化学室へとご招待
ボクは先生に連れられて、三階にあったらしい化学室へと向かっていった。先生の大きな声に誘われて、しばしば生徒たちが来てしまうこともあったが、先生は間髪いれずに生徒たちを倒していた。どうやってやってるんだろう。早すぎて見えない。
まるで遠足に行くかのような勢いで化学室の前まで来ると、先生は軽やかなリズムで扉をノックした。
「こんこんこーん、アゴさん、ぼくですよぉ」
アゴさん、と言う耳慣れない呼び方に、一瞬誰のことかわからなかったが、おそらくティチアーノさんのことであろう。こんな時間に化学室にいるのはティチアーノさんだけだろうし、確かティチアーノさんのラストネーム……アゴスティネッリだったか。そこから取ってアゴさんになったのだと思う。
先生が呼びかけていると、扉の向こうから、めんどくさいのが来たと言わんばかりのため息が聞こえてきた。
「ナァンデ、マイティーチャーがここにいるんデゴザイマスカネー。ホンジツは来れないはずデハ?」
「はい、ぼくもそう思ってたんですけどねぇ。特待生の中でも特に優秀な子が先程寮まで訪ねてきたようで。他の先生方がてんやわんやしてるうちに逃げ出してきたんですよ」
「ウッワァ……マジでゴザイマスカ。ナンテコトしてくれやがるマスカ。アンタがいない隙にアノ実験を進めるヨテイデアリマスタのに」
「ええ~、酷いですよぉ、アゴさん」
扉越しにずっと話を続けているのを、口を挟まずじっと聞いていると、先生は思い出したかのようにボクを見て、それからティチアーノさんの方に呼びかけた。
「アゴさんアゴさん、今日はなんと、入部希望の子が来ていますよぉ」
えっ? 入部希望って、ボクが化学部らしきところに入部したい人だと思われてる!? 確かにボクは部活入ってないけど、入部しに来たわけでは決してないのだけれども。
でもそういえばボク、この先生に化学室に行きたいって言っただけで、化学室を隠れ場所にしたいなんて言ってないし、勘違いもするか……? 常識的に考えると、こんな時間に部活動見学する人はいないだろう。そういう点に関しても、この先生はずれているようだ。
「ハー? ニュウブキボウ? ソンナモン来るわけないデゴザイマース! オヒキトリネガエ」
「アゴさん、本当なんですよぉ。ほら、お嬢さんも、その熱意を扉の向こうのアゴさんにぶつけてくださいねぇ」
そんなこと言われても、熱意は全くないから、ぶつけようにもぶつけられない。ごめんね、先生。
だが、このままティチアーノさんに入れてもらえなければ、ボクたちが鬼ごっこ……のような何かで負けてしまうかもしれない。それは困る。とりあえず今はティチアーノさんに呼びかけなければ。
「てぃ、ティチアーノさん。ボクです。すみません、入れてもらえますか……?」
先生が大きな声を出していたので、もう手遅れ感は否めないのだが、できるだけ辺りに響かないように、控えめな声でそう呼びかける。すると、向こうから、がっしゃーんと何かが倒れる音や何かが割れる音がした後、バタバタとこちらに駆け寄ってくる音と同時に、扉が開け放たれた。
「プリンセス・ルミア! ご無事デアリマシタカ!」
その声とともに、ボクの腕が化学室の方へと引っ張られ、少し異臭がする化学室に、ボクは足を踏み入れた。勢いがありすぎて転んでしまいそうになったが、何とか立て直す。
「ティチアーノさん、遅くなってごめんなさい」
ティチアーノさんが珍しく切羽詰まった表情をしていたので、安心させるために何とか笑みを作って、頭を下げた。
「全くデアリマス。我輩これでも心配していたデゴザイマスヨー!」
ティチアーノさんがにこりと笑ってボクの頭を撫でた。どうやら本当に心配してくれていたようだ。撫で慣れた手から、それが伝わってきた。
ラフィネと時間をずらすためにあの部屋を出るのを遅らせていたし、化学室の場所がわからなかったりして遅くなってしまっていたが、無事に来ることができてよかった。あんまり遅いとそりゃあ捕まったものだと思っちゃうよね。まあ大将が捕まるとその時点でゲーム終了だから、放送くらいはあるだろうけど。
「おやぁ? お知り合いでしたかぁ?」
「オイ、何カッテニ入ってきてるんデゴザイマスデスカ。許可してないデゴザイマスヨ、マイティーチャー」
ああ、そうだ。先生もいるんだった。先生があそこで通りかかってくれなければ、ここに来るのがもっと遅くなってしまっていただろう。お礼を言わなければ。
「すみません、入部希望者ではないんですが、連れてきてくれてありがとうございます」
「おや、残念ですねぇ。こちらこそすみませんね、ええっと……?」
……? あ、名前だろうか。名乗ってなかったもんね。隠すほどの名前でもないし、一応名乗っておこう。
「一年のルミア・カルティエです」
「……ああ! ルドヴィンくんの!」
どうやらボクの名前はルドヴィンから聞いて知っていたらしい。そういえば先生はルドヴィンと知り合いなんだったね。この鬼ごっこ……のようなもののことは知らなかったようだが、ボクのことは聞いていたのか。何だか不思議だな。
……ところで、ティチアーノさんといい、先生といい、ボクの名前を聞いたときに、どうして兄様じゃなくてルドヴィンの名前を出すんだろうか。ルドヴィンと知り合いなら兄様も知り合いだと思うのだけど。
まあティチアーノさんの時はルドヴィン本人がいたから、そっちが先に出たのかもしれないが、カルティエって聞いたら兄様が先に出てきそうなものなのに。というか、ルドヴィンくんの、って、ボクはルドヴィンの何って説明されてるんだ。子分か?
「そうだったんですねぇ。申し遅れました、ぼくはペネム・スフィアフラウ先生ですよ。一年生とはまだ関わりがあまりありませんから、知らない子だったんですねぇ。教科で言えば化学の先生ですが、これでも生徒会の顧問でもあるので、覚えていただけたら助かります」
「えっ、生徒会のですか!? てっきり化学部のかと」
驚きのあまり、思わずそう言うと、ペネム先生は少し残念そうに、言葉を返してきた。
「ぼくもその方がいいんですけど、ルドヴィンくんが生徒会に入った後は少し問題が多くなってきてしまって、なぜかぼくが顧問にさせられたんですよねぇ。
それに化学部というのは正確に言うとないんですよねぇ、化学部に入っているのがぼくとアゴさんだけなので。とってもとっても残念ですよねぇ」
ルドヴィンが入った後からって、完全に問題事押しつけられてるじゃないか。ぽわぽわとしていてマイペースそうだけど、意外と苦労人なのだろうか。それともこんな感じの人だからこそ顧問にさせられたんだろうか。王族であるルドヴィンに対しても物怖じしなさそうだし、こういう人の方がルドヴィンと上手くやっていけるような気もする。
それに今も、生徒会の顧問にさせられたことを嘆いていると言うより、化学部がないことの方を悲しんでいるように見えるし。ごめんなさい、そんな顔をされても化学部には入りません。
「マア、現在の化学部とイウノモ、我輩がいるアイダに臨時で活動しているダケデゴザイマスカラネエ、我輩が卒業してしまえば、マイティーチャーは化学部でマタ一人トイウコトニなるんデアリマスナー」
そうなのか……ボクが前世でいた学校は意外と化学部員はいた覚えがあるけれど、この世界の人は化学に興味がある人は少ないのだろうか。
「寂しいですねぇ、卒業しても毎日のように訪ねてきてもいいんですよぉ。コーヒーを淹れてもてなしますよ」
「アンタのコーヒーは泥水啜ってるヨウナモンデスカラ、テイチョウニオコトワリするデゴザイマスヨ」
「どうして皆さんと同じように淹れているのにああなるのでしょうねぇ、今から検証して見ましょうか」
「アッ、我輩のものにカッテニサワルナ!」
ティチアーノさんと先生のやり取りに和んでしまっていたが、そういえば今はゲーム中だったのだ。頑張って戦ってくれている皆をよそに、和んでいるわけにはいかない。守られているのだから、せめて心の中で応援はしないと。
「ルミアくん、実験の時間ですよぉ!」
「えっ、はーい」
……ちゃんとゲーム中だって自覚しておかなければ!
その思いを胸に先生とティチアーノさんの実験に加わりに向かった。




