迷子の迷子のお姫様
ラフィネが行ってしまって多分五分くらいは経った。早くここから移動したい気持ちはあったが、ラフィネにあんなにも念を押されていたので、ちゃんと待っていたのだ。
ラフィネと一緒に出ていくものだとばかり思っていたから、彼が出ていく前に、タイミングずらして出ろ、と言われたときは、半分は驚きが、もう半分は恐怖がよぎった。
恐怖というのは、ラフィネを心配する気持ちからきているわけでは、決してない。ラフィネは基本的にはっきりと、自分にできることとできないことを言ってのけるのに、あれだけ強気なことを言ったのだ。本当に捕まらない自信があるのだろう。
だから、ボクが不安に思ったのは、自分自身のことについてだ。ラフィネと一緒にいたときは感じなかったけれど、ボクには捕まらない自信がないのだ。
普通の人より足が速い自信はあるし、自分で言うのもなんだが、小さいから小回りも利くだろう。
だけどそれでも、何度も敵から逃げてるうちに体力に限界はくるだろうし、やむを得ず戦うにしても、兄様ではあるまいし、そう毎回乗り切れるとも思えない。個人個人の力では勝てても、数に押しきられればどうしようもない。
それを考えた上で、ルドヴィンはボクに逃げ場所、ティチアーノさんがいる化学室を、あの時教えておいたのだろう。ティチアーノさんは一日中化学室にいると言っていたから、ほぼ確実にいるはずだ。
ボクも今のところは化学室に行くほかに、絶対に捕まらない方法というのはないように思える。今いる部屋にもいつ誰が入ってくるかわからないから、長居するのは危険だ。
そうは思っても、他の皆に任せて自分だけが隠れるというのは、やっぱり嫌だな、と感じる。立場上、仕方ないことだと思うけれど、ボクも皆の役に立ちたいんだけどな。
でも敵に立ち向かって打ち勝つ自信はどうしても出ないし、何より一人でいるのは心細い。ちょっと自分を情けなく思うが、ここはルドヴィンやラフィネの言うとおり、化学室に向かうことにしよう。
ラフィネがしていたように、そっと外を覗き見て、聞き耳を立てる。遠くから複数の話し声が聞こえるけれど、近くからは何も聞こえない。うん、出るなら今だね。
微かな音も出さないように慎重に走り出す。幸い、昔からの経験で、足音を立てない走り方は熟知している。
走ることに関しての唯一の不安要素だったのはドレスだったが、あのパーティー用のドレスを選んだ後、ラフィネに言いくるめられて、予備にと選んだこのドレス。前のドレスよりも、非常に動きやすい。
ドレスという形ではあるけれど、見せるよりも、完全に動きやすさを重視して選ばれたドレスとも言える。いや、ボクを選んでくれたドレスか。どちらにせよ、ドレスがドレスと感じないくらい、走りやすい。
だから軽やかに廊下を駆け抜けることは、とても容易だった。人の気配も、隠そうとしていないなら集中しなくてもわかる。それに、既に誰かが気絶させたみたいで、結構な頻度で生徒が転がっていたりもした。誰にやられたかは知らないが、ボクにとっては敵なので、ざまーみろ、と思っておく。
よし、これなら簡単に化学室まで……、
「……あれ?」
そういえば、化学室ってどこだ。
よくよく考えたら化学室なんて、ボクは行ったことがない。一年生には化学室に行かなければならない授業はないし、行く理由もないからだ。たまにティチアーノさんの方から突然やってくるから、ティチアーノさんに会いに行かなければ、ってこともなかったし。
ラフィネなら行ったことないところでも地図覚えてるから、化学室に行こうと言われればいけるんだろうが、残念ながらボクは覚えてないし、見たことあるなら描けるだろうけど、意識が描くことに持ってかれているときは完全に無防備だから、むしろやる方が危ない。
う、うーん、少なくとも一階じゃないことは確かなんだけど……、上の階を地道に探していくしかないか。となると、はあ、階段を上らないといけないわけだ。下りるよりはましだけど、あんまり使いたくない手段だな。
エレベーターもあるにはあるが、誰かが乗ってたり、着いたすぐ目の前に誰かがいたりしたら、捕まる危険性が高まる。
「うう~……よし!」
ここは意地の見せ所だ。皆のためにも、化学室を見つけ出さないと。気が進まない足を無理矢理階段の方へ向けて、ボクはまた走り出した。
ちょっとずつ階段に近づくにつれて、話し声が徐々に聞こえてきた。不味いな。この分だときっと、ボクが目的としている階段に、もしくはその付近に敵がいるのだろう。ボクたちの方は人数が少ないし、それぞれ撹乱するために行動しているなら、固まって動いていることはほぼないに等しい。
正直、階段にいるっていうのは賢い選択だ。階段とエレベーターを塞いでしまえば、ボクの行動範囲は狭まる。その間にその階を別の誰かが探せば、自然と追い詰められるという戦法だろう。悲しいことに一階の人達はほとんど倒されてしまっているようだが、階段の人は残っていたか。
階段まで行くと、やはり階段の手前で数人の生徒たちが待ち構えていた。人数は多いけど、十人は越えていないだろう。素手の人と、そこらへんの教室から拝借したのであろう、学校の備品を持っている人もいた。
当たったら痛そうだけど、軽いものはおそらくあの人たちが叩いても殺傷力がないし、重いものは振り回す際に動きが鈍るから、逆に避けやすい。拳はかわす。うん、行けるな。
そうと決まれば、先手必勝だ。
「うっ、」
素早く一番近くにいた一人に近づいて、その腹に肘を沈めた。奇襲したから当たり前ではあるが、こういう経験を積んでない人が相手だと、避けられることなく食らってくれるから助かるな。
イリスさんもセザールさんも強いから、本気で戦うと全然決着つかないんだよなぁ。まあ本気で来てもらわなきゃボクも困るんだけどね。こういうときに対処できないし。
で、ますば一人。
「あっ、あいつ、大将だ!」
「あいつ一人よ! さっさとやっちゃいましょ!」
あ、女の子もいたのか。でも女の子でもやるときはやるだろうし、フランの敵になる。申し訳ないが沈んでもらおう。
とりあえず走ってくる三人に足払いをして、転ばせてから、一人が持っていたロープをちょっと拝借して、簡単に手早く、でも解けないように縛り付けた。
うーん、これでもう捕まえたことになってるんだろうけど、一応意識を失わせておいた方がいいんだろうか……。
「よ、よくもやってくれたな!」
声とともに向けられた拳を手で止めて、そのまま投げる。投げた人は呆気なく床に叩きつけられた。さすがに雑だったかな。丁寧にする義理もないだろうけど、せめてあまり痛みを感じないようにした方がいいか?
いや、お互い様だよね。
「よし」
残っている人も、何でか逃げ腰ではあるけれど、ボクを四方から捕まえようとしていた。一斉に来てくれた方が、まとめて蹴散らしやすくてありがたい。
いつでもかかってこい! そう思いながら構えていると、瞬きをした次の瞬間、なぜか一斉に彼らは倒れ伏した。
「……え?」
「駄目ですよぉ、女の子相手に暴力を振るうなんて。人間誰しも、紳士でなければなりませんからねぇ」
暗闇の向こうから、月明かりに照らされてやって来たのは、見覚えがない人だった。少なくとも生徒ではない。声も見た目も柔らかくて、落ち着いた大人の男性を思わせる、でもそれでいてぽわぽわとした雰囲気の人だ。
もしかして、先生か? でもどうして先生がここにいるんだろう。学校を貸し切っている今は、全てルドヴィンに権限が渡されているから、先生はよっぽどのことがないと来ないらしいのだけれど。
まあ今はそのよっぽどのことがある状況だろうけど、この人はそういうために来たわけではない気がする。だって、現に今、ボクの周りを囲んでいた生徒たちを、一瞬で気絶させたのだから。
「お嬢さん、お怪我はありませんか? 物騒ですねぇ、最近の子は。あ、でも今日はルドヴィンくんの催し物が開催される日でしたっけ? それと何か関係があるんですかねぇ。もう、問題事起こすと怒られるのはぼくなんですけどねぇ」
この口振り……ルドヴィンと関係があって、かつ親しい人なのかもしれない。それじゃあ少なくとも敵ではないか?
「今回は暴力ありの宝探しなんですかねぇ。お嬢さん、お宝は見つかりましたか?」
「あ、いえ。ボクは化学室に用があって……」
「ほう! 化学室ですか!」
化学室、という言葉を出した途端、彼は目を輝かせたように見えた。暗くて見にくいが、おそらく子供のようにはしゃいだ目をしている。
「いいですねぇ、化学室! ぼくもようやっと、他の先生方から解放されたので、化学室に向かう予定なんですよ! お宝よりも化学室に行きたいとは見所がありますねぇ! 一年生ですか!?」
「は、はい」
「それでは一緒に行きましょうかぁ! 大丈夫ですよぉ、またこの子達のような子が襲ってきても、先生が守ってあげますからねぇ! さあ、こっちですよ!階段では転ばないように、先生と手を繋いで歩きましょう!」
あまりにも押しが強くて、強引に手を取られてしまった。先生と生徒が手を繋ぐ状況はいいのだろうか。……まあ大丈夫か! 正直この先生、ボクのこと小さい子供扱いしてるっぽいしね! 許せん。
でも嘘は言ってないみたいだし、ちゃんと化学室に連れていってくれそうだ。ここはこの先生の引き連られて、化学室に向かうとしよう。階段を一人で上がるのは、嫌だったし。
「危ないですから、もう片方の手は手すりに掴まりましょうねぇ!」
……でも、もうちょっとだけ声を小さくしてくれると有り難いかな。




