ごめんなさい
「あ~ら、ごめんなさい。ぶつかってしまったせいでグラスの中身が溢れてしまいましたわ」
さすがにボクでもその謝罪が本気で言われているわけではないとわかっている。だが元々はボクがぶつかってしまったのが悪いのだろうし、腹は立たない。
「大丈夫です。こちらこそぶつかってしまってごめんなさい」
ボクがそう謝ると、なぜか女の子は面食らったような顔をした。ボクが謝らないような人間に見えていたならかなりショックなのだが。
そう思いつつもその表情を見ていると、何だか既視感があるな、と思った。どこかで見たことがあるような。一体どこでだろうか。……まあいいか。
それよりも、とりあえずジュースで腕がベタベタするから拭きたい。多分ボクのハンカチは今のでダメになってしまっただろうから、フランかエドガーさんに借りよう。
「それでは、失礼します」
「え? ちょ、ちょっとお待ちなさいな!」
二人にハンカチを借りに行くために歩きだそうとすると、女の子はなぜか呼び止めてきた。一体なぜ……あっ、ボクにかかったせいでジュースなくなっちゃったから汲んでこいってことか!? それは気づかなかった。折角いっぱい入ってたんだもんね。それなら汲んできてあげなきゃ。
うーん、だけどやっぱり腕の方が気になって仕方ないな。拭いてからでもいいだろうか。
「すみません、絶対汲みに行きますので、先に腕を拭かせていただいてよろしいですか?」
「は、はあ? 何の話をしていらっしゃるの!? あなたといい、レヴィア様といい、ほんっとうに調子が狂いますわね!」
レヴィア、ってフランのことか。レヴィア様って呼び方、前にも……ああ、そうだ! 昔兄様の誕生日パーティーで会ったあの女の子だ。名前は確か……、
「ええっと……マドレーヌだっけ?」
自身がないので小声で言うと、フランが噴き出す音が聞こえた。うん、ボクも違うと思った。名前が五文字だったことは覚えてるんだけどなぁ。思い出そうにも古い記憶なので、思い出せる気がしない。彼女の名前を呼ぶのは諦めよう。
幸いにも、女の子……仮にマドレーヌ様として、マドレーヌ様には間違った名前が聞こえていなかったらしい。彼女は表情を切り替えて、強気な笑顔をこちらに向けた。
「あなた、折角のパーティーだって言うのに、ドレスが台無しねえ。そんなんじゃあみっともなくて、目立ってしまうんじゃなくて? それにあなたのお義兄様であるアンドレ様の面子も立たないのではないかしら?」
マドレーヌ様がそう言うと、マドレーヌ様の後ろにいる女の子たちはくすくすと笑い始めた。そして理解した。どうやら嘲笑われているようだ。
けれど一つ言わせてもらうと、兄様はボクがいかにみっともない姿をしていたとしても、面子が立たないなんてことはない。もしそうだったら、髪を切り肌が焼けた時点で、もう面子は丸潰れになっていることだろう。ボクがどれだけ醜悪であったとしても兄様の美しさは揺るぎない。それは覚えておいてほしい。
と言っても、こんなこと声に出すつもりはないのだけれども。言い返さない方が波風が立たないはずだ。
それにボクは今それどころじゃないのだ。マドレーヌ様のお陰で思い出したことがある。そう言えばドレスが汚れてしまっていると言うことを。
「ちょっと、何してるの」
くすくすと笑い合う女の子たちの声をかき消すかのように、ボクにかけられた声は、ボクが今一番会いたくない人物の声だった。怒気が混じるその声に、笑い声は静まり返り、皆の目は声の主に向けられた。だが、彼は周りに見られてもなお、ボクから目線を外さずにいた。
彼は深く深くため息をついた。怒りとも呆れとも取れるようなため息だった。
「やらかすかなとは思ってたけど、まだ始まってすらいない時間にさあ、何早くもドレス汚してんの」
「ご、ごめんなさい……」
怖さと申し訳なさで謝ることしかできなかった。ここが公共の場じゃなかったらすぐさま土下座していただろう。ああ、やってしまった。数日前には自信満々で、汚さないと言っていたにも関わらず、こんなに早く汚してしまった。完全にボクの不注意のせいだしなぁ……言い訳もできない。
「謝ってすむ話じゃないんだけど。そんなドレスでパーティーに出続ける気なの?」
「い、いや……あはは」
もう何言ったらいいかわからなくて、乾いた笑い声しか出てこなくなってきた。
ラフィネの冷たい視線が突き刺さりながらも、この一気に温度が下がってしまった空気をどうしようかと考えていると、急にラフィネに手を引かれた。ドレスを汚してしまったから強制退場ということか? うう、それも致し方ない、と思っていたら、ラフィネはさっきまでの怒ったような声とは違い、いつも通りに近い声でボクに言った。
「ほら、そのドレスのままじゃだめでしょ。さっさと着替えに行くよ」
「えっ、えっ、ラフィネ?」
「今回は許してあげるけど、次はないからね。ルミアのことだからお馬鹿な不注意なんだろうし。
……でも、もしわざと服を汚すようなことをしたんだったら、そいつは服を着る権利もないけどね」
……? どうしてかはわからないが、最後の言葉はボクに向けられた言葉ではないような気がした。……気がしただけだろうか。
ともかく、ボクはどうやら許されたらしい。ラフィネに手を引かれて会場を出て、互いに黙ったままとある一室に入ると、やっと彼は緊張がほぐれたように、一つ、ため息をついた。
「はー、しょっぱなから災難だったね」
「え? 災難っていうか、ドレスを汚したのはボクのせいだったんだし、どちらかと言えば自業自得って感じじゃないかな」
「……本気で言ってるの? それ」
本気も何も、事実である。あ、ラフィネは見てないから、ボクがぶつかっちゃったところを見てないのか。それならどういう経緯でドレスを汚してしまったのかはわかっていないだろう。ちゃんと説明しなくては。
「ちゃんと周りが見えてなかったのか、あの女の子とぶつかっちゃって、それであの子の持ってたジュースがボクにかかっちゃったんだよ。だから、ボクの自業自得ってわけだね」
「……はあ、人がいいのか、もしくは鈍感なだけか」
ラフィネは小さな声で何かを呟くと、ボクにぐいっと顔を近づけてきた。驚いて、少しのけぞったが、ラフィネは気にせず質問してきた。
「ルミアはそう言うけど、ちゃんと人にぶつからないように配慮はしてたんだよね?」
「う、うん。でもぶつかっちゃったわけだし、あんまりちゃんとは見れてなかったんだろうね」
「あーはいはい、低い自己評価はいいから。注意してたと思ってたら急にぶつかってそれで?」
「ええと、確かフランの声が聞こえたから、返事しようと思って口を開く前にジュースが……」
あれ? フランの声が聞こえた後に?
「それっておかしくない? 普通はぶつかったのと同時にジュースがかかるはずでしょ」
それなのにジュースの少しずれてボクにかかった。と言うことは、ぶつかった衝撃でジュースが溢れたわけではなかった?
「気づいた? そう、つまりルミアはジュースをわざとかけられたんだよ。まあぶつかったのもわざとだろうね。というかルミア自身がこれに気づいてる状態を想定して嵌めようとしてたのかも。フランソワーズがあんな状況なのに笑いこらえてたし、大方検討違いな返答してたんでしょ?ルミアが馬鹿なお陰で助かったね」
べ、別に、馬鹿じゃないし、って言いたいところだが、途中から来たはずのラフィネがこんなことを感づいていたなら、本当にボクは馬鹿かもしれない。
いや、そもそもラフィネは頭いいから気づいただけで、他の人がボクの立場でも気づかなかったのでは? それを検証するために見ず知らずの他人にジュースをかけるなんてことはしないけれど、きっとそうである。
「ん? でもラフィネはどうしてわざとかなって気づいたの? 何か根拠があったの?」
そう聞くと、ラフィネは苦々しそうな顔をして、答えを返した。
「向こうの顔見れば嫌でもわかるよ。最初こそルミアのドレスにしか目がいってなくて頭にきてたけど、僕が怒ってるの見て、何か周りの奴らが楽しそうにしてるじゃん? それで察したわけ。あ、これルミアのせいじゃないんだ、って。それに関しては、怒ってごめん」
むう、ボクがラフィネにマジギレされている間に、皆笑って見てたのか。それはちょっとむかつくなぁ。さっきのラフィネ、本当に怖かったんだ。皆もそれを味わってほしい。
けれどラフィネが悪いわけではない。最高のドレスをこんなにすぐ汚されたら、怒って当然だろう。だからラフィネが謝る必要はないのだけれど、それを言う間もなく、ラフィネは動き出した。
「さて、じゃあさっさとこっちのドレスに着替えてね。時間がないかもしれないから」
そう言って、どこからか出したドレスを無理やり渡されて、背中を押される。今にも試着室に押し込まれそうな勢いだ。
「いや、待って! 時間がないって、何のこと?」
パーティーはもっと長い間続く予定だから、パーティーを楽しむ時間がない、と言うことではないだろう。パーティーの開始時間のことか? でもそこまで厳密に守らなくてもいいはずだ。せいぜいルドヴィンの挨拶が聞けないくらいだ。ラフィネはそれが聞きたいから急いでいる……と言う訳じゃなさそうだけど。
「着替えてくれたらかいつまんで話すよ。上手い具合に仕掛けてきてくれたし、予定より早いけど、きっとすぐ始まる。ほら、早く着替えて」
ラフィネが言っていることはほとんど理解できなかった。とりあえず今は着替える他に選択肢がなさそうだ。
ボクはラフィネに急かされるままに試着室に入り、さっきまで着ていたドレスよりもずっと動きやすそうなドレスに着替えた。




