陸の王
◇◇◇
緊急事態というのはいつだって急に訪れるものだ。しかしその実態は、死角でじわじわと燃える導火線のようなものなのだ。
船が急発進したのを体感する。
船。ここでいう船というのは水上を走るそれではない。砂上を走るという、私が重体で意識がなかった間に発明された乗り物の総称だ。海が消えてから生まれた子たちにすれば、船といえば砂漠の乗り物の一つで、海や川と関連づけることはないだろう。ミリコも写真でしかそれらを見たことがないという。
私はずっと眠り続けていたのだ。クビカリが世界に放たれてから二十年。
二十年も! カンデラから聞かされた時は冗談かと思った。よくもまあ、ミミズの状態で長いこと病院で保たれていたものである。その状態でずっと放置されていたといえるし、その状態で死なせずに管理してくれていたともいえる。
船体が傾く。大きくカーブしているのだ。
「ペタ。外を見てきな。今のお前ならもう大丈夫だろう」
テスラが来てそう言った。
テスラ。元看護婦の彼女。彼女はさぞかし苦労しただろう。病院にどれほどの被害者が雪崩れ込んできたことか。手が足りず、どれほどのミミズの死を見てきたことだろう。その死の中で、姉妹のものも確認したのだろうか。そしてその病院はもう存在しない。クビカリの爆撃の巻き添えを食らう瞬間を、たまたま外で患者の仕分けをしていた彼女は見た。炎に包まれた院内に残された大勢の人々の断末魔を、彼女は聞いた。
体が一瞬だけふわりと軽くなり、衝撃が下から来た。
「カンデラが操縦してんのさ。まったく、荒々しいったらありゃしないよ。こりゃ性格が出てるね」
カンデラ。装具士として、どれだけのミミズと対面してきたことだろう。本来の姿を取り戻してあげるため、どれだけの技術を振るってきたことだろう。しかし、彼もまた手が追いつかずどれだけのミミズを見逃してきたことだろうか。
はたして私は、運が良過ぎたのだろうか。
「上にいるんですか。キャプテンが」
「あのガキがやり遂げようとしていることが、どんなもんなのかをその目で見るんだよ」
ふらつきながらも指示通りにコートと手袋を身に着けた。いつからか部屋に用意されていたもので、カンデラが街に降りた時に見繕ったものらしい。患者の体形を知り尽くしているだけあってサイズがぴったりな上にセンスがいい。
彼の右腕の火傷は炎に飲まれた仲間(彼はそうとしか言わなかったが……)を助けるためにできたもの。傷跡を治療しないのは殺人兵器を生み出した世の中に対する意思表示。左腕の刺青は決意表明。反転させた祖国の言葉で「クビカリの首をはねよ」と、彼は怯える人々に無言の怒りを呼びかけているのだ。
装具士は外見が命。己の身体が看板となる。自身も美しいパーツでそろえること業界の暗黙のルール。彼は目の前の昇格よりも手元の感情を選んだ。違反者となり、身の危険が迫ることになっても。もはや肩書きなどあてにならないのだ。
ハッチの下にはエクサがいた。
「お頭! 無茶をしねえいでくだせえ!」
「うるせえ! やんなきゃ全員くたばっちまうんだよ!」
懐かしい声がする。あれからどれだけ経ったのだろうか。一年以上は確実に経っていると思う。
「お、おい。アンタまで行く気でやんすか!」
「うん。クビカリプロジェクトの責任者だからね」
「どうなっても知らねえでやんすからね!」
梯子に手をかける時、テスラに呼び止められた。
「こいつを忘れてた!」
飛んできたものを受け取る。目と耳を保護するマスクだった。
「必需品さね!」
外は赤黒い砂嵐だった。コートの生地が丈夫なお陰で何ともないが、ゴーグルに当たる硬い音が砂粒の大きさと衝撃を物語っている。朝なのか夜なのか、光が何層にも遮られてわからない。
赤黒い波を左右に作りながら船は進んでいた。暗いベールの向こうに黒い影が横切る。後を追うように風と音がベールを突き破り、私はバランスを崩して片膝をついた。
裂け目に一瞬だけ映った輝き。銀色の殺人ロボット。型が何なのかまでは確認できなかった。しかしそのエンジン音の主は蘇った記憶の中にまざまざと存在していた。
「……〈ハゲタカ〉か!」
「当たりだ!」
前方から声がした。ゴーグル越しからその姿は見えない。
「やっと思い出したようだな! 待ちくたびれたぜ! ちょうど砂嵐がこっちに来てくれてなあ! 目くらましに使ってるとこだ! まあ、そう長くはもたねえけどなあ!」
ひとまずの目くらましに成功したからなのか、私が回復したからなのか、何だか楽しそうに感じる。
私も叫ぶように言った。
「ずっと考えていたよ! 私がやられてからクビカリは二十年以上も動き続けている! 誰がメンテナンスをしているのか、どこでミサイルや毒ガスや燃料を補給しているのか、何より気がかりだったのが、エクサの言葉だったよ! 私は開発中のクビカリを何度も見た!」
新型ができるたびにジェーンに紹介されたのだ。
「滑空、方向転換に優れた〈ハゲタカ〉! 車道の上をスムーズに越えていけるように設計された〈サンバー〉! 夜の巡回用の〈エスカルゴ〉! 水中偵察用の〈イリエワニ〉! そしてそれら四種が蓄積した情報を解析しアップデートさせる〈オランウータン〉! I/J&Gで作られていたのはこの五種類だ!」
この五種が最終決定したクビカリで、工場に専用ラインが五つ作られ、私が捕まっている間に大量生産していたのだ。
「地面を潜るやつなんて知らない! キャプテンは見たことがありますか!?」
「俺もまだお目にかかったことはない! だがエクサの話は本当だろうぜ! 〈カブトガニ〉型だってよ! 見た奴らがそう呼んでる!」
「じゃあ考えられる可能性は一つだ! 海がなくなったことで〈イリエワニ〉の必要性が下がって、砂漠地帯に優れた機体が必要だって〈オランウータン〉が判断したんだ! I/J&Gの工場はもう存在しない! だからそいつらが、作ったんだ! 世界のどこかに! 誰にも見つからないところに!」
ジェーンとアイツが会社を捨てたのは、あとは勝手にやってくれると思ったからだ。散布した薬は勝手に効いてくれる。……本当に勝手な奴らだった。
「だろうな! 数が減るどころか新型が出てきやがる! てめえの会社! 見に言ったら跡形もなく吹っ飛んでたぜ!」
右側で爆発音がした。また爆発。さらに爆発。黒い柱が近距離で噴き上がる。
「おい! クビカリはどうやって動いてやがんだ!? 動力源は何だ!?」
「今はどうか知らないよ! 燃費が悪すぎて改善されてるだろうからね! 個人的にはそうであってほしいな!」
「そんなんどうだっていい、言えっつってんだよ!」
「おやあ! ミリコちゃんから私のこと怒鳴るなって言われなかったかい!?」
「ああ!? お前こんな時に!」
左からの爆風に乗るようにして船が跳ね上がり、もんどりを打ちそうになるのを堪えた。
「どいつもこいつも! 頭がいかれてやがるぜ!」
ドン! と今度は前方から、かなり近くで爆発音がした。砂のベールが粉砕されるや真っ白な太陽が顔を出した。
後方で爆発が起こる。〈ハゲタカ〉の残骸が四散しているところだった。キャプテンがバズーカで撃ったのだ。あの殺人ロボットを一人で……。
船の動きが安定する。私は彼の姿をよく見ようとゴーグルを外した。
「わ、眩しい!」
思っていたよりも青空がきつかった。
「久々の外の空気はどうだ?」
「ちょっとくらくらするね」
私は改めて面を上げた。
「えっ」
そして面食らう。歳は十五、六くらいだろうか。バズーカを肩にかけた少年が不敵に笑っている。
「その、コートは……」
「これか? キャプテンの証だ」
空よりも濃く深い青の外套。あのンナウドの大海賊のトレードマークが日光によって魚の影の群れが映し出されていた。
「きみは、キャプテン青服なのかい?」
「二代目のな。てっきりわかってると思ってたぜ」
「もしかしたらとは思ってたけど、声が若かったし……。きみはンナウドなのかい?」
「んな訳ねえだろ」
「海を返すつもりは?」
「ねえよ。クビカリをぶっ潰して、新しい海を作るんだからな。その名もサンタン洋大作戦。アンタも協力してもらうぜ」
「それは……」
「何だ? 今更拒否んのか?」
キャプテンは顔をしかめる。
「そうじゃない。結局私は記憶を取り戻したところで大した役には立たない。私の知るクビカリは過去のものだ」
「あーあー、辛気くせっ! ババアの占いは絶対なんだよ。必要だから船に乗せたんだ。いいか、お前も協力するんだ。これは命令だ」
彼は理解しているはずだ。青い外套を身に着けている限りクビカリはやってくる。海をまとっている限り誰よりも優先されて命を狙われるのだ。しかし犠牲になるつもりはないようだった。この少年の心は銀色でできているのだ。
日光は大海の衣に吸い込まれる。太陽も彼のものであるかのように。世界は彼のものなのだ。彼こそが真の陸の王であり、未来の海の王でもあるのだ。
「で、返事は?」
怒鳴られたくはなかったので私は言った。
「アイアイサー」




