その日の帰り道は……
息を吸うと、お線香の匂いが肺を満たした。
目を開ければ、二筋の細い白煙が揺らめきながらゆっくりと上っている。
「帰るか」
そう言って、隣で手を合わせていたお兄ちゃんが立ち上がる。
「お兄ちゃん、そっちじゃないって」
お兄ちゃんが行こうとする道を見て、わたしは慌てて止めた。そっちは来た時に使った道だ。
わたしの地元の村には《死者が還ってくるお彼岸やお盆のお墓参りの帰りは、行きと違う道を通らないといけない》という風習がある。
そうしないと未練がある人が付いてきてしまうという。
だからどの家のお墓も、入り口と出口は別れている。
もっとも、家の近くなら同じ道を通ってもいい。というか、そうしないと帰れなくなっちゃうし。
本当は昨日――迎え盆の夕方に家族全員でお墓参りにくるはずだった。
だけどわたしとお兄ちゃんは新幹線の遅延に遭い、到着するのが夜になってしまった。そして今朝「暑くなる前にお墓参りに行ってきなさい」と朝食が終わると同時に、お兄ちゃんとお墓参りに行くことになったのだ。
「お前、まだそんなん信じてるのか?」
馬鹿にしたようにお兄ちゃんが言った。
一回り年上のお兄ちゃんは、良く言えば現実主義者で、合理的。悪く言えば、融通が利かなくて、神経質。わたしにとって、両親よりも口うるさい存在だった。
そしてそれは私が大学に進学しても変わらない。
そんな人だから、この村の「風習」も、子供の頃から「迷信」できっぱり切り捨てている。
八歳年上のお姉ちゃんがいれば味方になってくれるけど、残念ながら今はいない。お兄ちゃんはさっさと来た時と同じ道を歩き出す。
しょうがないからおにいちゃんを追いかける。
なんとなく、お兄ちゃんを一人にしてはいけない気がした。
「しっかし、いつになっても田舎だな。コンビニも八時開店、二十一時閉店だし」
「SDGsだよ。地球環境に優しくっていいじゃん」
家からお墓までは一キロくらい。その間に民家はほとんどない。
右手は山、左手は田んぼ。舗装されていても農道だから、道の真ん中を歩いても誰にも怒られない。
白い雲が浮かぶ青空の下、わたしたち以外誰もいない道をのんびり歩いていく。
「わたしは好きよ。この道もずっと歩いていられる気がするわ」
涼しい顔をしているお義姉さんがのんびりと口を挟んだ。
お義姉さんは東京生まれの東京育ち、東京在住なので、こういう《絵に描いたような田舎》は本当に珍しいんだと思う。
「お兄ちゃんのモラハラがあったらすぐに言ってね。サークルの先輩に、弁護士一家の人がいるの」
「するわけないだろ!」
「自分がモラハラしてるって自覚ある人、いないと思う。お兄ちゃん、言い方キツイじゃん」
「陽介君は正しい人よ。確かにちょっと言い方が厳しい時はあるけど、だからこそ人を否定することは絶対に言わないわ」
ふんわりした雰囲気のお義姉さんがそう言うと、お兄ちゃんは照れて顔を背けてしまった。結婚四年目でも仲が良くて何よりです。というか、わたしお邪魔虫じゃん。
そう考えて、何かが引っかかった。
何か、大切なことを忘れている気がする。
足を止めて振り返った。まだうちのお墓が見える。緑の絨毯を敷いたような田んぼも見える。
そして、おかしなことに気づいた。
どうして誰もいないんだろう。
夏だし、人口の少ない村だけど、朝の八時なら農作業をしている人を見かけることもある。なのに軽トラックの一台も走っていない。
ふと、さっき供えたお線香が思い浮かんだ。白い煙が上るお線香は二本。でも、今は三人で歩いている。
「……あなた、誰?」
わたしはお義姉さんに向かって言った。
そう、わたしはお兄ちゃんと二人で家を出た。お兄ちゃんが火を付けてくれた線香を受け取って、二人で並んで手を合わせた。
「何ふざけんてんだ、お前。悪いな、変なこと言いだして。早く謝れ!」
お義姉さんは何も言わない。静かにわたしたちを見つめている。
「お兄ちゃんこそ何言ってるの! お義姉さん、三年前に死んだんだよ!」
なんで? どうして忘れてたんだろう。
三年前の夏だった。
帰省途中、赤信号で停車していたお兄ちゃんの車の助手席側に、左折してきたワゴン車が突っ込んだ。
運転手はスマートフォンを操作していて、ハンドル操作を誤ったという。
お兄ちゃんは軽傷だった。けれど助手席に座っていたお義姉さんは助からなかった。
自分だけが助かったことで、お兄ちゃんはボロボロになった。当時のことを思い出すからと、実家にも帰れなくなった。
カウンセリングに通って、そして今年の夏、「やっと踏ん切りがついた」と帰省することができた。
だからさっき、お兄ちゃんを一人にしてはいけないって思ったんだ。
「お前なぁ! あ……あぁ」
お兄ちゃんの顔が歪む。
「……違う。理奈は、理奈は……あの時……」
「夜になったら花火をしよう、って話したわよね」
お義姉さんの笑顔に、ゾクリ、と背筋を冷たいものが走った。
顔は真っ白なのに、両端を吊り上げた唇は異様なまでに赤い。濁った目には、感情みたいなものが一切感じられない。
『……ウ』
呻くような声が聞こえた。
誰もいなかったはずの道には、いつのまにか大勢の人が立っていた。
小さい子供、わたしと同じ歳くらい人、昔の軍服を着た男の人。この世に、未練が残っている人たちだ。
そこにいるのに、存在感がない。虚ろな顔で、じっとわたしたちを見つめている。
そのうちの一人が手を伸ばしてきた。氷のように冷たく硬い指が腕に触れた。
そして、次から次へと手が伸びてくる。
「触らないで!」
この人たちに捕まったら、もう帰れない。
そんな気がした。
わたしは真っ青な顔をしたお兄ちゃんの手首を掴んで走り出した。
どうしよう。どうしたらいい?
村の風習には続きがあったはず。
だけど、パニックなのと、息が切れて苦しくなってきたせいで思い出せない。
『マッテ……』
『イッショ……』
しわがれた声がする。
伸びてくる手を交わすことも限界だ。
もう駄目かも。
その思った時、数メートル先でチカッと何かが光った。
――もし同じ道を通って幽霊に遭ってしまったら、橋を渡りなさい。橋はこの世とあの世の境い目。還って来ていても、彼ら《・・》には渡れないから。
七年前に他界したお祖父ちゃんの声が聞こえた気がした。
光の正体は、田んぼと道の間の用水路にかかる、赤茶色に錆びた鉄板だった。
人のためというよりも、田んぼに農機具を入れるためのもの。それでも、橋は橋だ。
みんなこれを「橋」って呼んでいる。
「ずっと一緒にいてくれるんでしょ?」
橋を渡ろうとした瞬間、お義姉さんの声が真後ろからした。
お兄ちゃんが足を止める。
「……そうだよ、そうだよな理奈。……ずっと一緒にいよう、って約束したよな」
お兄ちゃんはわたしの腕を振り払った。
「お兄ちゃん、駄目だって!」
「美鈴、父さんと母さんと香澄と仲良くな」
おにいちゃんは強い力でわたしの背中を押した。右足が橋を踏む。体勢を立て直そうとする本能で左足が前に動く。
「お兄ちゃん!」
転びそうになりながら振り返ると、お兄ちゃんが笑っていた。
勢いのまま橋を渡り、わたしの意識は途絶えた。
◆
わたしは病院のベッドで目を覚ました。
田んぼの土手の草刈りに来た人が、倒れているわたしを助けれくれたのだという。
お兄ちゃんは、お墓の前で倒れていたところを発見された。心筋梗塞だった、とお父さんが教えてくれた。
お墓には、お義姉さんの遺骨も納められている。
お兄ちゃんもそこで眠ることになった。ずっと一緒に。
来月はお彼岸がある。
亡くなった人が還ってくる日。
お墓参りの帰り、行きと同じ道で帰ったら、お兄ちゃんとお義姉さんに会えたりするだろうか。