平穏と衝撃
一日一日を遊んだり護身術を学んだりしていたら、いつの間にか十歳になっていた。特に何事もない日々はあっという間に過ぎていくんだと実感した。
兄様は以前よりもずっと忙しくなった。成長して、処理できる仕事が増え、色々なところへ飛び回らなければならない父様の仕事を、ほとんど肩代わりできるようになったらしい。そんな素晴らしく優秀な兄様に、未だ女の子を誑かす様子は見られない。ボクが作ったちょっと不格好な料理に喜んでくれる優しい兄様である。これからも変わらないといいのだけれど。
ラフィネはボクが思っていたよりも賢くて、兄様に出された課題を次々とこなしている。ボクも一回見せてもらったが、一問目ですでに頭がこんがらがっていた。
本当にあれは高校レベルの問題なのだろうか。それよりももっと上のように見えるのだけれど。少なくともボクは見た記憶がない。ラフィネはこれに加えて服飾の勉強もしているのだから、ボクの見えてないところで並々ならぬ努力をしているのだろう。本人は何でもない風に言うのでわかりにくいけど、この事実に気づいたときに褒めちぎったらなぜか本の角で叩かれた。痛かった。
ボクはと言うと、段々とついていけなくなった勉強会を抜け、イリスさんやセザールさんに護身術を習っていた。何で二人ともこんなに詳しいのか不思議でならないが、多すぎるくらいに色々なことを教えてくれた。その事には感謝しかない。使える技は多ければ多いほど、いざってときに役立つからね。いざってときはほとんどないかもしれないけど。
ちなみにルドヴィンとはまだ顔を合わせていない。このまま学園に行くまで会わなければ万々歳だけれど、そろそろボクも避けてきていた社交界とやらに出なければならないという事態に陥っていた。
今まではずっと兄様に任せてしまっていたが、学生になったとき、場数を踏まなかったばっかりに恥をさらすのはボク自身である。そもそも社交界に出ることのないラフィネとは事情が違うのだ。ちなみにラフィネはボクのこの悩みを聞いて、
『あはは、やっぱりルミアみたいな野蛮人には荷が重いんだね』
と笑ってきたので、いつぞやと同じように蹴ってしまった。そういうところだよ、と非難がましい目で見られたけれど、ボクは悪くない。そして君の言葉は女の子にかける言葉ではない。ラフィネの将来が少し不安になった。あいつ結婚できるだろうか。……自分のことは棚にあげて。
まあそれはそれとして。つまりボクは今、ドレスを買わなければいけないという問題に直面してしまったのであった。
「ルミア様はこちらのドレスがお似合いになると思うのですが、どうでしょうか」
「うーん、できるだけ肩出すのは避けたい。どうせだから焼けた肌だけ見せたい。白い部分があってもきれいだとは思うけど、アンバランスでしょ。あ、セザール、これ」
「はーい! ルミア様、これ着ましょうか!」
……気が早すぎる。社交界の予定もないのに。
イリスさんとセザールさん、そしてなぜか勉強中のラフィネも来て、ボクのドレスを熱心に選んでいた。ラフィネのお父さんがお店にあるドレスをありったけ、車で持ってきてくれたらしい。ごめんなさい、ありがとうございます。
「そんなにたくさん試着しなくてもよくない?」
見たことないくらい大量のドレスを見て、思わず思っていたことを口に出すと、ラフィネがドレスから目線をはずして、ばっとこちらを見た。
「は? ダメだよ。実際に着てみたときの全体像とか着心地の確認とかしなくちゃ。ルミアに一番似合うのを着せたいからね」
「そ、そうなんだ」
正直ラフィネはボクが着るドレスなんてどうせ似合わないからどれでもいいとか言うかと思っていたが、服なら全部対象内らしい。ボクにはかわいすぎるドレスたちを吟味していた。ボクに似合うドレスなんて、この中にあるのだろうか。
「それよりルミア様。これ着てくださいね」
「……やっぱり着なきゃダメか」
ボクを着替えさせる担当のセザールさんは、一次予選を潜り抜けたドレスたちを抱えていた。その中から一着取り出すと、ボクに押し付けてきた。やはり避けて通る道はないらしい。諦めたボクはしぶしぶ試着室に入ってドレスを着始めた。
一着目のドレスを着て確認してみても、やっぱりボクには似合っていない気がした。一般的なお嬢様のイメージとかけ離れている。これはないな、と思いながら一度外に出ると、三人からは意外な好評価だった。
「ルミア様、大変よくお似合いです!」
「おー、ルミア様がお姫様に見えますねー」
「なるほど、悪くないね。じゃあ次こっちよろしく」
こんな具合に次々に試着を重ねていった。……全部お世辞なんじゃないかと思うくらい似合うと言われるから、試しに兄様に見せに行ったが、三人とは比べ物にならないくらい似合うとかわいいを繰り返されたので、全く当てにならなかった。でもすごく喜んでいたし、仕事中の息抜きになったのならそれはそれでよしとしよう。
選ばれた全てのドレスを着終えた後、ラフィネはその中から一着、青色のドレスを手に取った。
「うん、これにしよう」
海の濃淡をイメージしたようなそのドレスは、やはりボクには似合わないような気がしたが、ラフィネが納得しているようなので、ボクがわかってないだけで似合っているのかもしれない。これだけして選んでもらったのだから、それに見合うように堂々としていなければ。
「だけどまだ着る機会なんてないよね? 何でもう決めてるの?」
そう聞くと全員驚いた顔でボクを見た。え、ボク、何かおかしいこと言っただろうか。確かボクの記憶では社交界に出る予定なんて全くなかったはずだけれど。
「まじで言ってますか」
「まじだけど」
本当は何かあったの!? どうしよう、全く思い出せない。いつそんな話してたんだっけ。うぐぐ、楽しく過ごした日々しか覚えてない……。
なにも思い出せないボクを見て、イリスさんはカレンダーを指差した。そのカレンダーは一日だけ、とある日付に丸がついている。あと十日足らずでその日だ。
「何の日でしょう」
「もちろん、兄様の誕生日だよ。今年も誕生日プレゼント用意したし」
兄様の誕生日だけでなく、他のみんなの誕生日も毎年祝っているので覚えている。それに今月誕生日を迎えるのは兄様だけなので、忘れることなんてない。
ちなみに誕生日プレゼントは無難にハンカチだけれど、それだけでは今一つ足りないと思い、イニシャルを刺繍してみた。初挑戦だが練習のかいもあり、なかなかうまくできたと思われる。料理に裁縫にと、前世で培われなかった女子力がめきめき上がっていってるのを感じる。……と言ってもうまい人から見たらまだまだだろうが。
「それがどうしたの?」
「その日です」
「え?」
「あれ? その日にアンドレ様の誕生日パーティーを大規模にやるんですよ……って聞いてませんでしたっけ?」
聞いてないよ! 大方伝達役のセザールさんが言うの忘れてたんだろ! というかなんでラフィネは知ってるんだ。……ドレスのためか。じゃなくて!
「セザール、あなた、お伝えするのを忘れていたの?」
「あー……そういえば言ったような言ってないような……あはは、すみません、ルミア様」
「すみませんじゃないよ! もう!」
この光景を見てラフィネはぷるぷると震えていた。どうやら笑いを堪えているらしい。こ、こいつ……。
「申し訳ありません、ルミア様。セザールに任せてしまったわたくしの責任です」
「ううん、イリスさんは何も悪くない。全部セザールさんが悪い」
そして本人は何も反省してなさそうな顔をしている。何て悪い奴なんだ。兄様に対してだったらめちゃくちゃ謝るだろうに。
でもこんなことで騒いでも今更どうしようもないし、兄様も急にボクが出席しないことになったら、すごく落ち込むだろうというのが目に見えている。それで兄様が体調を崩し、パーティー自体が禁止なんてことになったら目も当てられない。腹をくくらねば。
「セザールさん!」
「はーい!」
「ぐ、やけに元気な返事だな。……今回のことは許してあげよう!」
「いえーい!」
絶対この人最初から許してもらえると思っててこの態度だろ! ちょっとボクのことを舐めすぎなんじゃないだろうか。まあ距離感がなく、友達感が強いのは嫌いじゃないから、別にいいと言えばいいんだけども。
「その代わり、条件があります」
「おっ、何でしょうか」
ボクは声を張り上げて言った。
「全くマナーを知らないので当日までに教えて下さい!」
視界の端でラフィネは飲んでいた紅茶を吹き出していた。




