自制のち封印
女運がないはずだった男の宛先を間違えたどろどろした感情のお話です。
俺のこの気持ちを表に出さないために、これを文にして綴っておくことにする。
俺はアンドレ・カルティエ。元々はカルティエ侯爵家の人間ではなく、確かもっと下の爵位だったが何だったかなんて知らないし、覚えてもいない。きっと今後思い出すこともないだろう。もうそんなことどうでもいい。
俺の父親は度が越したお人好しで、そんな人が当主だったから呆気なく俺の家は没落した。その瞬間にもう楽はできないな、とは思ったが知り合いに頼ったり、家族でいさえすればなんとかなると思っていた。俺も相当甘い考えの人間だったと今なら他人事のように感じる。
結果は言うまでもなく酷いものだった。周りで散々俺に媚を売ってちやほやしてきた女どもは手の平返して見下してきた。結局は俺の顔や利用しやすそうな家柄にすり寄ってきてたんだろうが、当時の俺はショックを受けたものだった。さらに母親は家が没落した瞬間、外に作ってた男のところに逃げていった。その悲しみや絶望に耐えかねて父親は俺を置いて逝ってしまった。俺はただ一人取り残されてしまった。そんな絶望下に立たされていたのに、俺は不思議と父親の跡を追おうとは思わなかった。
その後そんな俺に同情してだろう、カルティエ侯爵は俺を拾って養子として迎え入れてくださった。まずは第一の幸運だった。あの方にはいくら恩を返しても返しきれないだろう。
そして俺はそこから侯爵家の人間として新たな一歩を踏み出したが、不幸というものは積み重なるものである。俺の周りにいた女どもや母親の裏切りがあり、すっかり女性というものが怖くなっていた俺だが、侯爵の一人娘である義理の妹と、少しずつでもいいから仲良くなれたらと思って会いに行った。不安と期待に心を踊らせながら。だがそこで開口一番言われたのは、
『没落貴族ごときが気安く話しかけないでくださいませ』
それだけだった。ここで俺は一度、完全に女性を見限った。女なんてどいつもこいつも同じようなものだと、女性の使用人すら避けて過ごした。自分の出会った全ての女に怒りと失望を感じながら。
だから謝りに来たと言う義理の妹と会ったとき、ご機嫌取りだろうと思い、一切取り合わなかった。髪を短く切っていたのに、失望感からか気づかなかった。それに加えて彼女を傷つけることまで言ってしまった。これは後に俺の人生最大の汚点となることである。忘れたいが忘れてはならない。
彼女が謝りに来たその日から、使用人たちが彼女に関する噂をよくするようになっていた。その内容は彼女が以前とはがらりと変わったというもの。走るのが好きになったとか、少年のような格好ばかりするようになったとか、やけにこそこそしているから何をしているかと思ったら井戸の水を飲んでいただとか、俺の出会った彼女がしそうにもないことばかり。どうなっているんだと混乱していたが、変わったように見えるだけで同じなのだろうと思った。もしくは俺の気を引くために彼女が使用人たちに流させていただけだとまで思っていた。今思い出すと完全に自意識過剰だからあの時の俺は消えてなくなってほしい。
俺の部屋からは庭がよく見えたから、ある日使用人がふと、『あ、ルミア様』と口に出したときに好奇心につられて覗いてしまった。そこにいたのは彼女の世話係二人とともに元気に走り回っている妹の姿だった。ふわふわと暑そうなくらいに伸びていた髪は少年のように短くなって、真っ白だった肌は日に焼けて小麦色になりつつあった。本当に彼女があの女だったのかと、自分の目を疑った。何度見ても消えてなくならない光景を目の当たりにしながら、知らないうちに俺の口からは『いつもこの時間に遊んでいるのか』という質問が溢れでていた。それに使用人は驚きつつも、肯定の返事をした。
それから俺は暇さえあれば彼女が遊ぶ姿を観察するようになった。楽しそうに遊ぶ彼女は初対面の時に見たあの憎らしさなんてどこにもなく、愛らしくちょこちょこと動いていた。少なくとも俺にはそう見えた。嫌いなはずなのにずっと目で追ってしまっていた。
彼女に声をかけられるのも嫌ではなかった。でも誘いに乗ってしまうと、一度彼女を拒んだ俺を彼女の使用人たちが非難するように感じた。それ彼女と二人きりで会って謝りたかった。兄妹であることを拒否した俺にそんな資格はないけれど、陽だまりの中で笑う彼女に兄として慕ってもらいたいという欲を持ってしまった。それを伝えるまでは自分の罪をうやむやにして彼女たちの輪の中に入る権利はないのだと、自分にそう言い聞かせて、彼女に何度も背を向けた。……思い返すとこの頃の俺も消え去ってほしい。
だからある日突然、彼女が一人になった日は動揺と期待で頭が一杯だった。今思えばあれは優秀な使用人たちの企てた作戦だったのだろう。そうでなければあの二人が彼女を一人にするはずがない。彼らはきっと彼女が思っている以上に彼女のことを想っている。例え害を加えるのが俺だろうと容赦はしないだろう。どうしてそこまで慕っているのか、経緯はわからないが、おそらくそうだ。
……だとすると、あれは使用人が勝手に実行したことではなく、彼女から言い出したことだった? いや、考えるのはよそう。また都合のいいように考えて自己嫌悪に浸ることになる。
彼女は俺の期待した通りに俺に声をかけてくれた。俺を兄様と呼ぶ震えた声が、やけに耳に残っていたのを覚えている。一生懸命、俺に話しかけてくる彼女はかわいらしくて……かわいかったことしか覚えていない。だがとても嬉しくて浮わついているのが、声にも滲み出ていた。彼女にバレてはいなかっただろうか。バレていたなら情けなさで灰になれる。
それから俺たちは元から仲がいい兄妹だったかのように捕まって、捕まえて、笑い合った。そして彼女がすっかり疲れ果てて、座り込んだとき彼女は言った。
『兄様、この前は兄様の気持ちも考えずに失礼なことを言ってごめんなさい』
俺が拒否した謝罪の言葉だった。やっぱり、ずっと気にしていたんだな。叱られるのを怖がる子供のようにぎゅっと膝を抱える彼女を見て、俺が感じたことは、充実したことによる優越感と同じくらい襲ってきた自己嫌悪だった。だが、俺は深く満たされた心に逆らえずに彼女の頭に手を置いた。
「もう気にしてない。俺も、兄妹だなんて思ってないなんて言って、ごめん」
何が気にしてないだ。本来は俺から謝るべきだったんだ。こんな後出し、許されるはずがないんだ。元は彼女の発言からだったが、彼女は一度謝ろうと近づいてきてくれたのに、それを拒んだのは俺だっただろう。
そんな内心とは裏腹に俺は自分でも恐ろしいくらい、愉悦に浸った笑みを浮かべていることがわかった。彼女がこの行動に安心していると、その顔をあげたことでわかったからだ。
ああ、このままではいけない。そう思った俺は口に出しかけた言葉をすんでのところで飲み下して、元々言うはずだった言葉に差し替えた。
「……。……こんな俺だけど、君の兄になってもいいかな」
その言葉は彼女には裏のない言葉だと取られ、間髪入れずに死刑宣告は告げられた。
「もちろん、ボクの兄様はあなただけです」
そうして俺は太陽のような少女の兄であることを許されたのだった。
それからは流石に朝から夜までずっととはいかなかったが、毎日必ず顔を合わせて言葉を交わす時間は作った。それが纏まって取れるのがお茶会の日だ。贅沢なことだとは思ったが、向こうから出されたお返しという言葉を利用してしまった。少しでも彼女が楽しいと思っていてくれていればいいのだが。
俺が彼女の傍にいたいと思うのはただ純粋な好意ではない。度が過ぎた妹への愛情から来ているのではないということに、俺は気づいてしまっていた。彼女がいなくなることに異常なほどの恐怖を感じる。これは醜い独占欲だ。漢字一字で表せれるほどかわいいものではない。
席を外した彼女が全然帰って来なかったとき、俺の頭は焦りと恐怖で占められていた。俺の持っている気持ちに気づかれたのかと思った。けれど彼女を発見したとき、何か隠していることは明白だったが、俺のことを恐れてはいなかった。ならまだ大丈夫だ、俺はこの子の傍に何食わぬ顔で居座れる。そう考えて発言に騙された振りをしたことを、あの子は気づいてはいないだろう。俺が乗り気で随分焦っていたようだから。だが兄のわがままだと思って受け止めてほしい。
この気持ちは妹には抱いていけないものだ。ここに想いを書き記して封印しておく。俺は彼女の「兄」だから。この気持ちを押し付けてしまったら優しい彼女は拒むこともできずに困ってしまうから、鍵をかけておかなけれはまならない。本当に俺は彼女といられて幸せなのだから、これ以上を望むことは許されない。
……俺の愛しいルミア、心の底から愛しているよ。
……さて、ルミアに似合う衣装を考えなければ。
自制のち封印(=保存?)