〝彼女〟
――ああ、もう。いい加減にして。
――アンタって男はいつもそうやってめそめそ、めそめそ。
――この泣き虫野郎。
記憶の修復を拒むものが消え失せた今、すべてを思い出してしまうのも時間の問題なのだろう。例えば、そう……。
……彼女は虫が嫌いだった。この世の何よりも虫が。願いが一つ叶うとするなら世界中の虫が死ねばいいなんて真顔で言っていた。虫は彼女の天敵だった。例えば、そう……。
人間の顔にはダニがいる。ダニだけではない、何種もの微生物がいる。常日頃に適度な清潔を保っていれば何ら問題はない。それらが生息していることこそが正常なのだ。しかし彼女はその事実を許さない。彼女は手術を受けて全身の皮膚を取り換え、汗一つかけないヘルシアンの仲間入りとなった。
虫に対する拒絶は常軌を逸していた。例えば、そう……。
受粉昆虫の代表格であるミツバチは農業に不可欠であり、我々はその恩恵を受けている。しかし彼女は、ならば受粉を必要としないよう品種改良をすればいいと私に言った。虫の協力がなければ成立しない理があることを彼女は頑なに認めようとはしなかった。
花は好きだというのにミツバチは嫌いで、ハチミツも口にはしなかった。向かいに住む赤ちゃんはハチミツを舐めたせいで死んだのだと、一度言い出せば何十分も繰り返し騒いだ。あれは姑が無知で傲慢ちきだったせいだ。本当にあの赤ちゃんも母親も可哀想だったと思う。……その話はともかく、彼女は無農薬野菜などもってのほかであり、栽培中に一匹でも葉や茎に引っ付いていたかと思うと身の毛がよだつのだった。
根菜も食べられない、キノコも食べられない。無論、肉も。牛も豚も、はたしていくらの虫に囲まれていただろうか。食べられるものといえば、それらの疑似的な味のする栄養サプリという、ヘルシアンのよくある光景と化した。彼女に至ってはそのサプリすら滅菌を欠かさない。彼女の手足は虫のように細かった。
異常だった。一体何が彼女をそうさせたのか。あれは精神廃頽ではなく、生まれながらの性質だった。その思考回路は遺伝子レベルから複雑に構築されたものであり、脳手術をしない限り癒着した性癖は改善されないと思った。しかし、人格を強制的に改善させたとしても、体に組み込まれている虫憎悪遺伝子は鳴りを潜めていて、遺伝する可能性はゼロではなかった。
いや、そもそも脳手術による人格矯正はリスクが伴い、サイコパスの犯罪者であっても本人の承諾なしでは行うのは違法だ。精神廃頽者が蔓延る中でも法律家や慈善団体は人権侵害を訴えてうるさい。そして彼女自身も頭は至極まともだと信じていて、手術の承諾書にサインはおろか、精神科に受診してもらうのも至難の業といえた。人格はそのままに、奇跡的に遺伝しなかったとしても、虫を憎めという教育が行われたに違いない。看過してはならない問題に果たして私は止められたのだろうか。何を言っても、訴えても、諭そうとしても彼女は耳を貸そうとしなかったのに。
昔から実権を握っていたのは彼女だった。腰抜けの私はただの言いなりだった。それでも唯一抵抗できたのがセックスだった。彼女が求めてきても私は拒否した。最大の避妊はセックスをしないことなのだ。あんなに虫を憎んでいたくせに、精虫だけは平気だというのが私には到底理解できなかった。結果、彼女は同じくヘルシアンであったあの男と至る所でやっていたのだが。
「水がもったいないって言ったでしょー」
唐突に思えた。ミリコが私の頬に伝う涙を舐め取り、なおも止まらない涙の源泉へと小さな唇が吸いついた。
「待って。そんなことをしたらいけない」
「どうして?」
「怒られてしまうよ。私もきみも」
気だるく伸び切っていた腕を持ち上げ、彼女を押し戻した。その手応えは風船のような軽さで心配になるほどだった。
「もう大丈夫だから。もう泣いていないよ」
吊り上げさせた口角は震えた。情けない大人の姿に怪訝な表情を浮かべる幼女。私の涙で潤った唇の儚げさに、とてつもない過ちを犯してしまったのではないかと胸が締めつけられた。
「ごめん。絵本はまた今度にしてくれないかな」
「えー」
「ごめんね。おじさん少し疲れちゃったよ」
「えー、つまんなーい! つまんない、つまんなーい!」
ミリコは地団駄を踏んだ。
「そうだ、テスラやカンデラは? 二人に遊んでもらったらどうかな」
「やー! いっつもカードばっかりだもん! ミリコ、キャッチボールがしたいー!」
「あはは……。キャッチボールか……」
親戚のおじさんになったかのようだ。苛立ちの中にこそばゆい温かな「輝き」がほんのり灯された気になる。
「ミリコちゃん。あんまりそいつを困らせるんじゃないよ」
水仕事を終えたらしいテスラが入り口で仁王立ちしていた。いつからそこにいたのか、もう少し早ければ彼女に殺されていたかもしれない。
「だってー」
「キャッチボールならアタシが相手してやるからさ」
と、彼女はいつにない優しい声音で近づいて、ミリコの目線にしゃがみ合わせた。
「ミリコ、テスラの投げたやつ取れないもん」
「今度はうまくやるさね。ミリコちゃんだってキャッチボールうまくなってほしいだろう? そのためには練習しなくちゃ、ね?」
「……ウン。じゃあミリコが教えてあげるー」
「本当? じゃあミリコ先生、お願いします」
テスラが深々と頭を下げると、ミリコは満面の笑みになった。
「じゃあ早く行こ!」
「はいはい」
テスラは私にウインクをすると、ミリコの手に引かれて出ていった。しんと静まり返り、私は目を閉じた。すると鼓動を感じ始める。
右の握り拳を床に叩きつけた。びりびりと指の根元の内部が痺れた。もう一度叩きつけた。何度も、何度も何度も叩きつけた。
……痛覚。
ぬるりとしたものがまとわりつき始め、ゴリッと小指の根元が陥没した。そこを起点に右腕全体が沸き上がる。どくどくと脈打つのをふと眺めた。第二の心臓が手の甲にできたようだ。
義手から漏れる赤黒い液体。鉄の臭い――
◇◇◇
「テスラもよく言ったもんだ。俺の苦労も知らないで」
カンデラの愚痴を聞き流しながら、私はすっかり元通りの右手をぼうっと見上げていた。
「伝達義肢というのは血管までつなげてしまうんですか?」
「いいや。疑似血液として冷却剤を通わせていただけだ。酸素に触れたらゆっくり凝固する作用のある……。血が出ないと人間じゃないみたいだと嘆く患者もいてね。可能な限り本物に近づけるというのが俺のポリシーなのさ。そいつには形状記憶性のある素材をふんだんに使わせてもらっているんで、ある程度の損傷は時間経過で元に戻る。だが限度というものが生身と同様にあるんだ。そして生身と違って疑似血液はどんなに栄養を取ろうが体内で生成されない。装具士として説明不足だったことには詫びるが、お前さんも患者側として節度というものを守ってもらいたい。……それとも、半永久的な丈夫さを誇るダイアモンドアームにでも取り換えてヘルシアンの仲間入りになるか? それなら他の装具士に大金を積んで相談することだ」
彼は半ば投げやりに脚を組んでパイプをくわえ、眉間のしわをほぐした。壊してもいいと勝手に許可され、実行されたのが気に食わないのだろう。彼の青紫の熱視線がまた例によって例の如し、煙の中で幻影のように私を射抜く。パン、と太ももを景気よく叩いたかと思えば、溜め息だ。
「まあ、いいさ。俺の独善でその腕をつけたんだ。メンテナンス責任もある」
「あなたには感謝してます」
「ふん。……で? 一体何を思い出した? 芋づる式にすべて、という訳ではあるまい」
私は頭の虫が死んだ後に引きずり出された一連の記憶、感情をありのままに滔々と口にした。雁字搦めだったものを先端から解いていくように。この間、カンデラは黙っていた。パイプは指に絡ませたままで、紅茶の香りは新たに広がっていく。
すっかり渋さが色濃く部屋に充満した時、私の一幕の追憶は終えた。それでもカンデラは黙っていて、視線を落として顎を撫でたり、パイプを遊ばせたりしていた。瞳にばかり気を取られがちだったが、よくよく観察してみると目元に何本ものしわがある。実は結構年配なのだろうか。皮膚を全く弄っていなければの話だが。
彼が声を発するのを待った。彼女のことを話してしまった脱力感で、こちらから何かを口にする気が起きなかった。視覚を得てから時刻を確認できるものを一度も目にしていない故に時間感覚は未だ定まらず、それが一分だったのか十分だったのか、あるいはそれ以上だったのか、沈黙は気だるさを抱えていた。いや、綽々たるカンデラの長考は熱量のあるものだったのかもしれない。内に秘めた火の光が青紫の眼差しに深みのある色を持たせているのだ。まるでタンザナイトのような――
「その〝彼女〟の名前は思い出せていないんだな?」
カンデラの問いに対し私は半ば反射的に頷いた。
「当ててやろうか。お前さんの本当の名前も」
「わかるんですか」
「正解かどうかはお前さんに任せる」
「ええ。言ってください」
「〝彼女〟の名前はジェーン・カーディガン。ジョー&ジェーンの創業者。そしてお前さんがその片割れのジョー・グリーン。……どうだ?」
「……わかりません」
私は首を横に振る。二人とも知っている名前ではあるが、それが私と彼女だと合致させることができなかった。
「〝彼女〟の顔は思い出しているのか?」
「ええ、もちろん」
「ジェーンの方は話題性が高くてメディア露出が多かったんだがな。関連付けができないってことは、俺の推理が外れたか、余程に都合の悪い記憶なのか……」
「できれば思い出したくないと?」
「そうだろうな。しかしながら、それもろとも思い出してもらうことになる」
「関連付けですか」
「ああ」
「クビカリと〝彼女〟が関係していると」
カンデラはパイプをくわえ肩をすくめた。口元は微笑んでいるが目は笑っていない。あくまでも自力でたどり着けというのか。真実を受け入れるためには。
私は右手をさすった。嘘のように痛みは消えている。体のメンテナンスはできても、心の方はどうなるのか。真実を受け入れられず(ジェーン……)心が壊れた時、誰が保障してくれるのか。カンデラは治してくれるのか。テスラは癒してくれるのか。ミリコは慰めてくれるのか。
私の中で芽生えてしまった「希望」はじわりと心を蝕む。いずれ訪れる解放の瞬間を(アイ・ジェイ・ジーの……)恐れている。
何とかなる。大丈夫だ。何とかなるはずだ。そう念じるほどに右手が震えてくる。次は腕をへし折らねば、もぎ取らねば耐えられない発狂の衝動が(ペタ・トロンボーン……?)間近に迫っている。
「……まだ、キャプテンは待っていてもらえるんでしょうか?」
「あいつはまあ、気は短いがしぶとい性格をしているからな。サボアの婆さんの占いに変更がない限りは問題ないだろう。……ああ、そうそう」
パイプの燃えカスを捨てながら、カンデラは言う。
「また人選りの占いだ。近いうちに新たな船員が加わる」
「じゃあ船は今その人を探しに向かって?」
これまで船は医療関連や食料、船の部品といった消耗品の調達で転々としていただけだという。一ヶ所に留まっていられないのには込み入った事情があるようだ。まあ、違法で手術をしている男や薬の横流しをしてきた女がいるのだ。第一私は誘拐されてここにいるし、どうやって物を調達しているのかも怪しい話。警吏軍もこの小悪党集団に目を光らせているのではなかろうか。
「一体どんな役割で選ばれたんです?」
「それがだなあ」
カンデラはくしゃりと笑顔を見せた。
「キャッチボールの相手、だと!」




