苦しいことを信じよう
言われていることをきちんと受けとると、意外と冷静なものだ。正直なところ進んで話したいことではないな、とは思ったけれど。
ルドヴィンも予想している通り、特に面白い話ではないし、聞いてて楽しい話でもないだろうから、できるだけ話したくないというのが本音だ。でも、それを承知で彼は聞いているのだから、答えてあげるのが正解なのだろうか、とも思う。
ぼやかして言えば問題ないだろうか。そうだ、何も詳細を全て話すことはない。おおまかな流れだけでいいのなら、話せるかもしれない。
「いいよ、少しだけなら」
「そうか」
ルドヴィンは出来るだけ表情に出さないようにしていたみたいだが、ボクには少し眉をひそめたように見えた。やはり、ボクに嫌なことを話させるのは抵抗があるのだろうか。でも聞きたいのは本当だろうし、ボクは別にこんなことで嫌いにならないのに。
さて、それは置いておいて、早速話をさせてもらおうか。
「ボクが階段を苦手になったのは、中学の頃だよ。確か、夏も終わりかけの時期だったかな」
「中学?」
ルドヴィンが不思議そうに首をかしげてそう言った。そうか、この世界には小学校や中学校って概念がないんだ。うーん、でもそれを説明するのは時間がかかるしなぁ。ここは、ちょっと雑な説明で許してもらおう。
「中学って言うのは、まあこの学園と大体似たようなものだよ。この学園に通うよりも少し下の年齢の子が通う学園って感じかな」
「ふうん、そんなのがあるのか」
「うん、学ぶことはそこまで変わらないけどね」
歴史とか数学とか、まさかこの世界に来てからも勉強しなきゃいけないとは思わなかった。留年とかはないけど、毎日の授業でひいひい言っている。小テストとか出される時には、フランと一緒にラフィネのところに駆け込んでいく。
と、これは今は関係のない話だね。
「さて、その中学の頃、ボクは陸上部に所属してたんだ。こう見えても短距離走のエースでね、皆から期待されてたんだよ」
「陸上部か。確かにお前らしいな」
懐かしいな、中学入った時からすぐに陸上部入るって決めてて、ここでは兄様に負けているけれど、短距離ではボクが一番速かったんだ。他の学校ではどうかわからなかったけれど、うちの陸上部の女子はそこまで人数がいなくて、皆仲が良かった……と思ってたんだけどな。
「陸上部は皆仲が良くて、いや、少なくともボクはそう思ってたんだけどね、ちょっとしたことで、同じ部活の子に嫌われちゃってたんだよ」
「ちょっとしたことって言うのは?」
「それは……」
言おうとしたが、声に出すのを止めてしまった。言いたくないと言うよりは、言ってしまっていいのかがわからない。言ってしまったら、何か言うべきではないことも言ってしまうような気がするけれど、そうならない気もする。
でも、これを詳しく言ったら、どうしても、ボクの中の何かがこぼれ落ちてきてしまうような感じがしたから、ボクは誤魔化すように声を出した。
「女の子にしかわかんないようなことだよ。ルドヴィンが聞いても、ピンとこないと思うよ」
「……そうか、ならいい。話を続けてくれ」
ああ、何となく言わないようにしたの、悟られたかなぁ。悟られたから、こう言ってくれたんだろうな。気になったことは何でも突っ込んで聞いてくるだろうし。ルドヴィンがそういう人でよかった。
「うん、それで、ある日その子に階段の踊り場に呼び出されて、ボクは何の警戒もせずそこに行ったよ。そしたら、その子と後輩の子がいて、その子にたくさんたくさん、色々なことを言われてるときに……、ボクが驚いて足を踏み外しちゃって」
「嘘だな」
「えっ」
驚いてルドヴィンを見上げると、彼は射抜くような目でこっちを見ていた。
「どうせ落とされたんだろ。それくらいわかる」
「い、いや、そんなことは……」
「加害者を庇ってんなよ。後輩もいたってことは、そいつ自身じゃあなくて、後輩にお前を突き落とさせたんじゃあないか?
フォンダートが階段苦手だって知ってたんなら、お前はそこで死ぬことはなかったんだな。おそらく、誰かしらに事情を聞かれたときにずっとそう言ってきたんだろ? 本当のことを言ったら、何の罪もない後輩に罪を着せることになるし、加害者にも自分のせいで罪を背負わせてしまうことになるからって? 馬鹿かお前は」
「いたっ!? え? え?」
何でわかったんだ?と、驚いてしまうほど、言われていることは概ね正解だった。というかデコピンがとても痛い。もう少し手加減してくれたっていいだろうに。
その念を込めてルドヴィンに非難の視線を向けるが、彼は怯むどころか呆れが混じったような目で強く見つめ返してきた。
「お前の考えてることくらいわかってんだよ、このお人好しが。お前の言うちょっとしたことが何なのかは知らないが、加害者相手に余計な情けをかけるな。何があったんだろうと先に手を出した方が悪なんだから、つべこべ言わずに正直に言えよ。まあお前の嘘が嘘だって見抜けなかった方も見抜けなかった方だが」
ぐぬ、前々から思ってたけど、言うほど嘘下手かな、ボク。これでもルドヴィンの倍にちょっと足りないくらいには生きてきたんだけどなぁ。潜在的に不得手な部分は得意になることがないんだろうか。
なんて、重要なところはそこじゃないか。確かに、ルドヴィンの言うことは最もだと思う。ボクだって友達がああいう状況だったなら、そう言ったかもしれない。いや、絶対そう思うだろう。
だけど、実際に当事者になってみると、大事にはしたくない、という気持ちの方が強いのだ。皆そうなのかはわからないけれど、ボクはそう思った。それに、ボクにはナツメがいたから、ずっと幸運な方だ。きっとナツメがいなかったら、その後の人生でうまくやっていけたかどうかわからないし。だからボクは、トラウマを背負おうと十分幸せだったんだ。
だから、今、ボクがルドヴィンに言えることはたった一言くらいのものだった。
「ごめんね」
「……どうして謝るんだ」
ルドヴィンは絶句したかのような表情で、身体の奥底からそう、声を出したように聞こえた。けれど、ルドヴィンが言いたい言葉は、本当はこれじゃなかったのだろう。ボクが発した謝罪の意図は、不鮮明だけれど確かな拒絶であるとわかっただろうから、きっと他に言いたい言葉があったはずだ。
二人の間に重い沈黙が流れた。ルドヴィンが考えていることはわからない。ただただ、数分にしては長過ぎるように感じる時間を過ごした。
それでも、ボクには何も言えなくて、だんだんと暗くなっていく空を見上げながら、ここからどうしようか、とぼんやり考えていると、ふと彼は口を開いた。
「信じてやる」
「え?」
「お前の話、信じてやるよ」
何を言われたのか理解するまでに、長い時間がかかってしまった。やっとのことでその意味を理解すると、次には疑問が生まれてきた。どうしてあの流れから、信じてくれることになったのだろうか。ボクの心には困惑と、ほんの少しの喜びとが渦巻いていた。
「どうして、急に」
「前世の記憶なんて、それだけ聞くと未だに信じられないことだが、それが本当じゃないと、今のお前と辻褄が合わない。フォンダートのことも、お前自身のことも、前世から築き上げられてきたものとしか、考えようがない。
そもそも、初めて会ったときから変な奴だったしな。よく考えたら、いくらアンドレの妹でも、あの年で庭にいる侵入者にその身一つで撃退しようとするお姫様がいるわけない。だがそれも、精神年齢が外見と違うのなら、納得だ」
……そう、それがルドヴィンの考えか。
そう聞いて、ボクの身体から、一気に緊張が抜けていった。知らないうちに力が入っていたらしい。ボク本人としてはそれほど自覚がなかったけれど、確かにあんなに幼い子供が、助けも呼ばずに怪しい人物に立ち向かうことはないか。ボクが前世であのくらいの年だったら、そんなことしなかっただろうし。
ほっ、と一息つくと、ルドヴィンは立ち上がって、ボクに頭を下げた。
「オレの好奇心で、お前たちの秘密を話させて悪かった」
「い、いや、そんな謝ることじゃないよ! ボクも、信じてもらえて嬉しかったし」
慌てて顔をあげるように言うと、三回言った辺りでやっと、顔をあげてくれた。
「知ってしまったからには、これからはオレも高所には気を配らせてもらう。前世の話は誰にも話さないが、これは他の奴らにも言うからな。これに関してはやめろと言われてもやめない。どうしようもないときも、近くにいるよう配慮しよう」
うっ、やっぱりそう言うか。結局迷惑をかけてしまうことになるなら、先に言っておいた方がよかったかな……。けれど、もう過ぎてしまったことはどうしようもない。
「本当はやめてほしいけど、でも、ありがとう。そう言ってくれて」
「当然だ。オレたちは、友達だろう」
そう言われて少し照れ臭くなった。まさかルドヴィンがそんなこと言われるとは思わなかったのだ。エドガーさんじゃあるまいし。犬は飼い主に似るって言うし、主人と従者が似るってこともあるのかもしれない。ちょっとエドガーさんって犬っぽいし。
さて、話は終わったし、フランに心配される前に戻ることとしよう。そう思って、ボクも立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか。あんまり遅くなると心配されちゃうからね」
「ああ。あ、待て。お前に言っても無駄かもしれないが、一つ忠告しておく」
「何?」
ルドヴィンは一瞬だけ、言うのを躊躇したような素振りをしたが、言い止めることなく、こう言った。
「前にアンドレから言われたこと、お前なりにちゃんと守れよ」
それは全く思いもしなかった言葉で、ボクはどう返せばいいのか、ルドヴィンと別れ、寮に戻ってもわからなかった。




