茜どきのあなたに
夕暮れ時。
片側を広くとった四角い窓が連続する廊下にあかあかと斜陽が差す。エウルナリアは、ふと足を止めた。
(音……?)
なめらかに響く弦の音。正確なピッチとリズム。抑えた弾きかたの端々に音楽そのものへの情熱も感じる。すぐに並の弾き手ではないとわかった。
ここは音楽棟の三階。上級生向けの資料室や各種研修室、歌劇室に当てられているフロアだ。一階の練習室や二階の合奏室なら、こんなには聴こえない。
無意識に出所を探る。遠くはない。近い――
「ここ? ……あっ」
ひょい、と何気なく覗いた歌劇室で、エウルナリアは意外な弾き手を見つけた。それは。
カタン。
「――エルゥ、どうしたの。忘れ物?」
「ユシッド様」
舞台下部に設置された奏者用ボックス席ではない。
幕を上げた上手側の階段で、そのひとは座っていた。
自分を見つけておもむろに演奏をやめ、立ち上がった拍子に踵が木の段を鳴らす。右手には弓。左手にヴァイオリンを持ったこの国の第二皇子――アルユシッドは、ゆっくりと階を降りていた。
エウルナリアは隠れていた扉の影から、おずおずと顔を出す。
「ごきげんよう。ユシッドさ……、先生」
「ふつうに名前でいいよ。とくに、君の専修科目を受け持ってるわけじゃないし」
少女のとっさの言い直しと困り果てた眉を認めて、皇子はにっこりと笑った。
「従者君は? いないね」
「はい。ちょうど帰るところでした。でも、お察しの通りその、忘れ物を……。彼に手伝わせては悪いので、私だけ探しに。レインには一階で待ってもらっています」
「ふうん。そうなんだ。置き忘れた場所は歌劇室? 何かな。これといったものはなかったけど。楽器以外には」
「まあ」
ひょい、と掲げたのは左手のヴァイオリン。
しかもケースが見当たらない。
……弓付きで丸裸。
いったいどこの誰かはわからないが、これを忘れたというなら、相当のうっかり屋さんだ。エウルナリアは何とも言えない顔で苦笑する。
「そこまでは大きくありません。先日、殿下にダンスを教わったでしょう? そのときのステップをメモしていて。空き時間に見直していたんですが」
「――どこかに落としてしまった、と」
「はい」
エウルナリアは、しゅん、と肩を落とした。
せっかくのメモが誰かに見つかり、間違って捨てられては困ると思ったのだ。
習ったばかりの複雑なステップはあれにしか書いておらず、まだ覚えきっていない。
(実技授業はもうすぐなのに)
青い瞳をけぶらせる少女に、アルユシッドは控えめな笑みを浮かべた。「一緒に探すよ」
「! そんな。ユシッド様のお時間をいただくわけには」
「遠慮はいらない。こう見えてもこの学院の臨時講師だし。放課後に生徒が困っていれば、すみやかな帰宅を促すためにも、できるだけ手助けするものだよ」
「そ、そうなんですか?」
「もちろん。さ、早くメモを見つけよう。従者君が来ちゃう前にね」
「え? ――……はい。すみません」
「いいよ」
アルユシッドは軽やかに告げて、舞台横の教壇にコトリ、とヴァイオリンと弓を揃えて置いた。
曰く、勝手に弾いていれば聞きつけた持ち主が戻って来るかも、と思ったらしい。
残念ながら来なかったけどね、と肩をすくめる皇子は飄々として、どこか皇王陛下に似ていた。エウルナリアの父で、皇国楽士団の長をつとめるバード伯爵アルムにも。
(大人の男のひとってみんな、こうなのかしら……? 大抵のことには動じなさそう。羨ましいな)
おそらく、落としたとすれば午後の研修で使った部屋だろうと話しつつ、二人で歌劇室を出た。
* * *
来た廊下を戻る途中。
エウルナリアはまぶしそうに目を細めた。窓の外を眺めるふりで、ちらっと隣を歩く男性を見つめる。
右側からオレンジと黄金色の光がふんだんに注ぐ。
白銀のやわらかな皇子の髪が茜色に染まり、あたたかな風合いでキラキラと輝いていた。
『眉目秀麗』。そんな言葉がしっくりとくる。とても綺麗なかただった。
「あっ、ここです。『第二研修室』。たしか、ここで…………あった!」
「もう見つけたの? 良かったね」
「はい」
ほくほくとお手製のメモ綴りを手に、振り返るエウルナリア。
ここは、半開きになった入り口のかたちに切り取られた光も届かぬ、薄暗い部屋だ。
慕わしさと不思議な緊張感をないまぜにしたような空気のなか、二人はおだやかに微笑みを交わす。
が、アルユシッドは、すっとエウルナリアに近づいた。
扉までの最短路をふさがれる形になり、自然とエウルナリアが不安げな声を漏らす。
「殿下?」
「『ユシッド』と。君はずるいねエルゥ。触れられる距離になると、すぐにこうやって思い出させる。相手をとどまらせるんだ」
「何の……ことでしょう」
――いけない。
つい、気を緩ませてしまったが、自分はまだ一介の学生でしかない。このかたは歴とした皇子殿下なのに。
優しくしてくれるのは年長者で、紳士で、父親同士が親友だから。そして、いまは教師と生徒だから。
エウルナリアは、どきどきと騒ぎ始めた胸を押さえ、「行きます。レインが待っているので」――と、彼の脇をすり抜けようとした。すると。
(?)
するりと反対の手からをメモを抜き取られ、呆気にとられて立ち止まった。至近距離から見上げる。
「なぜ? 返してください」
「どうしようかな。私が教えたことを一生懸命勉強するエルゥにも、凄くそそられるんだけど」
「お戯れを」
「真面目だよ」
「?? ……余計にいけません。もう!」
エウルナリアの背はアルユシッドの胸元までしかない。それこそ懸命に手を伸ばして奪い返そうとする少女に、皇子がくすくすと笑う。
「わかった。じゃあ、今度のダンスの授業は君をパートナーに指名しようかな」
「…………ご冗談ですよね?」
学院には彼の妹皇女もいる。たしかに決まった婚約者はいない。
それどころか、自分たちは互いに、親に定められた婚約者候補だったりするのだが――
冷静に自分のダンスの実力とこのかたの煌びやかさを秤にかけた結果、エウルナリアは、くらりとした。
そんな少女に、皇子が愉快そうにメモを返す。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます……!」
ぱぁっと表情を華やがせたエウルナリアだったが、次の瞬間、びくりと固まった。
先ほどまで流麗なヴァイオリンを奏でていた長い指が伸びて頬に触れる。
乱れていた黒髪の一筋をゆっくりとよけられ、耳にやさしく掛けられた。
(!!!)
「じゃあ、またね」
やわらかいのに、低く澄んだ声で去り際、そぅっと囁かれる。
視界の端で、彼の指が離れる直前、髪に口づけているのが見えた。
「……、っ……」
うまく答えられず、エウルナリアは立ち尽くしていた。頭のなかがぐるぐるする。顔が熱くなって、胸に痛みが。
自分は、いずれ父の役職を継ぐ。爵位も継ぐだろう。成人までに学ぶべきことは山ほどある。
そのためにも、学院で過ごす四年間だけは婚約者の選定を待ってもらっている――そう解釈していた。けれど。
なぜ、皇族の彼が婚約者候補になったのか?
また、彼自身や皇王陛下が了承したのか。さっぱりわからない。
「どうしよう……」
呟いて、目をつむる。
皇子やほかの婚約者候補ではない。幼いときから自分だけを見つめてくれた、従者のレインの顔が無条件に心に浮かぶ。つよく握りすぎた紙が折れ曲がる感触に、ハッとした。ぶんぶんと頭を横に振る。
そこで、廊下の向こうから自分を探しに来たレインとアルユシッドの声が聞こえた。
――今ごろ来たの? 目を離すのは感心しないな、従者君。
――それはそれは。ご忠告どうも!
(!! ふっ……レ、レインってば)
油断した。
エウルナリアは、素で吹いた。
あろうことか皇子に対し、敬意の欠片も見当たらぬ言いぐさだった。
ふわふわとしがちな自分に対し、補うように全方向に気を配ってくれる同い年の彼に、勝手に口元が緩む。張りつめていた糸がほぐれる。
「……レイン、待たせてごめんね。ここよ!」
思わず笑みが浮かんだ。
迷わずに扉を全開にして、声を上げる。
彼なら、きっとすぐに見つけてくれる。たどり着いてくれるから。
数秒後。
安心安定、信頼の正確さで主の所在を突き止めたレインは、エウルナリアの姿にほっと安堵の息を吐いた。
「良かったです。ユシッド殿下もお人が悪い。教えてくださらないんですから」
「まぁまぁ。悪いひとじゃないのよ。たぶん」
「いいえ。あのかたはぜったい、相ッ当、悪い御仁です」
「そうなの?」
「そうです」
きっぱりと言い切るレインに導かれ、学舎の階段を降りてゆく。ずっと待たせていた御者にも一謝り。
馬車に乗り、とりとめのない話に寛ぎながら向かう家路。日が沈み、あちこちの街灯に光がともる。幸い、あやうい動悸は少しずつ収まっていった。
“悪いひと”が、いったいどういうものなのか。具体的には、どんな目に遭うものなのか。
エウルナリアが意味を知るのは、また後日。
また、べつのお話――……
fin.