兄様の憂鬱
最初の訪問から三日に一回くらいの頻度で、ラフィネは遊びに、もとい兄様に勉強を教えてもらいに来ていた。ボクも学んでおいた方が後で楽だと思うし、折角ラフィネが来ているのに一緒にいないのもつまらないので、兄様から勉強を教わることにした。と言ってもまだ小学生レベルの問題をやっているので、前世が高校生だった身としては楽勝ではあるのだけど、順序よくまじめにやっていっている。
……元々頭がいい方ではないので、急に高校レベルになると絶対に解けないからだ。それに今でもたまにうっかりミスで計算を間違えたりするから、二人には多少できるけど年相応のように見えているだろう。なんでだろう、ちょっと悲しい。
そんなこんなで兄様の勉強会は続いているのだが、今日はちょっと違った。
「はあ……」
兄様のコンディションが最悪なのである。体調が悪いというわけではない。昨日は王族主催のパーティーがあったのがその理由だと思うのだけど、まだ詳しくは聞いていないのだ。昨日行く前にずっと、
「行きたくないな……。急に体調悪くならないかな……。もしくは今すぐ王家滅びないかな……落石とかで」
とか物騒なことを言っていたから、それが原因なのは間違いない。
家に来たラフィネにそのことを伝えると、なら聞いてみたらいいじゃん、と急遽勉強会をお茶会の準備に変更して、今は三人で紅茶とお菓子が乗ったテーブルを囲んでいた。ラフィネも我が家に馴染んできたなぁ、としみじみ思った。
「で、どうしたの、アンドレ。らしくないじゃん」
紅茶を啜りながらラフィネはさらっと兄様に聞いた。兄様その言葉を聞いて、頬杖をついていた顔をあげ、ボクらに視線を向けた。心底疲れていそうな顔だった。それでもその顔が美しいのは兄様たる所以だろうか。
「そうだろうか。……そうだな、ルミアがそんなに心配そうな顔をしているからそうなんだろうな。ごめんな、ダメな兄様で……」
「兄様はダメなんかじゃないよ! ボクはどんなことがあろうと兄様を軽蔑したりしないからね」
「ルミア……。ああ、その言葉だけで俺は生きていける……」
「うん、だから話してもらっていい?」
個人的には素晴らしい兄妹愛を繰り広げていたと思うのだが、ラフィネに一蹴されてしまった。調子悪いときにはこれをやっとかないと、兄様は突拍子もないことをするから、やらなきゃいけないんだけど、一度やると収拾がつかなくなるので止めてもらうのはありがたい。
まあこれをやる機会はほとんどないのだけれど。でも以前兄様が体調を崩したときには、最終的になぜか兄様の部屋で一緒に寝ていた。なんでああなったのか今でもわからない。
それはおいといて、兄様は恥ずかしいところでも見せたと思っているのか、少し顔を赤らめながらも、いつものように姿勢を正し、ボクたちに向き直った。そして右手の指を二本、左手の指を一本立てた。
「悪いことが二つ、良いことが一つあった。どちらから聞きたい」
悪いことの方が多い時点で相当兄様にとっては苦痛だったと思うが、良いこともあったのか。ならば先に悪いことを聞いておこう。この兄様が悪いことと評するのならおそらくめちゃくちゃ悪いことなんだろうし、先に話しておいた方がすっきりするんじゃないだろうか。
「じゃあ悪いことから」
「一つ目は、以前からの知り合いに会った」
以前から……ということは兄様の実家が没落する前から、ということだろうか。兄様はうちに来てからは一度もパーティーに行っていなかったから、多分そういうことだ。
ちなみにラフィネにはボクらに血の繋がりがないことを話してある。別段隠すことでもなかったし、ことあるごとにラフィネが似ていないと言うので、きちんと説明した。そのときのラフィネは
『ああ、だから気品に雲泥の差があるんだね』
と、言ってはならないことを言った。衝動的に蹴ってしまった。すぐに手か足を出す癖があることを反省はしているが、後悔はしてない。気品がないのは本当だけども、それでもボクは悪くない……と思っている。
「……それ、どこが悪いことなの? 相手のこと嫌いだったわけ?」
「いや、嫌いなわけではないし、どちらかと言うと唯一馬が合う人間だと言っても過言ではないんだが」
唯一馬が合うとまで言える人なのに、馬が合わない人と会うことよりも悪いことになるってどういうことなんだ。もしかして没落したことについて色々言われたのか!? よし、そんなやつだったらボクが今すぐにでもひっぱたきに行こう。
「兄様、今すぐそいつの居場所を教えて。渾身の力でぶん殴る」
思わず口にまで出してしまったボクの言葉に、兄様は小さく微笑んだ。
「ありがとう。だが、きっとルミアが今考えてくれているようなことではない。そしてできることなら一生会わないでほしい」
それならいいんだけど……、あれ? どうして会わないでほしいんだろうか。兄様の友達ならむしろ会った方がいいんじゃないか。
「……実は昨日の俺は少々気が立っていてだな、これは二つ目の悪いことが関係しているんだが、俺は最終的に相手に構わずルミアの話をするという暴挙に出た」
……ちょっとなに言ってるのか飲み込めない。
「ルミアの話? 例えば?」
「相手が話している最中に無理やり話を切って、ところで先日私の妹がかけっこで転んでですね、とルミアのかわいいエピソードを話したり、相手の自慢話を聞いて、私にとっては妹が最も美しいので貴女は少なくとも二番目以下ですね、と批判したり」
あ、兄様!? そんな喧嘩売るようなことを兄様が言うなんて。しかも美しいって言うからには相手女の子だよね。さりげなく美しくないなんて言うのは、ボクならいいけど他の子にはダメなんだよ、兄様。相手が貴族の女の子なら余計にそうだと思う。出会ったことがないからわからないけど。ボクの経験が物語っている。そしてかけっこで転んだエピソードはかわいくない。野蛮さが見え隠れしてるからできれば話さないで。
慌てるボクとは対照的に、ラフィネはさも愉快そうな顔をした。
「へえ。じゃあ、貴方は私に釣り合うので婚約者にして差し上げてもよろしくてよ、みたいなこと言われたらどう答えるの」
「それは昨日言われたな。もちろん、私は我が妹を一等愛しておりますゆえ、貴女様に不釣り合いなので丁重にお断りさせていただきます、と返した」
「言われたんだ。やっぱり顔いいしモテるんだね」
なんて返し方してるんだ、兄様ー! 断るのは別にいいとしても一々ボクを引き合いに出さないでくれ。もしかしてゲームでも他の令嬢から恨みを買ったことで殺されるのでは? だとしたらこの状況は悪化の一途を辿っていると言ってもいい。
あああ、終わった。主人公さんが兄様を選んだ場合のボク終わった。全ての家がボクの敵に回って、主人公さんという大切な人ができた兄様もボクを邪魔だと思って、全員で蹴落とされるのかもしれない。もしそうだったら最悪セザールさんやイリスさんと一緒に国外逃亡するしかないのでは? うん、二人ならきっとついてきてくれる。三人で支え合って生きていこう。そのために護身術くらいは学ぼう、今決意した。
というかなんでラフィネも面白がってるんだ! そんなこと聞かなくてもいいだろ! 知らない方が幸せなこともあるんだ。ボクはたった今知らないところで恨みを買ったことを知ってしまったけどね!
「おっと、いつの間にか二つ目の悪いことの話に変わっていた。二つ目は没落貴族が侯爵家に養子として引き取られたと聞いて、執拗につきまとわれたことだ」
「正直アンドレって、僕から見てもかっこいいし、仕方ないような気はするけどね」
「そうか、やはり顔がいいというのはそれほどいいことでもないな。この顔でよかったと思ったことは一回しかない」
ほとんどの人は兄様みたいな顔に生まれたかったって思うだろうけどね。まあ見た目が違っても兄様は兄様なのでボクは気にしないけど、こんなきれいな顔が嫌というのももったいない気がする。
「そうなんだ。……あれ? 兄様、一回はよかったと思うことあるの?」
「ああ、そうだな。最近考え直したんだ。この顔のよさというか、使い道を」
「どういうこと?」
ボクがそう聞いた時点で、ラフィネは何かを察したのか、引いたような顔をした。聞いちゃいけないことだっただろうか。やっぱりいいや、と兄様に言おうとする前に、兄様はボクの問いかけにさらっと答えた。
「俺がこの顔であることで、将来ルミアに婚約者ができた際に、ハードルを上げられる」
「……え」
「ルミアと結婚する条件は、俺より頭がよくて、ルミアを守れる強さがあって、さらに俺よりルミアを愛せるというのが絶対だと考えていたが、顔がいいも追加できることに気づいた」
「いやいつそんな条件考えてたの!?」
そもそも兄様より顔も頭もよくて、強くて、さらにボクを愛せる人って存在しないと思う。さては兄様、ボクを結婚させる気全くないな?
まあ今はボクも結婚なんて考えてもいなかったのだけど、この年で婚約者がいるのは珍しいことでもないと、以前父様から聞いた覚えがあるから、兄様がそういうことを考えるのも不思議ではな……いや、おかしい。話題に上がってもいない結婚のことを想定して、条件を考えているのは絶対におかしい。それとも世の中の兄って全員こんな感じなのか? これが正常なのか?
「じゃあ条件達成しないでルミアに近づいてきたらどうするの?」
「そのときは」
「ああああああああああ! この話はやめよう! ほら、兄様、元は知り合いに会った話だったでしょ! そっち話して」
続けられようとしていた話を無理やり軌道修正して、話を終わらせた。ラフィネは、えー、聞きたかったのに、となぜか不満げだがそんなことは関係ない。これ以上この話をされると、何か色々なものを失うような気がする。何とは一概に言えないのだけれど。
「ああ、そうだったな。そうだ、周りにそう話していた頃にあいつと出会ったんだ」
兄様はそう語りだした。こうして話を戻すことに成功したボクは安心していて、まさかこっちの話も爆弾だとは到底思えなかったのだ。
「そういえばあいつって?」
「ああ、この国の第二王子、ルドヴィン・アランヴェールだ」
それはボクが前世に何度も繰り返し聞かされて、覚えてしまっていた人物の名前だった。




