そうじゃない
「フッフー、惚れ直したデゴザイマスカ?」
ティチアーノさんは得意そうな顔でそう言ってきた。いや、そんなことを言われても、そもそも惚れてはいないのだけど、かっこいい登場の仕方だったとは思うよ。って、今はそれよりもティチアーノさんがここにいることが問題だ。
「ティチアーノさん、どうしてここに!?」
「ツメが甘々デゴザイマース! アレシキの確認だけデハ尾行に気づけないデスヨー。ソウデショウ、アンドレ・カルティエ」
「そうだな、兄として心配になる」
その声の方を見ると、ボクの右手側から、兄様が姿を現した。その顔は無表情に見えるが、兄様とはずっと一緒に過ごしてきたからわかる。ものすごい怒ってる。いっそ恐ろしいくらいに怒ってるのが手に取るようにわかる。できればわかりたくなかったけど。
やはり外での確認の手を抜いてしまったことがいけなかったのだろうか。ぐっ、なんてことをしてくれたんだ、あの時のボク! そう思っていると、突然兄様がボクの手を握った。
「お説教は後だ。ティチアーノ、この場を任せて構わないか」
「モチノローン!デアリマスヨ。ココハ我輩が請け負うのが適任デアリマスデスカラ。サッサトツレテイケ」
「恩に着る」
ぶっきらぼうに兄様はそう言って、無理やりボクの手を引いた。な、なんて力が強いんだ。改めて怒りを感じる。兄様は普段こんな強い力でボクの手を握らない。ティチアーノさんだけに彼らを任せるのは、心配、というよりはどちらかと言うと申し訳なさがあるから、ある程度ボクも加勢してからここを離れたいのだけれど、きっと今の兄様に抵抗したら、抱きかかえられてまで連行されるだろう。大人しくついていくことにする。後ろからはまた爆発音が鳴り響いていた。
前を歩く兄様の背中を、何も言わずに見つめた。ボクに対して兄様がこんなに怒るのは初めてだ。それにいつもは怒ると同時に蹴りが飛んでくるはずだ。主にルドヴィンがやられてるのを見てただけだけど、確かそうだったはず。今それをしないということは、蹴るだけでは発散できないほど怒っているか、自惚れかもしれないけれど、相手がボクだからというのもあるのかな。そう考えると少し嬉しくはあるのだけれど。
それはともかくとして、兄様はどこまで行くのだろう。もう十分離れたと思うのだけど。そう思いながら兄様についていくと、たくさんの木がある中に、一本だけ枝に赤い布が巻き付けられている木があった。ティチアーノさんと落ち合う場所をあらかじめ決めておいたのだろうか。兄様はその木の下まで行くと、ボクの手を乱暴に引っ張って、ボクをその腕の中に閉じ込めるようにして座った。自然とボクは兄様の膝の上に座ることになる。
……見つめ合ったまま無言の状態が続いた。沈黙を破ろうにも、機嫌の悪い兄様に対してどう声をかけていいかがわからない。やはり謝るべきだろうか。でもボクとしては、フォンダートさんとの約束のことを話さなかったことを悪いとは思っていない。あの時のボクにとって最善の選択だった。悪いと思ってないことを謝るのはどうなんだろうか。自分の気持ちにできるだけ嘘はつきたくないし。
「ルミア」
「はいっ!」
そんなことを考えていたら、急に兄様に名前を呼ばれて、思わず、びくっ、としてしまった。ううん、今の兄様は怒ってるし、蹴られるまではいかないにしろ、叩かれはするだろうか。頭に手が近づいてくる気配がした。やっぱり叩かれるっ! そう思って、ぎゅっと目をつぶっていると、
「…………えっ」
叩くにしては優しすぎる、ぽすんとした衝撃。そして頭の上で少し迷ったようにくるくると手を動かされた後、昔から変わらない優しい手つきで撫でられた。驚いて目を開けると、やはりそこには無表情で怒っている兄様がいた。……どっちが現実だ?
あべこべな状態に困惑していると、やがて兄様は深くため息をついて、ボクの目を見た。
「本当は、お仕置きとしてきちんと叩くつもりだったんだが、そんなに怯えられるとその気が削がれる」
「え、ええっ? ごめんね?」
「そんな反応をして、俺以外の誰かに叩かれそうになったらどうする気なんだ。防御くらいしっかりしてくれ」
むっ、そりゃあボクだって兄様や、気心の知れた人じゃなかったら、ちゃんと避けようとするし、やり返しだってするよ。今は兄様だったから甘んじて受けようとしただけで。そう、誰にだってこんな無防備に頭を差し出すわけではない。
そう訴えるように兄様を見つめると、兄様は何か言いたげな目で見つめ返してきたが、やがてそれを諦めたように首を振った。
「ルミア、どうして俺が怒っているかわかっているのか?」
「ええっと、フォンダートさんと会うことを言わなかったからだよね」
「違う」
えっ、違うの!? じゃあ一体何だろう。他に何か兄様にとって悪いことをした覚えがないんだけど。うう~ん、全く思いつかない。あっ、知らない人に暴力ふるっちゃダメとか? いや、ティチアーノさんさっき爆発してたしなぁ……。
「わからないか?」
「……うん、ごめんなさい」
「はあ……、なら言わせてもらうが」
兄様は真剣な眼差しでボクを見て言った。
「お前はあんな絶体絶命の状況で戦って、どうするつもりだったんだ?」
「どうって、ちゃんと逃げるつもりだったよ。絶体絶命なんて大げさだなぁ」
「数は全く減っていないように見えたが?」
う、それはそうだけど、いつかは倒れていくだろうと思って……。でもあそこでティチアーノさんが来てくれなかったらどうなっていたのだろう。ボクはまだ逃げ道を確保することもできず、彼らと戦い続けていたのだろうか。まるでゾンビのように起き上がってきていたからなぁ。
「それでもきっと大丈夫だったよ。人の体力には限界があるし、何度も蹴られれば倒れていったはずだし」
「それはお前もだろう。何度も蹴っていればお前の体力も尽きる」
ボクがあの人たちより体力がないって言うのか。そう思い非難がましい視線を向けると、そうじゃない、と兄様は言葉を発した。
「俺が言いたいのは、誰でもいいから助けを呼んでくれと言うことだ。昨夜俺とティチアーノがたまたまお前のこの話を聞いて対処できたからいいものを、お前一人だったら、数の多さで負けていたかもしれないし、もし全員を倒せていたとしても船の時間に間に合わず、帰れなかったかもしれない。そうなった場合どうする気だったんだ」
「うっ、そ、そんなこと、ボクの力をもってすれば起こるはずもない事態で」
「自分の力を過信するな」
苦し紛れに出した言葉は兄様に遮られた。
「人一人にできることには限界がある。俺だってそうだ。俺だって無理をすれば疲れるし、体力にも限界がくる」
「兄様も……?」
一度も疲れた素振りを見せたことのない兄様が、そんなことを言うなんて。もしかしてボクの目の前ではそういう振る舞いをしなかっただけとか、そんなことないとは思うけど。兄様がそういうことを言うのが、ただただ衝撃だった。
「ああ、だからルミア。もっと自分を大切にしてくれ。もう何もかも手遅れになる前に、助けを呼ぶために叫んでくれ。俺はお前が……心配なんだ」
何もかも手遅れになる前にって、ずいぶん壮大な話になってしまっているし、ボク的には自分を大切にしているつもりなんだけど、その迫力に負けて、ボクは頷いてしまった。でも今回のことはそれだけ兄様を不安にさせてしまったということなのだろう。これからはもっとちゃんと、しっかりしなきゃいけないな。
「兄様」
兄様を呼んで、大丈夫という意思を伝えるように笑いかけると、兄様はどこか悲しそうに笑った。




