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「エンブレン・リシャーナ! 君との婚約を今日づけで破棄させてもらう!」
エンブレンの婚約者であったはずの第一王子が、高らかに叫ぶ。周りに群がる様にいた煌びやかなドレスや燕尾服を着た貴族の学生たちがざわめいた。
それもそのはず。
本日、この王立学園のメインホールでは卒業パーティーが行われていたのだ。
長年第一王子の婚約者を務めていたエンブレンは、卒業パーティーが終わったあと、そのまま第一王子の元へ嫁ぎ、王城に暮らすことになっていた。
それなのに……。第一王子の後ろには、エンブレンの妹であるアンジュテが、目を潤ませて、彼の衣装の裾を掴む様に隠れているではないか。
エンブレンが鋭い視線をアンジュッテに向けると、アンジュッテはまるで小動物のような、比護欲を煽る、わざとらしい仕草で、肩を震わせて見せる。
まるで自分が被害者のような振る舞い方だった。
そんなアンジュッテを見て、第一王子は「大丈夫、何も怖いことはないよ」と彼女の肩を己の胸へと抱き寄せた。
その姿はまるで、彼女を守るナイトさながらだった。
ああ、信じられない。
なんて衝撃的な場面なんだろう。
エンブレンはその光景を見て目を見開く。
——動揺をするな、感情を殺せ。
エンブレンは早鐘を鳴らす心臓を、なんとか諌めようと拳をきつく握りしめ、王子の顔を真っ直ぐにみた。
きっと王子は妹のアンジュッテに丸め込まれたのだろう。
お姉さまは意地悪なのよ。
私にきつく当たるの。
守ってくれるのはあなただけだわ。
そんなことを言われて。
人に甘えるのが上手いアンジュッテが言いそうなことを、姉であるエンブレンは簡単に想像することができた。
「……」
何も言わずに周りを観察しているエンブレンを見て、第一王子はイラつきを覚えたようだ。
「なんとか言ったらどうなんだ!」
焦ったような表情で第一王子は怒鳴った。
なんとか、か……。エンブレンは考える。
この場に相応しい言葉はなんだろう。
ああ、そうだ。
こういう時は、こういってあげなくっちゃいけないわ。
「そうですか……、ではお幸せに」
エンブレンは、その場にいた学生たちが皆一様に、頬を初めてしまうほど、完璧で、貴族らしい落ち着きのある、美しい微笑みを作って言った。
そうして、それ以上何も言わずに踵を返し、会場を去っていった。
そこには突然婚約破棄された人間にあっていいはずの、感傷が不思議なほど見られなかった。
***
エンブレンが退出後。
会場がざわつく。
エンブレンは優秀な学生だった。
学内の人間に「この学校で一番優秀なのは誰?」と尋ねれば、ほとんどの人間は王子よりも彼女の名前を先に出すだろう。
それだけではない。
彼女は身分が高いにもかかわらず、驕った態度を見せない、人格者でもあった。
もともと、幼少の頃から第一王子の婚約者を担っていた彼女は、貴族たちが集まる貴族学校でも、生徒たちを監督する立場にあった。
学内でどんな問題が起ころうと、彼女が一つ言葉を添えるだけで丸く収まってしまう。
エンブレンはそれができるだけの器量と権力を持ち合わせた人間だったのだ。
本来であれば、国の代表者である王子が同じ学校内にいるのだから、王子が気を回すべきなのであろうが、彼はそういった方向には気が回らない人間だった。
誰もが、彼女の存在に感謝をしていた。
自分が何の問題もなく、平和な学生生活を遅れたのは間違いなく彼女のおかげだろう、と。
そんな彼女のことを生徒たちはもちろん慕っていたし、こんな人が王妃になってくれたら、この国は安泰だ、と誰もが考えていた。
だからこそ、そんな彼女を差し置いて、王子と親しくなろうなんて、不義理を働く思う生徒はいなかった。
——彼女の妹であるアンジュッテを除いては。
同級生であった王子とエンブレンより一つ下の学年であったアンジュッテは入学するや否や、王子とエンブレンの間に割って入るようになった。
アンジュッテは休み時間の度に王子のクラスに出向いては、彼を独占するようになったのだ。
その時のエンブレンは馴れ馴れしい妹の姿を見て、眉を八の字にした困ったような表情を浮かべていた。
けれども、控えめなエンブレンは特に諫めようともせず、ただただその姿を見守る姿勢を見せていた。
周りの生徒たちはその姿を見て「エンブレンは婚約者と妹のことを信頼しているのだ」と解釈した。
しかし、二人の仲は周りの人間が予想している以上に、どんどん深まっていった。
卒業パーティーの三ヶ月前あたりから、二人は公衆の面前だというのに絡み合うように体を寄せ合うようになったのだ。
そのいちゃつきぶりは、この二人はまさか一線を越えてしまっているのではないか、と邪推してしまうほどの親密さだった。
皆、二人の様子に眉を顰め、口出しをしたほうがいいのではないかと考えるものもいた。
しかし、二人を見るたびに憂いある表情を見せるエンブレンを見て、取り巻きたちは何も言えなくなってしまった。
そうだ。エンブレンは賢い人なのだ。
この賢い人が何も言わないということは、何か考えがあるのだろう。
自分たちごときが彼女の考えに口を出してはいけない。
勝手に納得したオーディエンスは、そうして口をつぐんだ。
しかし、現実は悲痛だ。
こうして、エンブレンは自らの足でこの場を去ってしまったのだから。
王子とアンジュッテを見守る、観衆は顔を青くしながら考えていた。
本当に、エンブレンはこの婚約破棄を受け入れてしまうのだろうか。
この婚約破棄だって、王子からの一方的な申し出だ。 彼女に落ち度はないのだから、ここで反旗を翻してもいいものなのに。
それなのに……どうして、あんなにあっさりと会場を去っていったのか……?
残された第一王子や、彼女の妹であるアンジュッテさえ、エンブレンの理解不能なまでの清さをすぐには受け入れることができなかったようだ。彼らは何も言わずにたちすくんでいた。
第三者には彼女の考えていることなんて、わからなかったのだ。
***
王立学校の門を出たエンブレンは辺りを見渡し、誰もいないことを確認してから、やっとほっと息をつくことができた。
そして、表情を緩め、一人、溢れでるようなほくそ笑いを浮かべた。
「こんなに上手くいくなんて思ってなかった。これで私は自由よ!」
婚約者として、長年抑圧された生活を送ってきたアンジュッテは、本来の笑みを取り戻し、表情を緩めた。
***
メインホール内に残された、王立学園の生徒たちのざわめきは止まらない。
皆、訳がわからないという顔で、ホールの中心に立つ二人を見ながら、ひそひそと言葉をかわす。
渦中の人、エンブレンの妹のアンジュッテと第一王子は、生徒たちの視線に晒されながら、身を寄せ合ってた。
——どうして?
どうしてお姉様はあんなにも簡単にこの美しい人を手放したの?
アンジュッテは心細そうなうさぎのような潤んだ目で、王子を見つめた。
「アンジュッテ? どうしたんだい? あの女に睨まれて怖くなってしまったのかい?」
「殿下……。そうみたいです。……なぜだかわからないんですけど、姉の『お幸せに』が『計画通り』に聞こえた気がして……」
アンジュッテの言葉に、王子は顔を歪めた。
エンブレンは一体何を考えているのだろう。
王子は、アンジュッテから、自分は長年姉であるエンブレンに疎まれ、いじめられているのだ、と打ち明けられていた。
エンブレンは学校でそんな素振りは見せたことはないが、家の中での出来事というのは家族にしかわからない。
それを聞いたとき、始め王子はまさかと思ったが、涙ながらに言葉を紡ぐ、愛する人の仕草を見た時、それは本当のことなのだ、と信じ込んでしまったのだ。
きっと、今日もアンジュッテはエンブレンの存在感にあてられてしまったのだろう。
怯えたように震えるアンジュッテの小さな白い手を、王子は強く握りしめた。
「大丈夫だよ。アンジュッテ。もう怖いことなんて一つも起こらないからね」
アンジュッテは第一王子に抱きしめられているにもかかわらず、己の身が震えるのをうまく止めることはできなかった。
***
エンブレンは俯きながら城外を歩く。
彼女の肩は小刻みに揺れていた。
——きっと泣いているのだろう。
城内での彼女の様子を見聞きしてしまった下働きのメイドたちは彼女に憐れみの視線を向けていた。
「ふふふ……ははは!」
しかし当のエンブレンは笑みをこぼしていた。
エンブレンは物語の全てが自分の思い通りに進んでいることに、満足していたのだ。
小さい頃から、妹に奪われ続けた人生だった。
父も母も、天真爛漫で可愛らしい妹を心から可愛がり、それとは真逆の私を冷遇した。
アンジュッテ。あなたはなんでも欲しがった。
私に与えられるものの全てを。
だから、あなたは最後に私の苦しみまでを欲したのよ。
月に照らされたエンブレンの顔には隠しきれない狂気が滲んでいた。
エンブレンが我が家であるリシャーナ家に一人で帰ると、玄関近くの応接間でガタンと音がした。
開いた扉から、父がこちらに向かってくるのが見える。
「ああ……アンジュッテ……よく帰って……え?」
父はどうやらアンジュッテが帰ってきたものだと思ったらしい。
帰ってきた人物が、ここにくるはずがないエンブレンだと言うことに気がつき、顔色を変えた。
「エンブレン!? どうしてお前が戻ってきたのだ!? アンジュッテは……アンジュッテはどうしたのだ!」
父は血走った目をしながら、エンブレンの二の腕を強く掴んだ。
エレンブレンは、掴まれた二の腕が少し痛いな、とは思ったが、彼女は優しいのでそんな瑣末なことは気にしない。
明確な答えを望む父に本当のことを教えてやらねばならない。彼女は微笑みながら口をゆっくりと開いた。
「アンジュッテは本当に優しい子ですね。私の代わりに自ら婚約者になりたいと申し出て、今日、卒業式のパーティーで彼女が王妃様になったのよ」
時が止まったかの様な静寂が辺りを包んだ。
そして、全てを理解した父は崩れ落ちた。
「どうして、アンジュッテを! あの子を救ってやらなかった! この国の生贄はお前で! お前でよかったのに!」
「アンジュッテは第一王子からの真実の愛を受け、この国の不幸を全てその身に受けることを今日、決意したのです! 彼女の尊い選択を、私たち家族が喜ばずしてどうしましょう!」
お父様の顔は悲壮に歪んでいた。きっと、アンジュッテに今後待ち受けている苦悩を想像し、苦しんでいるのだろう。
「ハハハ! ざまあみろ! これで生贄になるのはあの子よ!」
エンブレンは頭を抱えながら泣き叫ぶ父親を、高笑いながら見下していた。
***
「エンブレン。君は第一王子の王妃となって、この世の全ての不幸を受け入れる、生贄になってもらう」
「は……?」
エンブレンは父に初めてそう言われた日のことをはっきりと覚えている。
それは彼女が八歳の日のことだった。
彼女は八歳の子供の小さな頭では考えられない、この国の禁忌を教えられたのだ。
——この国は、隣国からも羨まれるほどの平和な国だった。
争いもなく、飢饉やテロが起こることもない、平和な国。
街へ出れば、国民たちは笑い合い、皆協力しながら、生きている。
世界でも珍しいくらいの平和な国だ。
エンブレンはそんな国の宰相家の長女として生まれ、八歳まで何不自由なく生きてきた。
両親は妹のアンジュッテに比べると自分に冷たい気がしていたが、従者たちは優しい。特に擦れることもなくまっすぐに育っていた自覚があった。
だから、父親が何を言っているのか、まったくわからなかった。
「この国の平和は、歴代の王妃がこの国の不幸を肩代わりすることで保たれているのだ」
「不幸を肩代わり?」
「ああ。この国には国全体にある特殊な魔術がかけられている。『この国を幸福に保つための魔術』だ。だが、君も知っている通り、魔術には必ず対価が発生する。この国では昔から、王妃が受け持つことになっている。その身を魔術に捧げることで、一生その体には痛みや苦しみが渦巻く。だが、その代わり国民は幸福になるのだ! 素晴らしい魔術を保たせるための、尊い犠牲として君が選ばれたんだ!」
父は口の中がニチャリと音をたてながら、薄暗い笑みを見せていた。
恐ろしい魔術だと思った。
そんな非人道的な魔術で、私たちの今までの平和は保たれていたのか。エンブレンは何もかも信じたくない気持ちでいっぱいだった。
それ以上に、その恐ろしい贄の役割をさも愉快な表情で娘に告げる父の神経が信じられなかった。
……この人は自分の娘を差し出すのに、なんの抵抗もないんだわ。
貴族の結婚は家同士の繋がりを作るために行われる。だから、そこに幸せになるかならないかなんて、瑣末なことは加味されない。
だけれども、自分の娘がそんなに恐ろしい魔術の贄になることをこんなにも喜べる親がいるのだろうか。
そう思った時、エンブレンはこの『父』という人は自分のことを『人』ではなく『物』だと思っていることに気がついた。
両親が幼い頃から自分に冷たかった理由が一瞬にしてわかった気がした。彼らは傷つきたくないから、愛さないと言う手段を用いて、予防線を張ろうとしているのだ。
みんな、みんな、私のことを愛してなんかいないんだわ。
エンブレンはふと、自分の伴侶となる第一王子の顔を思い出す。
第一王子とは幼い頃から何度もあっている。
日の光がよく透ける色素の薄い金色の髪に、アクアマリンのような青い瞳を持った王子は、いつも柔和で純粋な笑顔をエンブレンに向けてくれていた。
もし、第一王子がこのことを知っていたとしら……。
あの純粋そうな笑顔は紛い物ということになる。
しかし、あんなに直情的——言い換えれば素直な質を持つ、王子にそんな演技ができるのだろうか。
いささか疑問が残る。
「このことを……第一王子はご存知なのですか?」
父に尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「いいや。知らないだろうね。歴代の王がこのことを知るのは、王妃が契約の間と呼ばれる魔術の中心で術にかかってからだと、決まっているんだ。この国の魔術の対価になるには、次代の王からの『本物の愛』が必要とされているからな。だからこそ、このことを知っているのは王と、王妃となる人間の両親だけに限定されている」
体から、すうっと血の気が引いていくのを感じた。
この国はどのくらい前からこんな恐ろしい魔術を使って国を保っているのだろう。
エンブレンはあまりにも大きな国の秘密に、戸惑い、同時に恐ろしい気持ちでいっぱいになった。
今まで自分たちが幸せに生きられていたのは、文字通り歴代の王妃たちのおかげなのだ。
「お前は幸せな人間なんだぞ? エンブレン。お前は一生、第一王子に心から愛されるのだ。私たちの贄になってくれたお前を、王家は大切に『保管』してくれる」
保管。
幼き日のエンブレンはその一言で絶望した。
自分は、その呪いを一身に受けるために、作られた器でしかなかったことを知らしめられた気がしたのだ。
それから、今に至るまで、彼女は両親に『大切』に育てられた。
体を磨く専属の按摩師に、髪結、化粧師。
国一番の技術者たちに磨かれた彼女は誰が見ても美しく成長をした。
まるで、美術品のように。
両親はエンブレンが怪我や病気をする度に血相を変えた。傷の大きさを確認し、それが原因で彼女が死なないか、しつこく医師に確認をした。そして、命に別状がないことがわかると、途端に興味をなくし、愛する娘であるアンジュッテの元へ向かうのだ。
両親のそれは完全に美術品の損傷確認に対する行いだった。
そんな態度で両親が接してくるたびに、エンブレンは全てを悟りながらも、解せない気持ちでいっぱいになった。
どうして私ばっかり、割を食わなければならないの?
エンブレンの心の中には常に煮詰めたような、苦悩が蓄積し続けていた。
そして、反対に妹のアンジュッテには、これでもかと心をくだく。
最初から娘はこの子一人だったのだと言わんばかりに。
この子は自分たちが手をかけて、幸せにしよう。そんな意思が彼らからは漂っていた。
自分とは鏡合わせのように、なんの責務もなく、キャラキャラと笑うアンジュッテが羨ましかった。妬ましかった。許せなかった。
エンブレンは人間になりたかった。
***
「お姉様はいいわね。だってあの第一王子のお妃様になれるんだもの!」
形だけの家族のお茶会で、芸術的な人形のように着飾ったエンブレンに向かって、何も知らないアンジュッテは無邪気にいう。
エンブレンは、はしたなく唇を尖らせ、顎を両手で支えるアンジュッテを見て、静かに目を細めた。
アンジュッテは知らないのだ。自分の姉がこの国の幸せのために贄にされることを。
「ええ。ありがとう。国母として責任を果たせるよう、今から努力を怠らないようにしなくてはね」
エンブレンは荒ぶる感情を制御して、完璧な笑みを作る。
しかし、恵まれているはずのアンジュッテの瞳には、なぜか羨望が滲んでいた。
「……いいわね。お姉様は。あんな素敵な方と結婚できるんですもの」
ハッとした。
彼女もまた、幼いことから会うことの多かった王子に憧れを持っていることに気がついたのだ。
そしてエンブレンは思いついたのだ。
——そうだ。この子に欲しがらせればいいんだ。何も知らないアンジュッテはなんでも欲しがるのだから。
エンブレンが考えた通り、アンジュッテは簡単に王子を欲しがった。
「お姉様の代わりに、私が王子殿下のお嫁さんになっちゃダメなの?」
そう、エンブレンの前で、両親に言って見せたのだ。
しかし、両親は「それはできないんだよアンジュッテ」と彼女をなだめた。
エンブレンが王家に正妃として嫁いだあと、第二王妃になることはできる。だが、お前は正妃には決してなれないのだと、念入りに嗜めた。
なんでも許してくれる自分に甘い両親が、これだけは譲ってくれない。
その何かあるとしか思えない特別感が彼女の気持ちを強く正妃という地位へと向かわせたようだった。
アンジュッテはエンブレンの目に触れぬ場所で、第一王子と交流を持つようになっていた。
王室での子供のパーティーでエンブレンが席を外すと、アンジュッテはこの隙にと、盛んに話しかけにいく。
両親はその様子を見て、眉を顰めたが、止めはしなかった。
父が言うには『この国の不幸』を肩代わりした王妃は、命こそは失わないが、死ぬ一歩手前と言う瀕死状態のまま一生を終えるらしい。
しかもそのまま六十年は生きると言うのだから、これを生き地獄と言うほかない。
そんな状態で子供なんか産めるはずがないので、この国の王族は、第二王妃から生まれるのだ。
両親はこのまま、アンジュッテを第二王妃にすえたいと考えているらしい。
大変なことは『物』に任せて、正しく愛情を注がれる立場に『娘』を。
そんな見えすいた魂胆が、エンブレンの計画を進める潤滑油になったことを父は両親は知らない。
父と母、それにアンジュッテが家族で旅行にいく際も、エンブレンは家に置いていかれたが、そういう時に彼女は家族に可愛がられない可哀想な姉ではなく、王家に嫁ぐ人間であることを強調して伝えた。
「ねえ。どうしてお姉様は私たちとお出かけにならないの?」
アンジュッテが無垢な顔して聞いてきたら、エンブレンは必ずこういってやった。
「私がよそで怪我でもしたら、王家の方々に迷惑をかけてしまうでしょう? 私は王家に嫁ぐものとして、責務がありますから」
そう言った後、必ずエンブレンは彼女の部屋に飾られた第一王子の肖像画を見て、頬を染める仕草をして見せた。
実際には、彼女たちの両親は捧げ物になるしか将来の道がない、エンブレンよりも自分の手元に置いておけるアンジュッテを可愛がりたいがために、エンブレンを家に置いていただけだ。
しかし、他人の認知を歪ませることはエンブレンにとって難しいことではなかった。
彼女にそうした手段を身に付けさせたのは、両親だった。
アンジュッテはその光景を見るたびに、悔しげに唇を噛んで見せた。
その表情の全てが彼女の心を王子の元へと向かわせていることを物語っていた。
そうして、エンブレンは十数年かけて、場を整えていったのだ。
***
「さあ、アンジュッテ。早く契約の間で婚姻を成立させてしまおう。僕は愛しい君と早く結ばれたくてたまらないんだ」
パーティー会場に残されていた第一王子はアンジュッテの手を引く。
王子は、柔和で美しい笑みを浮かべていた。
「アンジュッテ? どうしたんだ?」
今日、本来の予定であれば、姉であるエンブレンがパーティー後王子と共に契約の間へと進むはずだった。
誰もが羨む逆転劇。自分は今、世界で一番幸せなヒロインなんだ。
そう思いたいのに。どうしてだかアンジュッテの心中には、淀んだ澱が漂う。
この幸せが砂上のように脆いもののように感じてしまうのはなぜ? ……こんな体験をするのは初めてだから、私は緊張をしているのだろうか。
——いやだ。私、今日から王妃になるのよ。
こんな時にくよくよなんてしていられない。アンジュッテはお得意の愛らしい笑みを王子に向けた。
「いいえ。殿下。特に問題はございません。共に参りましょう」
アンジュッテは気を引き締めて、差し出された手をとる。
「ああ……共に」
第一王子は嬉しそうに頬を染めていた。
アンジュッテが連れて行かれた契約の間は恐ろしく美しい部屋だった。
花の模様が組み込まれた色鮮やかなステンドグラスに四方を囲まれ、月明かりがその模様を足元に映し出している。
この国での一般的な婚姻は書類の上で締結されるが、代々、この国の王妃だけはこの契約の間で婚姻の儀式が行われるのだ。
まるで夢のように美しい空間を見て、アンジュッテは息をするのも忘れるほど空間に魅入っていた。
「ここに手を置けばいいんだ、アンジュッテ」
そう王子に示された場所には拳ほどの大きさの宝石が埋め込まれた、女性の手を象ったような形の黒いモニュメントがあった。
こちらを招くようにな手の、掌の部分に赤黒い宝石が埋め込まれているのだ。
なんて綺麗な彫刻だろう。本物の手みたいだわ。
アンジュッテはそんな感想を浮かべながら手に近づいていく。
そしてその手を握りしめた。
ヒヤリとした石の冷たさが肌を伝った瞬間、ぼう……と空気が振動する音がした。
驚いて周りを見渡すと、アンジュッテを囲い込むようにどす黒い色をした霧が渦巻いていた。
「待って! なんなのよ! この黒い靄!」
王子も自分が知らない現象に巻き込まれるアンジュッテを見て慌て始める。
これはなんらかの魔術現象だ。
そこまでは、勤勉な学生であった王子にも理解ができた。しかし、それ以上は何もわからない。
この平和な国で、こんな禍々しい魔術の類は、今までに見たことも聞いたこともなかったのだ。
「なんだこれは! これを知っているものは誰かいないのか!?」
王子の叫び声に応えるような形で、部屋にどしどしと人が入ってきた。
その中には王子の父である王もいた。
「ああ、エンブレンは無事にこの国の贄となりましたかな?」
王は穏和な笑みを浮かべながら、二人に近づいていく。
「エンブレン? どうして、彼女の名前が……」
王子の戸惑った様子を見て、王は目を瞬かせる。そうして、やっと霧に包まれた女性がエンブレンではなかったことに気がついたのだ。
「ああああ! ……なんてことを……」
王は大声を上げた。
「父上……陛下!?」
立派な王として、長年君臨し続けてきた自分の父親が、大声をあげ膝から崩れ落ちる様子を見た
「生贄は、エンブレン嬢はどうした!?」
「生贄……。生贄とはいったい……」
何も知らぬ王子は見たこともない魔術の発現に動揺していた。
「残念ながらアンジュッテ嬢は……この国の不幸を全て受け入れなければなりません」
王の言葉に顔を歪めたのは、今もなお黒い霧に包まれ続けているアンジュッテだった。
「この国の不幸……? 何よそれっ……って、っ!?」
よろめいて、そのまましゃがみ込んだアンジュッテは右のこめかみ部分を強くおさえ始めた。
「ちょっと待ってよ! これなんなの! イタイイタイイタイ!」
アンジュッテがうめきはじめた。それを見て、第一王子は血相を変えた。
「アンジュッテ!? いったいどうしたんだ!」
「あーーー! あっー!」
アンジュッテを襲ったのは脳内を端から端まで焼き尽くされるような、とてつもない痛みだった。
いっそ、死んだ方がマシなのではないかと思ってしまうほどの。
そうしてアンジュッテは魔術に取り込まれていった。
***
「エンブレン様、本当にこの家をお出になるのですか?」
そう声をかけたのは家族の輪から外されていたエンブレンにも優しく接してくれていた、侍女だった。生まれ育った屋敷から出るために、荷物を詰めるエンブレンを見て瞳を揺らしている。
自分の代わりとしてアンジュッテを差し出したエンブレンはもうここにはいられない。
両親はエンブレンを一生恨むだろう。
生贄になるために養育したにも拘らず、その責務を果たさなかったのだから。
そうなることはとうの昔に予測していた。
だからこそ、エンブレンは今日のために着々と準備を進めていたのだ。
エンブレンが玄関を出ると、屋敷の前には、豪奢な馬車がとまった。
紳士的な一礼をして、こちらに向かってきたのは、学生時代から連絡を取り合っていた隣国の王家の使いだった。
「……エンブレン様はこの国をお出になるのですか?」
博識な侍女は紋章を見て、気がついたらしい。
エンブレンの今までを思ったのか、彼女は涙を流していた。
「ええ。この国の在り方は、私には不相応だから」
「それはそうでしょう。あなたほど聡明な方を愛さないこの国はあなたに相応しくありません。そして、同じようにこの家も……。でも大丈夫です。エンブレン様がいなくなったら……この家はきっと……」
滅ぶでしょうね。
エンブレンと侍女の心は同じことを思っていた。
そもそも、この家はエンブレンがいることで成り立っている家だったのだ。
エンブレン以外の家族は、地位や金銭には興味があっても、領地経営や使用人たちの待遇改善には一切の興味を示さなかった。今日まで、リシャーナ家を成り立たせてきたのは、あくまでもエンブレンの功績だったのだ。
そのエンブレンがこの家を去ったら……。
すぐ先の未来を想像した侍女は辛そうに目線を足元に下げた。
「人数分の紹介状を渡しておくわ。全てのお屋敷で受け入れられるわけじゃないけれど、私の学友だった、キュー侯爵家やサラムレイン公爵家だった受け入れてくれるはず」
渡された紹介状を見て、侍女は目を丸くした。
名前が上がったキュー侯爵家やサラムレイン公爵家は、国の中でも指折りの貴族家だった。
その二つの家であれば、リシャーナ家よりもかなり高い待遇が約束される。
「十分過ぎます。ありがとうございます。旅立たれる直前だというのに、私たちのことにまで気にかけてくださって……」
「いいえ。あなた方には最後まで迷惑をかけてしまったもの」
エンブレンは生まれ育ったリシャーナ家でのあれこれを思い出していた。
いいことなんて一つもなかったと思っていたけれど、彼女は従者にだけは恵まれていたことを思い出す。
正しい愛情には正しい愛情を返す。
それが彼女の信条だった。
「あなたの幸せを祈っております。エンブレン様」
「ありがとう。私もあなたたちの幸せを祈っているわ」
そう言い残してエンブレンは目を奪われる美しい所作で馬車に乗った。
生贄になんてならない。私は私の人生を生きていくんだから。
新しいものを持つことを許されなかった彼女が唯一所有を許された祖母から受け継いだ古びたトランクにはいくつかの宝石と、彼女の人生を支えてきた物語と詩集がしまわれていた。
これだけで十分だ、と思えたのは生まれ育った環境が影響しているのだろう。
「私の代わりに、この世の不幸を全て受け入れてくれてありがとう。欲しがりさん」
そう言い残して、エンブレンは夜の街に溶けるように消えていった。
***
海を渡り、砂漠を越えた場所に、とある幸せな国があった。
その国は長い間、平和な治世が続いたという。
その裏に王妃達の犠牲があるだなんてことは、ごく一部の人間しか知らない。
きっと多くの人は彼女のような存在がいることも想像もしないまま、幸せに暮らしているのだ。
欲しがりすぎるのも考えものですね。