。水筒と桶に水を汲み、振り返るとジトが火を熾しているのが見えた。その横で、馬が飼い葉を食んでいる。


「おっちゃん、馬に水やっていい?」

「おう、頼む。それだけやったらメシ食おうぜ」


 ここでは停めた馬車の脇に飼い葉を入れた布袋を置き、それに寄りかかるようにして一晩を過ごすのがお勧めだという。道を少しだけ外れたこの場所の地面には程よい弾力のある草が生えており、座ると案外ふっかりとした感触となるので、長時間でも過ごしやすい。


「……すげえ、完全にくつろぎスポットになってる」

「いいだろ? 物はなんもないし、天気悪ぃと大変だけどな」

「ここ、泉もだけどこの草が狙ったように具合いいんだよなあ。誰か植えてんのかな」

「知らねえなあ。昔っからここに生えてるけど、村の誰かが特に手ぇ入れてるって話は聞いたことねえな。もしかしたら王がやってくれてんのかもな」


 楽しそうに笑っていたジトがふと真顔になり、タジとイトロに向き直った。


「お前らは学校出たあと領の役人になるんだろ? 仕事であちこち行くんだろうが、この森を基準に他所の森を見たら駄目だ。場合によっては命に関わる」

「ああ、獣とか」

「あとは毒虫とか、見えねえ位置にある湿地とか、倒木とか勝手に落ちてくる枝とかな。世間で言われてる注意はちゃんと守ったほうがいい。この森の中だったらそこまで気にしなくていいが」

「……ここは『王の森』だから?」

「王の森だからだな。ここは王がある程度管理してくれてんだよ。だから獣も大して出ねえし、都合のいいとこに水があったりもする。獣は絶対出てこないって訳じゃねえし、危ないことがない訳でもねえから、油断しきってんのもダメだけどな」


 ジトは火にかけた小鍋で茶を沸かしていたようで、タジ達にも振る舞ってくれた。村で採れる薬草を煎って煮出したもので、懐かしい味がする。


「そんなわけでこの森ん中は結構安全だし、火の番は俺がするから、安心して寝こけてくれて大丈夫だ。寝過ごしても積み込んでおいてやるよ」

「おっちゃんが森の入り口じゃなくて森の中で休憩するのも、もしかしてそういう理由?」

「そういうこったな。下手な場所より危なくねえんだよ、ここは」

「ここの道が妙にきっちり整備されてるのも、なんか関係あるんすか?」


 神妙な顔でお茶を啜りつつ、イトロが質問を投げる。


「この先で人が住んでるのはオーノイリだけなんすよね? 抜け道扱いなだけにしては随分手の込んだ整備してるような気がして」

「……言われてみれば、森に入ってから全然揺れてなかったな。その手前はめちゃくちゃ揺れてたのに」


 タジにとっての道とは、この森を抜ける道だった。一方で村を出てから見た未舗装の道は、土の下にある岩や水の流れの影響を受けてもっとでこぼこしているものばかりで、使いにくそうだなとは思っていたのだ。思ってはいたのだが、この道の状態のほうが特殊だということには気付けていなかった。


「俺は家業手伝ってる訳でもないし、工法なんかも聞き齧った程度にしか知らねえけど、たぶんこの道、大きい石は砕いたり、土流れないようにしたり、下のほうに砂利入れて平らに突き固めたりで相当丁寧に作ってるぞ」

「そんなに手間かかってんの? ここに?」

「四頭立ての重い馬車で飛ばして行けるぐらいの出来に見えるんだよ。でも地図には点線でしか載ってないっつう」

「重い馬車で飛ばせるように、ってのは当たってんな。有事の時に使うつもりがあるってのは領主家から聞いたことある。他の道や航路使うより、この森の中を突っ切るほうが安全だからな。関係者以外他言無用とも言われてっけど、お前らどうせ領主家に仕える予定なんだから、まあいいだろ」


 そのうち関係者になるのが決まってるもんな、と言ってジトはニヤリと笑った。


「タジはわかってるだろうしこれから見られるけどもよ、村に入る道もおんなじ規格だよ。幅はちょっと狭えけどな」

「ああー、そっか。拡張工事の作業員が温泉入りに行ったって話はそれでかあ。一緒に作業してたんだ」

「お前らそんなことも知ってんだな」

「イトロの親父さんが工事に関わってたって」

「ほほう。じゃあますます関係者だな」

「いや全然門外漢です」

「もう何となくわかるだろうけど、有事の時には村に要人を匿ってもらう可能性がある、とも言われてんだよな」


 それはこんな道端で聞いていい話なのか。


「ここまで聞いたんだから、お前ら絶対出世しろよ」

「応援だったの、これ……」


 もっと普通に応援して欲しかったなあ、とイトロが天を仰いだ。タジとしても全くの同感である。


「でもこれで、オーノイリが地図に載ってない理由がわかったわ。載せられねえよなあ」

「載ってねえのか」

「少なくとも領発行の地図には載ってなかったよ。民間のやつも名前が出てるぐらいのやつしか見つけてない」

「念入りにやってんなあ。地図に載ったところで辿り着けるとは限らねえんだから、そこまで慎重にしなくても良さそうなもんだけど、まあいろいろ事情があんだろな」

「辿り着けるとは限らない……? あの間違いようがない道を……?」

「王が隠すんだよ。うちの村は王が気に入って維持してるらしくてな。基準はよくわかんねえとこあるけど、村にとって良くないもんだと王が認識すると村を見つけらんなくなるみてえだな」


 郵便が時々遅れ、辿り着けない湯治客がたまに出る、その理由がこれなのだろう。日常的に来訪するものを「王が認識して」「王が隠す」。


 ――「王」?


 この国の政治体制に「王」はいない。首都にいるのは盟主であり、王とは決して呼ばれない。

 そのことを思い出したタジは、この森の「王」が何を示しているのかをやっと理解した。


「……『緑の王』」


 村の家の敷地には、入口の近くに必ず小さな祭壇がある。手頃な石を数個積んで、木のコップを据え付けた程度の些細なものだ。敷地に余裕がない家でも、戸口の脇に直接木のコップを置いている。

 この小さな木のコップに毎日水を継ぎ足すのが村の子供たちの日課で、それは「緑の王に挨拶する」と呼ばれていた。

 領都に出てからはすっかり忘れていた。あれは領都が都会だから無いのではなく、この森の中にある村だからあるものだったのだ。

 今まで特に考えたこともなく、ふわっとした想像上の存在だと思い込んでいた「緑の王」は、おそらく実在している。


 ああ、これは確かに、王の森だし、王の村だ。


「最近あんまり名前出す奴もいねえし、若い奴だと意識してなくても無理ねえな。そんでも、ここは緑の王が実際に手を回している土地で、俺達が呑気に生活できてんのも王がちょっとずつ世話してくれてるお陰だ」

「ええとごめん、話に割り込むけど、『緑の王』とはどなた……?」

「たぶんだけど、人じゃないと思う」

「少なくとも人じゃねえな。俺も見たこたぁねえからどういう姿してんのか知らねえ。お役目なら知ってっかなあ」

「すいません、『お役目』もわかんねえっす」

「おっとすまん。そりゃ知らねえよな」


 身近すぎて事情を断片的にしか理解できていないタジと、全く知らないイトロにもわかるよう、ジトが説明をしてくれた。


 この森は遥か昔に自然にできた森だと思われるが、昔から森の状態を整える「何か」が居て、この「何か」を人間が「緑の王」と呼んでいる。

 緑の王は森の中にできた人間の村を庇護している。理由はわからない。

 王は森に入った人間の意思をある程度把握することができる。

 村の人間が王と直接意思疎通することはできないが、媒介を通してのやり取りはできる。

 この媒介の管理や、王についての情報を代々伝えてることが役割となっている家が「お役目」と呼ばれている。


 そして、森の中において、王は人間の目を欺くことができる。


「うちの村にあんまり変な奴は入り込めねえ。王がそうしてるとしか思えねえんだ。だからこんな辺鄙なとこにあるうちの村を選ぶ湯治客がいるんだよ」

「それを領のほうでも把握してるんすね」

「そういうこったな。学校の先生なんかも、入れなくって交代したとかあるし、よくわかってるだろうよ」

「いや待って、えっ? それ俺初聞きなんだけど」

「子供にそんなの教えねえよ。新年度に先生が来るやつ、人によって来る日が違ってたことあんだろ? あれ他のとこだと毎年全員同じ日だって話だ」

「ええ……そうなの?」

「ああうん、決まってたわ。地方から来る先生は新年度の十五日前に赴任って決まってんの。歓迎会とかしたな、教会の講堂使ってさ」


 イトロは懐かしがっているが、タジはただ愕然とすることしかできない。地元のことはよく知っているはずなのに、それが何を意味するのかを全くわかっていなかった。


「うちの村だと教会もないから……」

「ポロトアだと初等学校の隣が教会だな。領都でもそうなってんのか?」

「そっすね。救護院も兼ねてるんですけど、学校行く奴の弟とか妹をついでに預けたりもできるんすよ」

「あー、あれにゃそういう役割もあんのか、そんで学校の隣か。なるほどなあ。うちの村にねえのはお役目の家がやってることと被るせいじゃねえかな」


 こういう話すんのも面白いもんだな、とジトが笑っている。タジはあまり笑えなかった。地元出身者としての矜持みたいなものが自分の中にあったことも、たった今はじめて知った。


「俺ってなんにも知らないんだなあ。地元のことなのに」

「みんなそんなもんだろ。つうか、そもそもの成り立ちが特殊すぎるだろお前んとこ。人じゃない何かが関与してるとか、普通にしてたらわかんねえよ」

「……イトロは、不気味だなとか、思わないの」

「え? いやあ全然。ひとさまの地元に対して大変失礼な感想になりますけども、正直とっても面白いです」

「そっかあ」


 気を使っているわけではなさそうなイトロは、結構いい奴だと思う。少し正直すぎるけども。


「……いや待って、俺らのこの話、もしかして王様が聞いてたりする?」

「聞いてっかもな」

「待って、俺挨拶もしてないのに失礼なこと言ってる気がするな? すんません! こんばんは! お邪魔してます! 悪気はないです!」

「挨拶してるかどうかの問題じゃないよな?」

「いい感じに挨拶したら結構いろいろ許されるって兄貴にならった!」


 ジトが腹を抱えて笑っている。


「お前らみてえなかわいらしいガキ共なんざ、王にとっちゃどうってことねえよ」

「いけそうっすか? ガキで良かった!」

「いやいや、俺らもう成人してるよ? ガキってほど子供じゃないから」

「そういうとこがかわいらしいってんだ。オラお子様たちはさっさと寝ろよ、明日は早めに出るからな」


 笑いながら毛布を渡してくるジトに礼を言って身体を傾けたが、勝手に盛り上がったままのイトロが面白すぎて、なかなか寝付けないまま夜は更けていった。





 翌日も予定通りの行程を進んでいた。とはいえ、あとはただ森の道を道なりに進むだけである。


 一度の休憩を挟んで、もうすぐ村へ行く道が見えてくるはず、という辺りで、後ろに別の馬車がいることに気が付いた。二頭立てで、少し立派な作りのものだ。村への湯治客にしてはちょっと立派な馬車すぎるが、しかしそれ以外に思いつかない。

 この森の中を抜ける道は、いろいろな思惑によりうっすら隠された存在だ。村に出入りする者しか使わないし、それも二日に一度の郵便馬車がおそらく一番頻度が高い。タジはこれまで数回この道を使っているが、郵便馬車と行き違ったことが一度あるぐらいで、それ以外では他の馬車がいるのを見たことがなかった。

 横ではイトロが地面に殆ど轍がついていないことに感動している。よほどきっちりとした作りをしているらしい。


 イトロと二人で後ろを眺めながら、タジはそろそろ村への分かれ道に差し掛かるはずだと思っていた。しかし荷馬車はそのまま進んで行く。

 村の子供が村から出ることは基本的にないのだが、父親が湯治客相手のやり取りをしていた関係で、タジもこの道に出る手前までなら何度か来たことがある。普段とは少し違う場所は面白くて、周囲の雰囲気をよく覚えていた。草木の生え方だってだいたい覚えていると思う。この辺りのはずなのだ。


 分かれ道が見当たらないまま、道なりに進む荷馬車はやがて速度を緩め、道が広くなった場所で止まった。


 タジはこの場所を知らない。領都へ行く時、村に戻って来る時、そのどちらでも見た覚えがない。

 村へ行く道を、あのわかりやすい分かれ道を、通り過ぎているとしか思えない。


「ちっと早えけど休憩すんぞ」


 大きく声を張り上げたジトがタジ達を荷台から追い立てた。


「そこにちっせえ川があるから、お前ら顔洗ってこい、眠そうな顔してんぞ」


 ジトが指さした先には確かに小さな水の流れがある。タジはのろのろとした足取りで水面に向かった。イトロが心配そうにこちらを見るぐらいには酷い顔をしているのだろうが、取り繕う気にもなれない。



 さすがに、生まれ故郷に拒絶されることになるとは思わなかったのだ。



 顔を洗って、やはりのろのろと立ち上がって振り返ると、ジトが火を熾して小鍋を置いているのが見えた。浮かない顔をしているであろうタジ達に渡されたのは、朝に煮出したお茶の残りを温めたものだった。

 賑やかだった昨晩や今朝とは打って変わって、静かにお茶を飲む三人の脇で、馬も静かに飼い葉を食んでいる。


 しばらくするとガラガラという車輪の音と馬の蹄の音が近付いてきた。後ろにいた馬車が追い付いてきたのだ。

 顔を上げたジトが、挨拶するように片手を挙げた。向こうの御者は会釈を返したようだ。少し立派な二頭立ての馬車は、速度を変えることなく通り過ぎ、緩やかなカーブの先に進んで見えなくなった。


 そのまましばらく静かに火を囲んでいたジトが、突然素早い手付きで火を消した。


「もう大丈夫だ。戻るぞ」


 手早く準備を整えて、荷馬車は元来た道に引き返した。どうやら元々こういうつもりだったようだ。


「郵便がな、時々遅れんだけどよ、その原因がだいたいこういうのだよ。付けられてんだ」

「……なんで」

「村に入れねえからだな。この道を通る郵便馬車は村に行くやつしかねえからな、付いてったら自分らも行けると思ってんだ。王がそんなの見逃すはずねえけど、その代わり一緒くたに弾かれちまう。とんだとばっちりだよ」

「さっきのあの馬車は何だったんすかね?」

「わかんねえなあ。こうなったぐらいだから、なんか良からぬ思惑でもあったんだろうな。だいたいポロトアからこんな荷馬車追っかけてくるような金持ちなんざ、どう考えたってまともじゃねえだろ」

「ポロトアから付いてきてた? うそだろ」

「俺はあの馬車あっちで見てるからな。変なとこに立派なもん停めっから覚えられるんだよ。森入る前にお前らが牛の話してた辺りでもちらっと見たぞ」

「うわあ、嫌な感じに杜撰……」


 盛大に顔を顰めたイトロの感想に、ジトが笑い、馬車は速度を落とした。


「ほら、大丈夫だったろ。俺らはとばっちりだ」


 見覚えのある場所で荷馬車は曲がり、分かれ道に入っていく。


「タジはオーノイリの子だし、イトロはオーノイリの客だ」


 タジは空を見上げた。夏の森では木の葉が茂って、空が少し狭くなっている。

 涙はなんとか零れなかった。





 久しぶりに帰ってきた村の子供とその友人は、親兄弟から歓待を受けた。


 領都出身で人当たりがいいイトロは特に大人気で、あっという間に話が回り、タジの弟妹の友達の友達ぐらいの子まで集まってしまった。タジ本人にさほど人気がないのは、今年は春にも帰っていて希少性が低く、何より都会っぽさで劣るからでは、というのが姉の見立てだ。それでも大人達は垢ぬけた、大きくなったといって喜んでくれた。身長はやはり少し伸びていたらしい。

 子供達に囲まれて抜け出せなくなっていたイトロを救出して、以前彼が行きたがっていた外湯に放り込んだところ、甚く感謝された上に「ここに住む」と言い出したので笑ってしまった。


 夏の森は豊かで楽しい。何でも面白がるイトロを連れて、タジは森の中を歩き回った。子供の頃の遊び場はほぼそのまま残っていて、甘い実をつける木や登りやすい枝ぶりの木も健在だ。虫を見ては盛り上がり、岩を見ては盛り上がるイトロについては、元気すぎて息切れするのではと心配になる。

 村ならどこにでもある、緑の王の祭壇も改めて見せたところ、このコップが木であることの意味を聞かれた。そう言えば知らない。父母に聞いたところ、詳しくは知らないという前置きの上で「王は植物と縁が深いからでは」と言われた。生まれ育った故郷だが、タジが知らないことはまだたくさんある。


 村にはそれなりの大きさの畑地が幾つかある。普通では考えられないこれも、折角の機会だからと改めて見に行った。

 この村は森の中の一軒宿が始まりだが、宿の人間と客のための食糧を全て森の外から運び込むのは難しく、自給自足のために小さな畑が開墾されたのが最初だそうだ。

 火山から出た岩と灰が積もったこの森は、一般的に畑に全く向いていない。村の人口が増えて食糧難に陥りそうになった時、広い範囲に落ち葉が溜まった場所が発見されたり、泉の水が引いた後に肥沃な土ができていたり、そういう奇跡的なことが幾つかあって無事に畑を広げることができたという。

 タジが全く知らなかった話だが、これはお役目の家の子が教えてくれた。お役目の家はこういう話も代々語り継ぐのだそうだ。



 領都と村の間の移動には片道五日ほどかかる。夏の休暇は十五日間なので、休暇中に村に居られるのは最大でも五日間だけだ。

 タジ達は今年の冬に学校を卒業する。本格的な就業は行政年度の初日からとなるため、冬から春までの間は事前実習や生活の準備に充てられる。次の帰省はおそらくそこでできるのだが、その後は長期間の休暇を取ることは難しくなるだろう。もしかしたら領都からさらに遠い地域に赴任となるかもしれず、タジが次に夏の村を見るのは何年先になることか。


 緑の濃い夏の森の天井を、大きく切り取った下に村がある。夏の日差しを浴びるこの景色が、自分はことのほか好きだったのだと自覚した。

 世の中が結構な速度で変わっていくことを、タジは学んで知っている。この先に何があるかはわからない、もしかしたら有事と呼ばれる事態だって訪れるかもしれない。それでも。


 ――それでも、この光景は王によって守られる。


 ここは王の森で、王の村だからだ。

 それがとても嬉しくて、タジははじめて、王に心から感謝した。



お読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
心地良い読後感を与えてくれる素敵な作品でした。 いずれ、文明が進んで森が切り開かれる オーノイリに住んでいる住民の中から、より文化的な生活を求む声が生まれたら 緑の王は、どのような判断を下すのか。 …
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