「゛」を使うと即死
俺は、ある病を持っている。それは、「か」や「た」といった言の葉に「゛」を付けると即死するという病。
――――それは、四年前の秋の或る日のこと。その頃の俺は、所謂b……真っ黒な会社に勤めていた。
(……俺、もうこの会社辞めようかな……)
と、いつもと何ら変わらぬ思いを反芻しつつも、なんとかその日のワークを終え、俺は余計なタスクを任されない内に帰ることにした。会社と俺の家の距離は近く、通勤・退勤共に大抵徒歩。相当に疲れの溜まっていた俺は、家へと向かう途中途中に、意識を朦朧とさせてしまっていた。
――――数刻の後、俺はトラックに衝突した。瞬間、幽かにしか残っていなかった意識は覚醒した。衝突した際のことは、今も尚鮮明に記憶に残っている。
思いの他、衝突によって受けた痛みは軽かった。……と言うのは嘘になる。衝突したことによって、俺の身は上へ上へと浮いた。
そして、付近のマンションの三階より少し高い所から、俺は勢い良くアスファルトに向かって落下した。とっくのとうに痛覚は麻痺していたらしく、地表に身体を打ち付けられた時に、強い痛みは伴わなかった。
――それからまもなくトラックは停車した。トラックの中から降りてきた運転手と思われる男は、俺に対し、
「大変申し訳ありません……!ええと……何と言うか……警察と救急車に連絡します!……」
と、居ても立ってもいられなさそうにし、俺に謝るや否やそそくさと携帯を開こうとしていた。
その時から、痛覚の麻痺は緩やかに治ってきていたため、救急車の到着を待っている内に、俺は刻一刻と強まる身体の痛みに耐えていた。
そして、俺はこのまま倒れていても仕方ないと思い做し、とにかく一旦立とうとした…………しかし、まったく足は反応を示さなかった。
「……あ、あれ?…おかしいな?」
その時、思いの外、己の身は深刻な有様となっていることを悟った…………
――――目を覚ますと、俺の視界は白に埋め尽くされた。
「……目、覚めましたか?」
聞いたことのない声の元へ目を移すと、俺は両親と医者らしき男、そして例の運転手の男に囲まれているらしいことを理解した。
運転手の顔は、会社にて働くいつもの俺のように生気を失っており、「取り返しのつかないことをした」という焦燥に駆られているように見えた。
それ故か、目を醒ました俺を見て、彼はほっとしていた。
その後、俺の母は
「良かった…生きてたのね…本当に良かった……」
と、にこやかな顔をして声を漏らし、父も安心した様子を見せていた。
そして、横に立って此方の様子を見ていた医者は、
「検査の結果からするに、身体の複数の箇所を骨折しています。中には、治すのに骨の折れそうな所も数箇所有ります。しかし、奇跡的に後遺症の残るような大きな損傷は見当たらないため、入院の期間としては、数週間くらいになるかと思われます。」
……と、言ってきた。
暦を見てみるに、かなりの期間、俺は意識を失っていたらしいと分かった。
とはいえ、命は助かった。そのため、俺は一時の安心感を得ていた。
「一応脳の方の検査もしておきましょう。少々お待ちを。」
……そう、この時は、ね。
さて、脳の検査を終え、暇を持て余していると、例の医者は、顔を蒼白にして俺の部屋に入ってきた。
……医者の焦っている理由は分からなかった。
とにかく、俺は医者を落ち着かせることにした。
「そんなに顔を真っ青にして、幽霊d」
「待て!」
……?止められた理由は分からなかったものの、あまりに必死に此方の話すのを静止しようとしているらしく、俺は一旦話すのを止めることにした。
「……君は、トラックに衝突した拍子に、脳にある病を負った。」
「病……というと?」
「その君に罹った病というのは……」
――その後、俺は医者から病についての話を詳細に聞かされた。話を要約すると、俺は、「゛」を使った瞬間に即死するという病に罹ったという。また、症例は俺一人のため、治療法は不明、ということらしい。
俺は、勿論そんなことは有り得ないと思い、
「……ははっ、お医者さん、そんなに分かりやすい嘘をつくとは、感心しませんね……」
と口にしてみた。しかし、医者の面持ちに変化はなく、彼は嘘をついていないことを理解してしまった。
それから数分間は一言も話さなかった。というより、話せる訳もなかった。医者の話をにわかに信用することは無理なものの、ふと「゛」を使ってしまったら……と、口を開くことに恐れをなしていた。いつものように青く晴れ渡っている空を見ていると、俺はなんとなく周りと切り離されてしまったような気持ちになった。
(会社は辞めるしかないか……)
パソコンなんて使おうものなら、一瞬にして「゛」を使ってしまうリスクを負うことになる。そう思って、復職を諦めつつ、事の大きさを改めて痛感した。
――それからというもの、俺の病を知った親や知り合い、更には医者も、俺に対して気を遣うようになり、よって会話の機会はめっきり減った。俺は落ち着かなかった。
辺りを見回しても、何の変哲もないつまらない景色しか見えない。あと数週間もこのままかと思うと、退屈に殺される気さえしてきた。
――そして、早くも三週間を以て骨折は治り、俺は退院することになった。……しかし、この三週間という期間によって、走ることすら困難なくらいに俺の体力は衰えていた。そのため、退院してから五日間くらいは、社会復帰の為に身体能力を鍛えた。
そして――――――
「助けてー!!」
……今に至る。
家にいた俺は、助けを求めている声の主を確認するために、二階から外の様子を見てみることにした。
すると、14~5歳位の女の子が、ナイフらしき凶器を持った男に連れられそうになっている光景を目の当たりにした。
俺は、早急に警察に通報を済ませ、周囲を見回してみた。すると、一人たりともあの子を助けに行こうとはしていなかった。
確かに、凶器を持った男に近づきたくないのは分かる。
しかし、まもなく警察の到着するという雰囲気は一切なく、今にもあの子は連れていかれそうな様子なのに、皆静観を貫いている今の様子を、俺は可笑しいと思った。
それ故、俺の手によってあの子を助ける他はないと思った。
勿論恐怖もある。病云々の前に刺されて死ぬ可能性もある。しかし、尚も助けようと思う理由を、「困っている人を助けたら、幸せな気持ちになるから」とするのは少々浅はかかな?
「おい」
「あァ?」
「その子から離れろ!」
そこに着くなり、俺は男の不意を突いて突進し、彼をよろけさせ、その隙に女の子を彼から離れさせた。
そして、いち早くその子の手を掴み、俺の家に入り、あの男から身を隠そうとした。
――その時、怒り狂った男は、俺の背中に向けて、隠し持っていたピストルの弾を放った。
――急所には当たらなかったものの、弾は俺の背中の肩の付近に命中した。俺は必死にその痛みを堪え、なんとか家に連れ入ることに成功した。
一息ついて、連れてきた女の子の方を向くと、その子の顔は青に染まっていた。
「今救急車に連絡します……本当にすみません、私のせいなのに……」
「君は悪くないよ。それに俺は危険と知っていて、君を助けたからね。こうなるのも仕方ないよ。」
「……」
女の子は、それきり話さなくなった。
――その後、例の男は後からやってきた警察によって逮捕され、俺は救急車に緊急搬送された。出血のせいか、意識を失っていたらしく、目を醒ますと、4年前と似た景色を目にした。
俺は、助けた女の子と俺の両親、そして、またもや例の医者に囲まれていた。
「……本当にすみません!」
女の子は申し訳なさそうにそう言った。俺のことをとても心配していたらしく、俺の安否を確認したことにより、俺の肩のことを負い目に思いつつも、その子は一安心しているように見えた。俺はにっこりと笑って、
「心配してくれて嬉しいよ。これからは気をつけてね?」
「……はい!私のために身を挺してくれて、ありがとうございました!」
……俺の親は瞬く間に顔を青ざめた。が、俺は朦朧としてきた意識をぐっと堪えて、最後にこう言った。
「あぁ、どういたしまし――」
医者の言っていた通りに即死とならなかっただけまだマシだった。何せ、あの子の感謝の言葉に応じられるくらいの余裕が残されていたのだから。不本意なタイミングでの死の訪れだが、こうなってしまっては仕方ない。
そして、まもなく俺は意識を完全に失おうとしていた……
……?けれど、意識が無へと向かっていく中で、最後に、聞き覚えのある声で、誰かがこう言っていたような気がした。
「……終わったな。……予定通りに」
「そうですね」
此方は初投稿の作品となります。楽しめたという人は、評価してくれると今後の参考になりますので、是非お願いします。
P.S. 投稿後、内容の違和感や、投稿時には気付かなかった作品途中での濁点について、加筆・修正を行い訂正を行いました。