誘拐
〈懺悔〉
奇跡という言葉には「輝き」のイメージがつきまとう。それが群がる蝿のように鬱陶しく感じたのは生まれて初めてである。
生まれて初めて――
まるで私は生まれたての芋虫のようだ。しかし蝶はおろか、蛹にすら変化できない出来損ない。芋虫のように這いずり回ることすらできないのだ。
一体何が起きているのか。何が起きたのか。
記憶が虫食いにあっている。あるいは記憶の配線が焼き切れている。思い出そうとしてみると、その部分が白く焼ける。灼々として頭蓋骨が割れるかというほどの痛みに見舞われる。頭を抱えようにも、そのための右手も左手も持ち合わせてない訳で。
異常なまでにやられる包帯ぐるぐる巻きはさながら……。なかなか面白いたとえが浮かばないものである。そうかといって思考を止めてしまっては私の中の人間性が廃れていくだろう。ただでさえ暗黒の時代なのだ。
「暗黒……?」
声の発し方を思い出したらしい。魚の骨でも刺さっているかの異物感が喉に引っかかっている。ようやく絞り出された私の声は酷くしゃがれ、地獄から這い出てきた化け物のようだ。よりによって吐き出された言葉はそのまま自身に深く突き刺さる。
「ああ。確かにアンタはお先真っ暗闇だよ」
呆れているような、嘲笑っているような。冷たい毒を持った声が私に落とされた。変声期なのだろうか、とても若々しく、それでいて不安定な少年の声だ。
「やっと起きたかよ。ひでえ姿してるぜ」
「きみにはどう見えるんだい?」
「ミミズ」
「容赦ないな……」
肉塊、と呼ばれなかっただけマシなのだろうか。私はかろうじて生き物なのだろう。
「口と喉だけまともでよかったぜ。あと耳か」
「右耳の方はちょっと詰まってるみたいでね」
「いいや? そこらへんは潰れちまってるよ。両目はねえわ、鼻は欠けてるわ、両手両足はもげてるわ。全身大やけどの真っ赤っ赤だぜ。鏡見るか?」
「遠慮しておくよ……」
ブラックユーモアを受けられるほどの心の領域は残っているということだろうか。それとも既に人間性の廃れが。頭の中の虫の痕跡がちりちりと焼け広がり、自我崩壊へのレールをたどっているとでもいうのだろうか。
「そんな状態でよくもまあ生きていられるな」
「奇跡だと思うかい?」
私も私を嘲笑した。周りを取り巻く医者も看護婦もそろってそう言うのだ。一体どんな目をして言っているのか。生まれたての赤子を母性で愛でるかのように、彼らは希望を持たせようとする。「奇跡」の次は「希望」なのだ。これもまたキラキラとし、かろうじて機能している左耳をむず痒くさせる。むず痒さのあまり溶けてしまいそうになる。溶けてしまえば露わとなる骨は白いのだろうか。
命さえ無事ならいくらでも復活できる。高性能の義手義足はもちろん。ドナーを待ち、生身のパーツを接合させることもできる。倫理観の歪みの象徴の一つでもあるダイアモンドフットといった美的身体改造によって切除される部位は各バンクに保存できるようになった時代だ。(ああ、なるほど。これが暗黒の時代の所以なのだろうか……?)いくらでも好きな外見に変化して第二第三の人生を歩めるのだ。しかし、私は――
「占いの結果だよ」
さも当然だと少年は吐き捨てた。姿は見えないが、確かに彼は私を見下ろしている。医者たちよりは背が低いのだと声の近さでわかる。会ったばかり(彼は違うだろうが)なのにひしと感じられる腹黒さは、最初から隠す気はないのだ。私に対する嫌悪感も。
「要するにクビカリをよく知ってる奴がいるんだろうってさ、サボアのババアが言ったんだよ」
クビカリ。
その単語だけがやけに脳内で反響した。頭蓋骨の裏で何度も跳ね返っている。そういえば医者たちがその単語を何度も発していた気がする。それなのに。
「何だっけ、それは」
喉が渇いてひりひりする。さっき重い眠りから這い出てまだ一度も水分を取っていない。
「はあ?」
少年はあからさまに気分を害したようだ。彼は占いを信じるタイプ、というよりも信じた結果通りにならないと気が済まないタイプなのだろう。彼の持つ棘が本当に刺さるなんてこともあり得ぬ話ではない。
「すまない。今までに何度か記憶をたどろうとしていたんだが」
ダイアモンドフットだのといった知識は医者たちの一方的な会話の中でよみがえったもの。ああそういえばそんなものもあったな、という程度である。なぜそんなものが流行り出したのか、社会情勢についてはまるっきり抜け落ちている。しゃべり方なんてついさっき思い出したのだ。仮に手が残っていたとして、はたして文字を書くことができるのか。目が残っていたとしてはたしてものを認識できたのか。一般常識にさえ虫食いの被害が出ているのだ。
「自分が誰なのかも忘れちまったのか? クソ! 吹っ飛ぶのは手足だけにしてほしいぜ! ……何笑ってやがんだ」
私は失笑してしまっていた。笑っているように見えるほどには顔を歪ませることができたということである。皮膚が八方に引っ張り合い、枯れ果てた大地のようにひび割れを起こしてしまうかというほどの突っ張った痛みが起こったが、それすら感情の良き震えをもたらすものになる。
「こんな哀れな相手でも怒鳴ってくれるんだね」
新鮮な感覚であった。この状態であると自覚してから受け続けた同情めいた声に飽き飽きしていたからである。今の私には「輝き」はまるで不必要なのだ。そんなことなど露知らず、彼は聞きやすい舌打ちをする。
「確かにどうかしちまってるようだな」
「ねえきみ、すまないが水を少しくれないか。喉が張りついている感じでね……」
少年は大きくため息をつく。ほどなくすると下唇に水滴が一つ引っかかる。私はやおら水差しに吸いついた。何で俺がこんなことを……などとぼやくのが聞こえたが、すんなり要求に応じてくれる点といい、水差しの傾き加減といい、根はいい奴なのかもしれない。
「アンタ、ペタ・トロンボーンっていうんだってさ。カルテに書いてあった。まあ顔はぐちゃぐちゃだし、それらしいところにそれらしい身分証が落っこちてただけだって話だ」
ふと思い出したとばかりに少年は言う。私はその名前を呟いてみるが、まるで他人のもののように記憶の虫食い穴に滑り落ちていく。
「ペタだろうがそうじゃなかろうが、俺はずっとそう呼ばせてもらうぜ。面倒だからな」
「構わないよ、それで」
私も何だか面倒に思えた。一体、私は何なのか。気にはなるが、それ以上はない。思考を止めてはいけないから気にならなければならない。それだけなのだ……。
「きみのことは何て呼べばいいのかな?」
「俺のことはキャプテンって呼べよ」
「キャプテン……?」
「そうだなあ……。何もかも思い出してもらうにはまずその姿をどうにかしねえとな。新しい目ん玉つけて、クビカリの所業を見てもらう必要がある」
私はここでようやく違和感を覚えた。耳から感じる――何と言えばいいのやら、空気の圧というか気配というか、いつもと異なる気がした。
「ここ、病院だよね……?」
「ああ?」
顔は見えないのに、少年が悪戯な笑みを浮かべるのを想像できた。
「ここは船の上だ」
「船、だって……?」
予想外の回答に耳を疑う。その耳をそばだててみるが何も聞こえない。今は泊まっているのだろうか。
「そう。アンタはめでたく退院したって訳だ」
全く気がつかなかった。昏睡状態から覚醒してからも、一度眠るとニ、三日は起きない日が続いている。それだけ負担が大きいということなのだろうが。
「なぜ私を……」
「言ったろ。クビカリを知ってる奴がいるって占い結果が出たんだ。何が何でも思い出してもらうぜ。覚悟しとけよ」
冷たい毒を持った声はより鋭く、けして逆らってはならないことを強調していた。




