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夢は現実になりえない(前編)

 昔よく見たのは、母親が波にさらわれる夢だった。オレと母は海岸で手を繋いで、楽しそうに笑いながら歩いている。だが、途中で急に天候が悪くなり、海が荒れ初めて、海側を歩いていた母は波に呑まれ、オレと繋いでいた手を放してしまうのだった。手を伸ばす母の顔を、鮮明に覚えていた。


 もちろん、こんな夢は現実とは異なっていた。現実は、オレが母を置いていったのだ。突然の波にさらわれるように、オレは父親の下へと連れ去られた。

 けれど、オレを取り返そうと、必死に手を伸ばす母の顔は、夢での顔とよく似ていた。夢でも現実でも見たあの顔は、あまり見なくなった今でも忘れない。


 少し、オレの話をしよう。貴族間でも、オレのことは噂になっていた。貧民街で生まれた王の隠し子が、最近になって城までやってきた、と。ああ、その通りだ。よくわかってるじゃあないか。オレは王の身勝手のせいで生まれ、大人たちの都合で城へと連れてこられた、正真正銘貧民街の子供だ。

 オレは生まれた時から、母にとって落ちこぼれだった。折角王の子を産んだのに、オレの髪の色も容姿も母似だった。ただ唯一目の色だけが、父のものと同じだ。だから、オレはいつも母に言われていた。


『あなたはワタシなんかに似た悪い子ね。幸せにしてあげられなくてごめんなさい』


 母はそう言って泣いていた。オレはいつも、オレは十分幸せだ、と母に訴えたが、母は聞いちゃくれなかった。金があるだけが幸せじゃないんだと、オレはわかっていたのに、母はオレのことを、胸を張って生きられない哀れな我が子としてしか見ていなかったのだ。

 ……オレはそれでもよかった。自分の気持ちが伝わらないのは悲しかったが、母は母なりにオレを愛してくれていた。母は忙しく、一緒にいても疲れていたから、あまり遊んだりした記憶はなかったが、オレは母が大切にしてくれているだけで幸せだった。本当の愛情を受けることのない立場にあった母には、オレしか心の拠り所がなかったことを知っていた。


 城での生活は、決して幸福なものではなかった。王の息子ではあるから世話はしてもらえるが、他の子供よりも雑な扱いを受け、あんな環境下に身を置いていたのだから、まともな教育なんて受けているわけがないのに、聞かれたことに答えられなければ蔑まれた。勝手に連れてきた場所なのに、オレには味方もいなければ居場所もなかった。


 だから、何度も何度も脱走しようとした。扉を開けて出ていこうとすれば鍵をかけられ、窓から出ていこうとすれば落ちれば死ぬほどの場所まで部屋を変えられる。

 それでもオレは耐えに耐え、世話係が持っているスペアキーを奪い、その日の夜に、やっと城を抜け出すことができた。連れていかれるときに見たおぼろげな記憶を頼りに、貧民街へと走っていった。それが、年齢が二桁になるかならないかくらいのことだっただろうか。


 オレがそこに着いた頃には、もう次の日の陽が落ちかかっていた。オレは必死に、以前母と雨風をしのいでいた場所まで歩いていった。ふらつく足でそこにたどり着いても、母はいなかった。あまりこの時間に母がいることはなかったから、てっきり仕事なんだと思い、中に入ろうとすると、後ろから声をかけられた。


『坊や、まさか、リズットさんのところの……』


 その声には聞き覚えがあった。確か、よく食料を分け合った、ここらでは数少ない、善良なおじいさんだった。そして、リズットというのは、オレの母の名前だった。


『バオさん、久しぶり。オレ、ルヴィだよ』


 ルヴィと言うのは、オレの愛称だった。母がよく呼んでくれていた、大切な名前だ。だからバオさんは、オレが母の息子だと確信したのだろう。オレの顔を見ながら、彼はほろほろと涙を流し出した。


『えっ!? どうしたんだよ、バオさん。もしかして泣くほど嬉しいのか?』


 てっきり、オレが戻ってきたのが嬉しくて、バオさんが泣いているのだと思い、そう聞いたのだが、ふるふると彼は首を振った。そして誰もいない家を見て、さらに悲しそうに顔を歪める。


『バオさん?』


 バオさんは、こっちにおいで、とだけ言って、のそのそとどこかへ歩き出した。不思議に思いながらも着いていく途中で、オレはふと、思い出した。確かこっちは、この貧民街の人々の墓地だ、と。


 バオさんは、一つの簡易的な墓の前で、ぴたりと足を止めた。そして、さらに大粒の涙を止まることなく流しながら、彼はオレに言った。


『ルヴィ。ここに、リズットさんがおるよ』


 母はすでに、亡くなっていた。どうして。母は病気なんて患っていなかったはずだ。お母さんの仕事は身体が資本だからね、って、こんな環境でも健康には気を使っていたのに、どうして。

 頭が真っ白になって、冷静に考えられずにいると、バオさんは語り始めた。


『お前さんがいなくなってからリズットさんは、日増しに元気がなくなっていってのう、まるで生き甲斐をなくしたとでも言うのか、仕事をする気どころか、生きる気力すら湧かないようじゃった。わしが何度言っても、食べ物は口にせず、ただ外を眺めておった。

 何をしているのか聞いてみると、彼女はこう言ったわい。「ルヴィが帰って来るのを待っているの。あの子は悪い子だから、遠くまで遊びに行っちゃったんだわ。長い間家に帰って来なかったら、お家もわからなくなっちゃうでしょう? だから、こうして顔を出して、お母さんはここにいるって、わかるようにしてあげてるの」……最近は物忘れが激しくなってきていたが、これだけは覚えておったよ。お前さんがもしも帰って来れたら、伝えられるようにの』


 バオさんは母の墓に近づいて、涙を流しながらも、いとおしむように笑った。


『よかったのう、リズットさんや。お前さんの息子は、ルヴィはちゃんと、お前さんのもとへ帰って来たよ』


 オレは言葉もなく、ただただ泣いていた。母の名前も書いてない、粗末な墓の木の板を涙で濡らした。他の墓は木の棒や石ころなのに、母だけはかろうじて文字が書けそうな木の板なのは、バオさんのお陰なのだろう。

 陽が完全に落ちる頃、オレはやっと、母に声をかけることができた。


『お母、さん、っごめんなさい……! 遅くなっちゃって、ごめんなさいぃ……』


 バオさんはただ、オレが泣き終わるのを待ってくれていた。




 オレが泣き終わった頃、バオさんは言った。


『お前さんはおそらくまた、城に戻されるじゃろう。その前に、お前さんが習ったであろう文字で、墓に名前を書いてはくれんか』


 オレは当然、その通りにした。リズット、と名を刻むと、墓の木はどこか、喜んだ気がした。


『バオさん、ありがとう。こんなにもオレたちのことを気にかけてくれて』


『いいんじゃよ。わしも世話になったんだから、お互い様じゃろう。……これから、どうする気じゃ』


 それは、ここに残ろうとするのか、あっちに戻るのか、と言うことだ。オレにとって、あんなところは家じゃない。だが、母のいないこの場所で、オレは生きていけるのかわからなかった。もう死んでしまってもいいだろうか、とも思った。

 けれど、バオさんはオレの気持ちを見透かしたかのように、最後にこう告げた。


『どうするにしても、命だけは捨ててはいかんよ。リズットさんが亡くなってお前さんが悲しんだように、お前さんが亡くなれば悲しむ人間は、必ずいるんじゃからな。わしも、その一人じゃ。

 ……さあ、わしはそろそろ退散するとするかのう』


 バオさんは貴重な、きれいなパンを一つオレに渡して、暗闇の中へ消えていった。オレは家の中で泣きながらパンを食べて、もう母の匂いが消えた布切れをかぶって目をつぶった。寝れないと思っていたが、泣き疲れていつの間にか眠っていた。


 次の日の朝、城の連中は来ていなかった。オレのことを諦めたのだろうか、と思った。オレの行き場所はわかっているだろうに、こんなに捕らえるのに時間がかかるはずがないからだ。その事にほっと息をついたのを覚えている。


 これからどうするべきか。それを考えながら歩いていると、狭い路地に子供がいるのを見つけた。一瞬、突然そこに現れたかのように思えて驚いたが、どうやら最初からそこにいたようだった。その子供には、汚れの他に、痛々しい暴力の跡がいくつもついていた。


 しばらく観察していると、子供がオレに気づいた。子供は驚いたように目を丸くさせた後、何かを訴えるように口を開いた。


『……………に……………い………だ……』


 声はあまりにも掠れていて聞き取れなかったが、子供は懇願しているように見えた。そのまま倒れた子供を見て、オレは咄嗟に駆け寄り、ためらわず、子供を背負った。オレはこいつに手を差し伸べなけらばいけない気がしたのだ。


 子供を背負って路地を出ると、ちょうどそこには、無機質な目をした、城からの迎えが来ていた。

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