消えていってしまいそう
さて、まずは水に馴れることから始めよう。いきなり泳ぐ練習はさすがにできない。おそらくルドヴィンは水に潜ったこともないはずだ。それならまずは……。
「よし、ルドヴィン。一回顔を水につけてみよう」
ボクがそう言うと、ルドヴィンは不思議そうに首をかしげた。
「は? 泳ぎ方を教えるんじゃなかったのか」
「そうなんだけどね、やっぱり最初は水が怖かったりするから、まず水に恐怖心を抱かないようにしようと思って」
「はんっ、怖いわけないだろ」
水を甘く見てるな。一円と同様、水を笑う者は水に泣くんだ。それを思いしらせてやろう。
「そう言うんだったらつけてみてよ。怖くないんでしょ?」
「当たり前だ、見てろよ」
そう言ってルドヴィンは言われた通り、顔を水につけた。それを見て、ボクもしゃがむようにして水に潜った。そしてルドヴィンの表情を見る。
うん、やっぱり目をつぶってる。それを確認すると、ボクはすぐに潜るのを止めて、ルドヴィンを待つ。少しして、したり顔をして顔をあげたルドヴィンに、次のステップを伝えた。
「じゃあ今度は顔をつけた状態で目を開けてみようか」
「……目を? 水中でか?」
「当たり前だよ、目が開けられなきゃ泳げないし」
ふふふ、動揺しているな、ルドヴィン。さすがに初めてだと水中で目を開けるのは怖いよね。ボクもそうだったもん。でも実際、本当に開けていられないと困るしね。
ゴーグルがあればまあひとまずは飛ばせると思うけれど、この世界にはそんなものないようだし、正直そんなに意味がない。もしゴーグルをつけることができたとしても、ゴーグルが外れるようなことがあれば、パニックで泳ぎに支障が出る。学校の水泳テストだったら大惨事である。それなら最初から目を開けれるようにしておいた方がいい。
「大丈夫だよ、ルドヴィン。ちゃんとボクも一緒に潜ってあげるから」
「おい、顔をつけることから潜ることにすり変わってないか。」
ルドヴィンの言ったことは全く間違っていなかったが、気にせずボクは続けた。
「ほら、怖くないように手も繋いでてあげよう」
「怖くないって言って……って、勝手に手を繋ぐな!」
やはり抵抗があるのか、無理やり手を離されそうになったけれど、ボクも今回はルドヴィンの先生のようなものである。引き下がるわけにはいかない。いくらボクが多少鍛えているとはいえ、力の差はあるから簡単に振りほどかれてしまうけれど、そうなったら今度は胴体にしがみついた。そう易々とは引き剥がされまい。
そう思って、ぎゅっと腕に力を込めるが、何だかルドヴィンが引き剥がしてくる力は先ほどよりも弱くなったように感じた。不思議に思って上をあげると、なぜか顔を赤らめたルドヴィンの顔が見えた。
「どうしたの? もしかして熱!? それなら中断してすぐに医務室まで行こう!」
そう言いながら慌ててルドヴィンから離れ、ルドヴィンを医務室までつれていくためにプールを出ようとすると、おかしなことに、ルドヴィンの身体へと引き戻されてしまっていた。頭にはルドヴィンの手の平の感触がある。どうやらルドヴィンがボクを引き寄せたようだ。
「すぐ治るから心配するな。……はー、全部お前のせいだからな」
「えっ!? 何で!?」
熱がすぐ治るわけないだろ、と言いたかったが、後に続いた言葉に驚いて、口をついて言葉が出てしまった。人のせいで熱が出るって、どうやってやるんだ。ボクは念じた覚えがないぞ。いや、そもそも念じてできるものなのか? とにかく、ボクのせいじゃないことは確かである。
「わかったわかった、潜りでも何でもするからもうくっつくな」
「本当? よかった!」
よく考えたら、ボクが今ルドヴィンにくっついてしまっているのは、ルドヴィンが引き戻したせいでもある。一概にボクが悪いわけではないのでは?と思ったが、ルドヴィンが潜るのに挑戦してくれるのが嬉しくて、つい笑顔になってしまった。……うん、その心意気に免じて許してあげたと言うことにしよう。
「よしよし、じゃあ手、繋ごうね。ボクがついてるから大丈夫だからね!」
「だから怖いなんて言ってないだろ。耳が悪いな」
「残念。ボク、耳はいい方だよ」
そう返しながらもルドヴィンと手を繋ぐ。今度は振りほどかれなかった。もちろん水が怖いというのもあるとは思うのだけれど、おそらくは抵抗するとまたさっきの状態になるとわかっているからだろう。ようするに諦めである。いい子だな。
「準備はいい?」
「……ああ」
「よし、せーの!」
ボクはそう言うと、勢いよく身体を水の中へと沈ませた。そして目を開けるとちゃんとルドヴィンも潜ることができているようだった。けれど、目は開いていない。催促するようにルドヴィンの手をぶんぶんと振り回していると、やっと、その瞼はおそるおそると言う風に開かれた。
ぱちぱちとまばたきを繰り返すその目と、ボクは目を合わせた。すると、自然に彼の目はまばたきの回数を減らしていった。ほぼ無理やりこの状況にしてしまったので、逆に水に対しての苦手意識が強まってしまうかもしれないと思っていたが、存外水に慣れるのが早い。やがて彼はボクと同じくらいしかまばたきをしなくなった。
まるで時間が止まったかのようにそうしていた。実際は数秒の間だったのだろうが、何時間のようにも感じられた。そう錯覚するくらい、彼から目が離せなかった。
どうしてか、水の中で見る彼は、いつもより儚く見えた。まるで泡となって消えていってしまいそうだ。人魚姫でもあるまいし、そんなことあるはずがないのに。そう思っていると、突然、ボクの身体は水から引き上げられた。
「わっ、とと」
急なことだったので、とっさに体勢を立て直すと、ルドヴィンが怖いものでも見たかのような顔でボクを力強く見つめていた。
「びっくりした。息限界だったの? ごめん、気づかなくて」
「いや、そうじゃない」
そう答えてしばらくルドヴィンは黙りこんだ。まだ緊張から解けていないその表情に、ボクは他に言うことが見つからなくて、同じように黙ってしまった。一体何がルドヴィンをその表情にさせているのかが検討もつかなかった。
やがてルドヴィンはずっと握っていたボクの手に、痛いくらいの力を込めながら、重々しく口を開いた。
「お前の言ってた通りだ」
「え?」
「水は、怖いな」
その言葉を言われるのは予想外だった。ルドヴィンはきっと、それを認めることがないことだろうと思っていたからだ。例え認めたとしても、いつもだったら茶化すところだろうが、ルドヴィンがあまりにも暗い表情をしているし、それに、根拠はないけれど、ボクが言った怖さと、ルドヴィンが言っている怖さとは別物のように感じた。一体ルドヴィンは何を考えてそう言ったのだろうか。一体彼は水の中で何を見たのだろうか。
そう考え出した瞬間、大きな声が響き渡った。
「うわー! 嘘っすよねアンくん! 人の泳ぎ見ただけで泳げるって……超人すぎるっすよ! いや、もはや人間やめてるっすね! 尊敬通り越していっそ怖いっすよー!」
エドガーさんがそう言う声に、お互い、びくっと身体を震わせた。そちらを見ると、兄様が余裕でクロールしている姿が見えた。しかも速い。本当に泳げなかったのかと目を疑うくらいだ。兄様はどれだけ人間離れしてしまうんだろうか。
「あいつどうなってんだ。お前の兄貴だぞ、あれ」
「残念ながら血は繋がってないんだよね、本当に残念なんだけど」
ボクも血が繋がってたらあれほどの運動神経を身に付けられたんじゃないだろうか。なれるもんならなりたかった。まあでも今の兄様とボクがあるのは血が繋がっていなかったからというのもあると思うから、今の関係が変わるくらいなら血が繋がっていない方がいい。
「うん、もういい時間だし、泳ぐ練習……って言っても全然できてないけど、そろそろやめて皆で遊ぼうか。皆で遊ぶ時間なくなっちゃうからね」
「ああ、そうだな。……なあ、ルミア」
ルドヴィンに名前で呼ばれるのは珍しい。何年か前に呼ばれて以来だろうか。他の人には数えきれないくらい呼ばれているのに、何だか懐かしい響きのように感じた。
「なに? ルドヴィン」
「オレの目の前からいなくなるなよ」
それだけ言って、ルドヴィンは兄様たちの方へと勝手に行ってしまった。目の前からいなくなるなって言ったのはそっちなのに、ってそういうことじゃないんだろうな。少なくとも長期でルドヴィンの前から姿を消すことはないと思うけれど、なぜそんなことを?
ルドヴィンに聞こうかと思ったが、ルドヴィンは答えてくれないような気がした。それならボクが自分で答えを見つけなければならない。ルドヴィンの言葉が頭から離れないまま、その後の一日を過ごしたが、何も浮かばないまま、修学旅行一日目は終わってしまった。




