うっかり女神
ティナの頭の中に、柊紅葉の記憶が流れ込んでくる。
柊紅葉の一年間は、学園に入学するこの日から始まるので、それは記憶というか、設定である。
ティナがこの世界に生きているのだから、設定ではなく記憶だろうか。
ともかく、柊紅葉とはティナで、ティナとは柊紅葉だった。
ごく普通の家庭で生まれ、優しい両親に愛されて育った。
中学までは両親と暮らしていたが、名門と言われる私立シャーロット学園に入学が決まっていたので、両親は紅葉を残して海外に転勤をして、一人暮らしになる。
両親と共に暮らしていた一軒家から、私立シャーロット学園までは徒歩で四十分程度の道のりだ。
紅葉は自転車に乗れないので、徒歩で通学することになっている。
ティナ──紅葉は、部屋の鏡で自分の姿を確認した。
真っ直ぐな黒髪に、真紅の瞳。
ウサギの柄のパジャマを着ていて、寝起きのため頭には寝癖がついている。
「遅刻だわ」
いや、いいけど、別に。
なんなの、この状況。
頭の中の冷静な部分が、冷静に紅葉になったティナに囁く。
『いっけなーい! 大変よ! 聞いて、紅葉ちゃん!』
さらに追い打ちをかけるように、女神の声が頭に響いた。
『せっかく逆ハー人生を楽しく歩ませてあげようと思ってたのに、この世界って、即死の意味でドキドキするヤンデレイケメンパダイスだったの!』
「全く意味がわかりません」
『そうよねぇ。早い話が、あなたはこの世界のヒロインちゃんなんだけど、割とすぐ死ぬから気をつけてってこと』
「えっ」
『うっかり忘れてたのよ。この乙女ゲーって、ふざけたタイトルのくせに即死選択肢だらけでね。右か左か選ぶだけで死ぬのよ。そのせいで、ゲーム評価は真っ二つに別れたわ。スリルがいいっていう乙女と、乙女ゲーに死は求めてないっていう乙女に。ヤンデレとホラーは紙一重ってやつね』
「女神様、あの、私、素直に死にたかったのです」
『命を粗末にしたらいけないわ! あなたにはティナの記憶があるかもしれないけれど、今のあなたは紅葉なのよ。紅葉の体で紅葉の人生を生きているの。あなたが死ぬことは紅葉を殺すことになるの』
「それは……」
聖女ティナは、人の命を守るために生きてきた。
大変な人生だったが、そこに後悔はない。
ただし、大切にしなければいけない命の中に、自分自身は含まれていなかった。
自分の胸に、自分で手を当ててみる。
そこには確かに心臓の拍動がある。よくわからないが、ティナは紅葉として生まれ変わり、この場所で生きているのだ。
今はティナではなく紅葉である。
だとしたら、命を粗末にするのは間違っているのだろう。
死にやすいというのなら、紅葉のことは聖女である私が守らないと──。
そう、ティナは思った。
どうにもまだ、馴染まない。頭の中に、ティナである自分と紅葉である自分が、二つ存在しているみたいだ。
ティナには両親に愛された記憶などないのに、紅葉にはそれがある。
中学時代は友人もいた。いじめられたりもしなかった。ごく普通の、平凡な日々だ。
「ともかく……学園に行かなくては」
何かに突き動かされるように紅葉は制服に着替えると、鞄を掴んで走り出した。
入学式初日から遅刻するなど、あってはならないことだ。
正直、もう目立つような生活は送りたくない。
人々に注目されて、ティナは不幸になった。王太子と結婚なんて望んでいなかったし、そもそも聖女にだってなりたいと望んだわけじゃない。
『ティナ。私の助言は、ハイパー助言タイムとして物語の幕間に入るのだけど』
「エリザベート様。幕間とか、よくわからないです」
『そのうち理解できるようになるわよ。それはそれとして、このままじゃあなたがかわいそうだから、お助けマスコットをそばに置いてあげるわ。じゃあね、ティナ。グッドラック!』
グッドラックとか適当なこと言うな──。
と、思ったところで、ティナは自分がグッドラックの意味を理解していることに驚いた。
紅葉の記憶があるからだろう、ティナの世界になかったものも、今のティナには理解できる。
道路、電柱。車、バイク。ガードレール。信号、横断歩道。
何もかもが見慣れないけれど、記憶がある。
すごい勢いで家から出て、すごい勢いで学園までの道を駆け抜けていると、頭の上に何かがべちゃりと降ってきた。
「うわ」
『紅葉、こんにちは! 僕はサポートキャラクターのエンジュだよ。よろしくね』
頭の上に落ちてきたのは、白くて長いフェレットだった。
「お助けマスコット」
『サポートキャラクターだよ』
感情の籠らない少年の声が紅葉の頭に響く。
白くて長いフェレットのエンジュは、紅葉の首に巻き付いた。
『エリザベート様から、君の面倒をみるように言われたんだ。僕は君のペットという設定だよ』
「ペット同伴で学園に行ってはいけない」
『大丈夫だよ。この世界だと大抵のことは、そういうものとして許されるから』
ならいいか──と、紅葉は思った。
『ところで紅葉。校門に入る前に、校門に入らないでどこかに向かう女生徒を追っていくと、君は異形に襲われて死ぬからね』
「何故……!」
聖女として魔物退治に勤しんでいたティナだが、新しい世界にも魔物がいるだなんて想像していなかった。
どの世界でも魔物とは共通の存在なのだろうか。
「あ。あの子……」
エンジュの言う通り、校門前までやってくると、三つ編みの女生徒がふらふらと校門には入らずにどこかに向かっていく姿が見えた。