召喚された歴代最強の聖女ですが、私はただ帰りたいだけなんです
これをいまあなたが読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのだろう。
……なんてね。失礼、一度言ってみたかっただけで、深い意味はまったくない。
道端に落ちていた手紙を拾って読んでいるあなたは、さぞ驚いたことだと思う。申し訳ないことをした。
ふざけた手紙だと、あなたはいま捨てようとしているだろうか?
けれど待ってほしい。少しでも時間があるのなら、私の話を最後まで聞いてほしいのだ。そして判決を下してはくれないだろうか。
私はあの世界に勝ったのか、負けたのか。
家族でもなければ友人でもない、道端で偶然これを見つけたあなたに、十一年に及ぶ私の戦いの日への決着をつけてほしいのだ。
あなたが下した判決を私が知ることは、永遠になくとも。
ストックホルム症候群という言葉を、ご存知だろうか。
拉致や監禁などの被害にあった人間が、加害者と同じ空間で長時間を過ごすことによって、いつのまにか相手に対して同情や愛といった感情を抱くようになることをいう。
世界的に認識されている精神医学用語だから、おそらくはいらない説明だったことだろう。
ともかく、そのストックホルム症候群なるものにだけはなるまいと、けっして狂うまいと誓って、私はあの世界を生き抜いた。
十一年前の夏、その時まで、私はごくごく平凡な十四歳の少女だった。
もちろん、さすがに個性のひとつやふたつくらいはあったと思う。けれど、結局のところ、そういった個性でさえも、凡庸の範疇を出ない、ありきたりなものだった。
父がいて、母がいて、もうすぐ四歳になる弟がいた。
同級生の女の子たちは反抗期を迎えていたのだけれど、私はまだまだ母にべったりだった。両親の関心が歳の離れた弟に向かうものだから、いつも拗ねていたのだ。
――七月二十八日。
夏休みもまだ始まったばかり。私は友達といっしょに映画を見て、さらにその映画の主題歌をカラオケで熱唱し、夜の十時ごろにひとり家路についていた。平々凡々な私の日常は、その瞬間を最後に崩れ去った。
突然まばゆい光を放つ魔法陣のようなものが足元に展開されたのだ。
鉄臭い匂いが鼻につき下を見れば、無数のどろりとした赤黒い手が私の足に絡みついていた。驚く間も、叫ぶ間もなく、抗いがたい力に引きずりこまれた。
そこで私の人生のすべては、狂ってしまったのだ。
微かに開くことができた目で、煌びやかな宮殿のような内装と、そこで私を囲うたくさんのローブ姿の人間が見えた。激しく痛む頭に耐えかねてすぐに気絶してしまったので、鮮明には思い出せない。
まともに覚えているのはここからだ。
あの世界に引きずり込まれてからどれくらい経ったかは定かではないが、ともかく、西洋のお姫様が住んでいそうな絢爛豪華な部屋で、私は目を覚ました。
混乱はしていた。でも、わめいたり、騒いだりはしなかった。
息をのむほどに美しい八人の男性たちが、こちらを見ていたからだ。彼らの視線だけで、私のなかにあった恐怖や疑心などの負の感情は、しゅるしゅると消えていってしまったのである。
「聖女様がお目覚めであらせられる」
聖女、とくちびるを動かしたときに感じられた、微かな畏怖。
まるで敬虔な信者が神に祈りを捧げるかのような、深い尊敬を込めた視線。
それらがすべて、私に向けられている。知らず知らずのうちに、私はぴんと背筋を伸ばしていた。
緊張している私に対して、彼らは一人一人自己紹介していった。
王太子だとか、王宮魔術師だとか、公爵だとか、漫画や小説でしか聞いたことがない言葉が、次々と飛び交った。
「恐れながら、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
これには、素直に困った。
私は非常にダサい名前をしていたのである。俗にいう、DQNネームというやつだった。それもよりによって、アニメ風の。せめてこんな時くらい、違う名前で呼ばれたかった。
「百合、といいます」
とっさに嘘が口をついて出た。ずっと憧れていた、古風で綺麗な名前を選んだのだ。
「ユリ様――綺麗な名前ですね」
王太子だという、輝かんばかりの美貌の青年が、微笑みを口に浮かべてそっと囁いた。
その気品に溢れた笑顔に照れて、私は思わずうつむいてしまった。
それから彼らは、とても落ち着いた穏やかな声で、懇切丁寧になにが起きているかを説明してくれた。
このエルアルド王国は、二千年もの間、異界の聖女の加護によって守られてきた。
聖女とは、この国全体を覆う聖域を生み出すだけの多大な力を持つ、もっとも神に近い存在らしい。魔のものなど、聖女の力に触れれば一瞬にして砕け散ってしまうのだという。
これまで九十一代に渡って国を守ってきた聖女たち。彼女たちは、前の聖女が崩御すると、どこからともなく現れ、国を救った。彼女たちは共通して、無尽蔵な魔力と、それぞれ固有の能力があった。
そのとき国を護るのにもっとも必要な、まさに神力ともいえる万能の力を備えていたのだ。
そして私こそがその選ばれし聖女であり、この国の平穏を守ってほしいのだと、その美男子たちは跪ずいた。
――引き受けると、その時点ですぐにでも私は口にしたかった。
考えてみてもほしい。
当時の私といえば十四歳、ちょうどそういうファンタジーな物語に憧れる多感な時期だ。なんと、「異世界に行きたい」と願い事を込めたミサンガをするくらいに、こじらせていた。
それに加えて、王子や騎士のような格好をした輝かんばかりの美形たちが、私に忠誠を誓い跪いているのである。
本当にそんな素晴らしい聖女が私でいいのかな? という疑問こそあれど、こういう物語の主人公のような出来事を密かに期待していた私にとって、諸手を上げて喜ぶべき申し出だった。
けれどもちろん、さきに私は聞かなければならなかった。
「あの……役目を終えたら、帰れるんですよね?」
瞬間、彼らの顔はわかりやすく曇った。
なんでも、どういったメカニズムを経て聖女がこちらへ降臨するのかは、まるでわかっていないらしい。ただ前代の聖女が崩御したり、天帰り(なんのことか、その時はわからなかった)すると、新しい聖女がこの世に降り立つのだ。
しかし、聖女はこの世の誰よりも偉大な力を持つもの。帰りたいと願えば、きっと自ずと道は開けるだろう。
そう赤髪の騎士に念を押され、私は躊躇しながらも頷いた。
「では帰る目処がたつまで、聖女の務めを頑張って果たしたいと思います」
宣言するのとまったく同時に、身体中に鋭い痛みが走り、まるで全身の血がめまぐるしい勢いで流れ出ていくかのような感覚がした。それに呼応するように、床に朱色の大きな紋章が広がっていく。
なにがなんだかまるでわからないうちに、私はまた気を失った。
次に目が覚めた時、あれは聖女になるための儀だったのだと教えられた。私の部屋には、あの朱色の紋章が床に大きく浮かび上がっていた。
そこから二ヶ月、私は夢のように幸せな日々を送った。
豪奢なドレスや、眩い宝石、大輪の花束、国中からの贈り物で私の部屋は埋め尽くされた。
魔術で創られた使用人たちによって、常に綺麗に磨き上げた神殿。それが私の新しい家だった。気温も私のために調節され、塵一つない清廉な空間では、体を崩すことはまったくなかった。
神殿で使われる湧き水は、この世でもっとも清廉なもの。その水を使って洗った私の髪や肌は、日増しに人間離れした輝きを持つようになった。
食事は、いつも私の舌に合ったものが運ばれてきた。過去に他にも日本から召喚された女性がいたらしく、シェフは東洋風の調味も心得ていた。
私は、万全の警備の施された神殿の中だけで暮らした。
エドアルドの反乱分子の間者から、聖女はもっとも狙われるらしく、外出は厳禁だったのだ。
驚いたことに、聖女の役目といえば、ただそこにいるだけでよかった。
特に意識せずとも、それで聖域が張られ国が浄化されているらしい。不思議なことに、私もまた、自らが力を使っているのだと、どこかで感じることができていた。朱色の紋章に魔力を流し続けているのが、心臓から伝わってくるのだ。
外に出ずとも、神殿のなかの生活は刺激に満ちていた。
私の護衛として、これまた見目麗しい七人の男性が選ばれたのだ。
そのうち四人は、最初の日に私を囲っていたメンバーのなかでも年若かった青年たち。
ここから先には、私が初めの一ヶ月のうちにつけていた日記に書かれていた印象を、参考のため記しておこうと思う。
ひとりめは、人望厚く優秀な王太子のジュード。
太陽の御子と二つ名をつけられるだけあって、輝かんばかりに美しく、聡明で、優しかった。
たった十五歳とは信じられないほどに大人びていて、世の中を達観した目で見ていた。王族たる厳格な品格を纏う彼は、けれど同時に物語の中から抜け出してきた王子様のように甘い魅力も持っていた。
私が家に帰りたいと泣いてしまった時は、いつもぎゅっと抱きしめて、落ち着くまで背中を撫でてくれた。
王族公爵家の嫡男のフィリップは、怜悧で冷たそうな美貌の持ち主だった。
最年長の十九歳なだけあって、常に落ち着き払っていた。物をひとに教えるのがうまく、魔道具の使い方がわからなかったりするときは、いつも彼に聞いた。冷たそうな外見とは裏腹に辛抱強いところがあり、私がつまらない話をしてもおとなしく付き合ってくれた。そして最後には、そっと微笑みを口に刻んで私を優しく見つめてくれたのだ。
それから、王宮騎士であるノラン。
ジュードの幼馴染で専属の騎士でもあるという彼は、王宮騎士という特別な位を最年少の十六歳で授けられていた。なんでも武術に特別長けた者だけがもらえる称号で、エドアルド国には二十人ほどしかいないらしい。精悍な整った顔立ちのノランは、いつもお兄ちゃんぶるのが好きだった。
「ユリ様」とか「聖女様」などと私を呼びながらも、よくその鍛え上げられた腕で抱え上げて、遊んでくれた。
最後に、辺境伯の第二子のアーネスト。
私と同い年の十四歳の彼もまた、ノランと同じで、王宮魔術師という称号を歴代最年少で持つ天才だった。
童顔の愛らしい顔立ちに、ハニーブラウンのふわふわの髪。魔術師としての誇りをなによりも大事にしていて、大きな翠の瞳はいつも知識への渇望で輝いていた。私のいた世界にとても興味を示していて、質問ぜめに私をしては、ジュードに諌められていた。
あと三人は、後から護衛として選ばれたものらしい。
侯爵家の嫡男であり魔術家見習いのアーサー。
アーネストの弟子と紹介されたが、十二歳のアーサーの方がアーネストより大人びて見えることが多々あった。人見知りなのか、最初は私のことを快く思っておらず、いつも警戒心を露わにしていた。けれど一週間も経てば一番私に懐くようになり、少年っぽいやんちゃな笑みを端正な顔に浮かべた。
よくふたりでいたずらをしては、いっしょにみんなに叱られた。子どもらしさに溢れた彼だったけど、時折なにかを私に言いかけては、悲しげに遠くを見つめていた。
公爵家の第四子でノランの従騎士のギルバード。
私より四つ下の十歳の男の子だけれど、とてもしっかりした子だった。あくまでもビジネスライクな関係のアーネストとアーサーと違い、ギルバードは絶対の忠誠をノランに誓っていた。最初は聖女という私に対しても大げさに萎縮して、緊張しきって、いまにも気絶しそうだった。嫌われているのかと思っていたけど、ノランから聞くところによると、実は部屋に帰ってからは失礼な態度をとったと泣いていたらしい。
次第にアーサーにつられてか私と仲良くなり、特技なのだと恥ずかしそうにいって、お茶を入れたりお菓子を焼いてくれたりした。
それから、亡国の皇子だという紫陽だ。
シヨウ、とみんなには呼ばれていた。たった八歳の彼を見たとき、そのあまりの美しさに、私はこの少女(と勘違いしたのだ)こそが聖女なのではと焦ったものだ。
極東の国がエドアルドに下ったと同時に、シヨウは公爵の位を授けられたのだという。シヨウはほとんど喋らず、命ずればなんでもやったけれど、普段はぼんやりと虚空を見つめるばかりだった。
だから彼について語ることがあるとすれば、それはぞっとするくらいに綺麗な顔立ちだろう。
言葉ではとても形容できないほどシヨウは美しかったけれど、いうなれば彼は月光に照らされる白染めの花のようだった。私がそれまで想像することさえできなかったような美貌で、彼の中性的で神秘的な顔を見るたびに、これこそが美の完成形なのだと確信させられた。
三人は、おそらく先に紹介された四人にくっついて選ばれたのだと思われる。
この世界の貴族は、騎士か魔術師としての技術を磨くために、他の貴族に師を仰ぐのが通例だったのだ。だから、護衛の任についているのは、実質年上の四人だった。
出会って一ヶ月も経たないというのに、彼らのほとんどは驚くほど私に対して好意的だった。
これ以上ないほどに愛おしげに見つめられ、手を取られ、愛を囁かれる。
そんなことが毎日当たり前に起きた。
私は段々と、そもそもどうしてこんな素敵な場所から帰りたいのか、雲がかったように思い出せなくなった。
そんなハーレムの中での私のお気に入りは、やっぱり格別に華やかな美貌を持つこの国の王太子――ジュードだった。
彼だけは公務のせいで常に私の傍にいられるというわけではなかったが、帰ってくるといつもおしゃれなプレゼントを渡してくれた。ジュードは話をするのも上手く、どうしたら女性を飽きさせないかをよく心得ていた。
なにより、彼の見た目が好きだった。
あの日ベッドの上で目を覚ましたときから、ジュードの輝く金色の髪に私は目を奪われていた。それに、彼の蜜を煮詰めたかのような甘い瞳は、元の世界の誰も持っていない美しいものだった。
隅々まで洗練された彼の所作のひとつひとつを見ているだけで、一日中飽きなかった。
二番目に好きだったのは、ノランだった。
燃え盛る炎のような赤髪の騎士――ノランは、よくジュードと小さなことを賭けて競い合った。
例えばそれは、どちらか勝ったほうがその日の私のドレスを決められるだとか、ふたりきりでお茶を飲めるだとか、そういったことだった。
精悍な顔立ちのノランが、私のために主人であるジュードと剣技で競う。
それだけで、なんだかお姫様にでもなったかのような気分だった。
それからしばらく経った、ある日のことだ。
私は夢の中で、聖女がそれぞれ持つという特別な力に目覚めた。
私が目覚めたのは、『万里眼』という能力だった。千里眼じゃない、万里眼だ。
なんでそんな名前なのかは知らない。勝手に頭の中にインプットされていた言葉だから、説明のしようがない。
千里眼がどこまでも見渡せる能力だとしたら、万里眼は万能の眼。
過去と現代のどの場面、どの空間をも見通すこともでき、さらには人の思考さえもある程度見渡せてしまう。
そこで私はふいに視たくなった。前代の聖女が、どんなひとだったのかを。
前代の聖女を見たいと念じていると、神殿の部屋のひとつが頭の中に映し出された。
『おかしいのね、最近、なんだか体を動かしづらいの』
白髪混じりのブルネットの髪の、三十半ばほどの女性が弱々しくベッドの上で微笑む。
その下にある大きな紋章は、私のものと違って、消え入りそうに擦れていた。いまにも枯渇しそうな水脈、というのが正確な表現になるだろう。
『フェリックス、あなたの優しい顔が見たいわ』
悲しげにそういいながら、やつれきった女性は両手を空で動かした。
その手を優しく握ったのは、見覚えのある男性――そう、確か初日に私に聖女の役割について説明してくれた、綺麗な顔立ちの男性だ。
フェリックスというのか、と夢の中で漠然と私は思った。
『なにも心配することはない。いままでの聖女にも、こうした不調はあったらしい』
『でも、今回のはずいぶんと長引いているから……』
『きっとずっと神殿の中にいたから、息が詰まってしまったのだろう。外の空気を吸えばきっと体調もよくなる』
『いいの? 五年間、いままで一度もここから出られたことはなかったのに』と、女性は薄緑の瞳を見開いた。
『ああ、外にいる間は私が君を守る。ここから出たって、誰にも文句はいわせないさ』
『それなら、王宮へ行ってみたいわ。お城の中が見てみたい』
『君ならそういうと思っていたよ』
彼女は両手を少女のように合わせると、照れたようにはにかんだ。
それから、ひっそりと『ありがとう、あなたを選んでほんとうによかった』というと、フェリックスの肩にもたれかかった。
――しかし、王宮へ行った彼女を待ち受けていたものは、残虐な結末だった。
『ねぇ、みんなどこへ行ってしまったの? まるで見えないの。怖いわ』
煌びやかな王宮の大広間に放り出された彼女は、不安そうに辺りを見渡している。起き上がる力も、もう残っていないらしい。
だけど、見えない方がよかっただろう。
彼女の周囲には、ぼろぼろの服をまとった二百人ほどの死体が積み上がっていた。
彼女を囲うのは、既視感のある格好の人たち――そう、私が召喚されたときに目の前にいたローブ姿の男たちだ。
『もはや一刻の猶予もございません。どうにか贄の準備が間に合ってよかった』
『今回の”聖女様”はいやに弱かったな。やはりだめだ、弱い異界人は役に立たない』
『次、もし力の弱い女がくれば、そのときは天帰りしてもらおう』
不穏な会話に、びくりと彼女は肩を震わせた。
『ねぇ、なにが起きているの? フェリックス、フェリックス、助けて!』
『はい、ここに』
『ああ、よかった、フェリックス、そこにいたのね』
安堵する彼女に、彼の右手に収まる剣が見えていないのは、幸福なことだったのかもしれない。
『あなたは昨日、私を選んでよかったといった』
『フェリックス……?』
『しかし私は、あなたに選ばれてからの五年間、苦痛で苦痛で仕方がなかったよ。しかし、まあ、とりたてて美しくもない女のご機嫌取りも、今日で終わりだ。君が短命で、心から感謝しよう』
振り上げた銀に光る剣は、深々と胸に突き刺さり、彼女を床に縫い付けた。
『あああああぁぁあぁ!! 熱い、苦しい、助けて、苦しいぃっ……!!!』
もがき苦しみながら喉をかきむしる彼女は、どろりと赤く溶解したように形をなくしていく。周囲の死体たちもまた、ともに溶けていった。
その赤色の穢れた液体はやがて魔法陣を形作り、さきほどまでの凄惨な光景が嘘のように神々しく輝いた。
――そしてそこに現れたのは、私そっくりの女の子だった。
そこで目を覚ました私は自分の行く末を理解して、錯乱した。
「ユリ様、大丈夫ですか!?」
そう泣きそうにいいながら、ハーブティを入れてきたギルバードを突き飛ばし、茶器を投げつけた。
なにがあったのかとかけつけたみんなに、自分でもなにをいったかは覚えていない。わめき散らして、叫んで、気がついたら部屋にひとりになっていた。
落ち着くために水を大量に飲み、それをすべて洗面所で吐き出したころ、やっと幾分か冷静さを取り戻すことができた。
「大丈夫、私は大丈夫だ……」
鏡の中の自分に、必死に言い聞かせた。
――唯一の救いは、私の能力が万里眼であること。
そしてそれを、まだ誰にも知られてはいないことだ。
そう考えることによって、なんとか正気を保つことができた。
聖女召喚にまつわる魔導書や、過去の聖女たち、様々なものを一日かけて見て、茫漠とした情報のなかから私は知ることができた。
現世と常世、この世には二つの世界が鏡合わせのようにある。
簡単にいってしまえば、現世が、魔術の使えない世界。私たちの世界だ。
そして、常世が魔術が存在する世界。私が喚び出された世界のことである。
常世の人間と違って、現世の人間は魔力を使わない。
常世では、生きているだけで魔力を削り取られていく。
肉体の年齢だけでなく、精神の年齢というものが存在しているのだ。さらに、魔道具を使って快適な生活を送りたければ、魔術師でない平民も魔力を消費しなければいけない。
だから魔力の弱い子どもが生まれてくれば、その瞬間に殺してしまうのが親の愛だ。
常世の人間は、肉体の死を恐れない。生まれ変われることを知っているからだ。
ただ代わりに、精神の死というものを、常世の人間はなによりも恐れる。
精神の死――即ち魔力切れとは、魂の消失を指す。
それは真の死――輪廻の輪に乗ることもできず、存在が消失してしまうということだ。
だから魔力の弱い人間は、肉体の死の前に精神の死を迎えてしまうかもしれない。
それくらいならば、いっそ現世に生まれ変われることを願って、生まれたばかりの赤子を殺してしまおう。それを天帰り、とこちらの人間は呼ぶ。
さて、現世には魔導という概念が存在しない。
つまり、現世の人間は、生まれた時から使われなかった大量の魔力を、体の中に蓄積している。
そういった人間を現世から呼び寄せ、うまく騙して契約すれば、魔力を湯水のように使うことができる。この世界のどの国の文献にも見られる、周知の事実だ。
しかし、もちろんそんな魔術を成功させるには膨大なエネルギーを必要とする。
術が成功することは稀で、失敗すれば術者が死ぬ。しかも、代償に必要とされる供物はあまりにも大きかった。
どの国も、その魔術の研究を中途で諦めた。
だが二千年前、エルアルド王国だけは、極めて残忍な術でその欠点を補うことに成功したのだ。
一度異世界人を呼び出し、魔力を枯渇する寸前まで使う。
では、次の異世界人をどうやって召喚するのか?
それだけ酷使してもまだ飽き足らず、死にかけの異世界人にやらせればいい。精神の死を迎えるまで魔力を放出させ、魔法陣に流し込むのだ。
現世との繋がりが深い人間の方が、格段に術の成功率は高いうえに、魔力も豊富なのだから。
そこでエドアルド王国は、数百人ほどの生贄(大体の場合、侵略された他国の民である)と異世界人の最後の魂を燃やして、魔術を完成させることに成功した。
なんの術式かもわかっていない異世界人を魔法陣の上に立たせ、数十人の魔術師で囲ったのだ。
逃れられないよう異世界人を固定したところで、五臓六腑を熱された虫が這いずり食い破っていくような人智を超えた痛みを、魔術師たちが呪いで与える。
異世界人は、あまりの苦悶に、死んでもいいからその場から逃れたいと無意識に願い、魔術を発動させる。
次に召喚された異世界人の魔力が強ければ、また数年間魔力を引き出し続ける。
しかし、そうでなければ天帰り(隠語であり、常世での本来の意味とは違う)――数日のうちに同じ儀式を繰り返し、新たなものを喚び出す。
そうして次々と異世界人を使い捨て、エドアルド王国は無限に等しい魔力を自在に使い、他国を侵略していった。シヨウの国(名前がないのは、エドアルド国が魔術で奪ってしまったからだ)が滅んだのを最後に、エドアルド国が世界の絶対の支配者となった。
もちろん、召喚された現世人とて、私のようなマヌケばかりではなかった。
いくら報奨金や手厚い待遇を約束し、さらには最後に存在が消滅することを隠しても――契約を渋るもの、元の世界に帰ろうと反抗するもの、素直に従う異世界人のほうが初めは少なかった。
そこでエドアルド王国は、ある打開案を打ち出した。
男が来れば、あなたは勇者です。女が来れば、あなたは聖女です。そう教えるのだ。
そして、あるパフォーマンスを披露する。
見目麗しい異性を用意して、召喚されたものを囲ってみせる。
『どうかこの世界を救ってはいただけないでしょうか』
そうして、一言でも異世界人が肯定するような言葉を発した瞬間、下に隠されていた魔法陣が発動し、身体中の魔力が流れ出す。あとは、異世界人がその魔法陣の近くにいる限り、無尽蔵に魔力を引き出すことができる。
もちろん、異世界人もしばらく時間が経てば、外へ出たいだとか、家へ帰りたいだとか言い出す。
そうならないように、限りなく魅力的な異性――彼ら、あるいは彼女らは、異世界人に対して惜しみない愛を注いでくれる。
異世界人を巡って美男美女が争い、ロマンチックなドラマを繰り広げ、極上の幸せを提供する。
その役目を担うものは国の重役であることが多く、もちろん異世界人だけに手を焼いてはいられない。
だから、十人程度を初めから用意する。彼らあるいは彼女らは、最初の半年ほどは異世界人につきっきり。あとは、週に一度や二度、交代で訪れるようにする。
あのフェリックスという男がうんざりしていたのは、前の聖女がとても誠実な人間だったからだ。彼女は、複数の異性と関係を持つことをよしとせず、フェリックス一人と結婚することを選んだ。
しかし、それは逆にあの男からすれば責務をひとりで負うこととなったわけである。だから鬱憤を貯め、最後にわざわざ冷たい言葉を突きつけ復讐したのだろう。
自分から呼び出しておいて、つくづく常世の人間は勝手なものだ。
当たり前だが、私はこの時点ですっかりこの世界に愛想が尽き、どうにか逃げだす方法はないかと苦心した。そして、先人のなかに逃げだすことに成功したものはいないのか、そう考えた。
かなり目を酷使することになるが、その日のうちに私は過去を視ることにした。
そして知ってしまった。
――九十一人いた犠牲者たちの中で、逃げ出そうとしたものは、たったの三人。その誰もが、失敗していた。
よくよく考えれば、当たり前の話だ。
もし成功者がいたのなら、次の異世界人を呼び出すことに成功できない。どこかでこの残虐な儀式は途絶えているはずだ。
まず四代目の勇者の固有能力が、『分析』だった。
その人間の身分や能力が、ステータス画面のように現れるのだ。
当時、異世界人のご機嫌とりに使う美男美女は、身分の低いものから選び、王女や令嬢のふりをさせていたらしい。四代目の勇者は、自分を囲う人間のステータスを見て、すぐに嘘に気がついた。『奴隷』だとか、『農民』だとか書いてあったのだろう。
疑った彼は契約に応じず、質問ぜめにした。
魔法陣の上での契約を成り立たせるためには、条件がひとつある。嘘をついてはいけないのだ。
いままでの契約の際には、真相にたどり着きそうな質問には濁して答えていたものの、疑心をむき出しにする勇者相手にはそうもいかなかった。
なにかがおかしいことに気がついた勇者は、逃げようとした。
しかし、いかに莫大な魔力を持とうと、魔導を知らないのならただの人間。あえなく囚われ、次の魔法陣を発動させるための材料とされた。
その失敗に学び、エドアルド王国は、以来取り巻きとなる人間に、本物の王族や貴族を使うことにした。そして真相を知る者とそうでない者、その両者をその場に用意するようになった。
勇者や聖女の役割については、真相を知る者。現世へと帰る方法などについては、なにも知らない者に答えさせる。そうすれば、万が一疑われたとしても、嘘をついたことにならずに、契約の儀を完了させることができるからだ。
次に二十一代目の聖女。彼女は『予知』の力を持っていた。
それはいままで私が視たなかでもっとも強力な能力で、きっと逃げきるチャンスが一番あったのが彼女だ。
けれど不運なことに、彼女は私以上に覚醒が遅かった。一年経って予知に目覚めた彼女は、自分の死に様を見て、酷く動転した。
私だって、もしあの断末魔をあげる人間が自分だったとしたら、冷静ではいられなかっただろう。
彼女は必死に隠そうとしたけれど、秘密を知ったこと、そして『予知』の能力を持つことを悟られてしまった。
いくら真相が露見したとはいえ、エドアルド王国の者にとって先見の能力は貴重だった。だから、人質をとった。
彼女の取り巻きの中で、真相を知らずに護衛をしていた騎士がいた。彼だけは、心の底から彼女を愛し、守ろうとしていた。
自分が逆らえば彼が拷問にかけられ死ぬことを知った彼女は、結局逆らうことができずに役目を果たした。
そしてことさら魔力の弱かった彼女は、心労に蝕まれ続けた挙句、三年足らずで亡くなった。
最後は、七十二代目の聖女。彼女が持っていたのは、『千里眼』の能力。
こちらへ来てから三日ほどで目覚めた彼女は、いままでの勇者と聖女の記録を千里眼で視て、その本当の意味を知った。
彼女は賢く、演技達者だった。
表では騙されたままの聖女のふりを続け、寝ている間に千里眼の能力を使って、ありとあらゆる魔導書の文献を視た。そして七年の時を経て、魔術の才を十分に蓄えたとき、反乱を起こしたのだ。
彼女は取り巻きの中でも信用に足るものだけを選び、供とし、追っ手を次々と撃破していった。
魔力の大きさでいえば、どの勇者も聖女も凌ぐ彼女は、鬼神のごとく戦った。
しかし、エドアルド王国に復讐しようと勢力を広げている間に、彼女はめまぐるしい勢いで衰弱していった。
契約の紋章には、仕掛けがしてあったのである。あの契約に了承した時点で、いかなる場合でも紋章から離れれば、命が削られる。ついには捕まった彼女は、次の聖女を呼び出すための贄となり、協力した仲間は処刑された。
能力を酷使したことと、精神的なショックで、私は三日三晩高熱にうなされ昏睡した。
けれど、私は日本へ帰ることを諦めなかった。
ひとつだけ、私が千里眼の聖女と異なる点があったからだ。
それは、嘘の名前を教えたことと、契約の際に発した言葉。
――帰る目処がたつまで、そう私は言ったのだ。
無意識のうちに、私は名前を明かさなかったことにより紋章の拘束を緩め、かすかな条件を捻じ曲げた。つまり、元の世界へ変える方法を見つけたとき、私は契約の呪いから解放されるのだ。
それに、私は魔力の量が甚大だった。
現世の人間でも、ことさら魔力の強い人間がいる。
通常、ひとの魂はこの二つの世界――現世と常世を転生して回る。
そのとき、もし偶然にも何回も何回も繰り返し、現世の方だけに転生することがあれば。そのときは、使われなかった魔力が、どんどん魂に溜まって行くこととなる。
万里眼で知り得たことだが、私の魂は二十三度現世だけに転生している。それは千里眼の聖女さえ上回る回数だった。
――時間の猶予はある。
だから焦らず、堅実に、現世へ帰る方法を探そう。
逸る心を、そうなんとか押さえつけた。
それから私は、元の世界へ帰ることだけを目標として、生きた。
熱がさめて、目を覚ましたとき、なにか能力に覚醒したのではないかとジュードに聞かれた。
『聖女』の存在の真相を知る彼からしたら、私の能力によって然るべき処置を取らなければならなかったからだろう。その瞳には不安の影が揺れていた。
万里眼の能力は非常に多彩だ。他のいくつかの能力を併せ持っているのに等しい。
だから、なにか無難な能力を持っているふりをしようと私は考えた。
私は強すぎず弱すぎない『夢見』の能力を手にいれたと嘘をついた。
夢見は過去にあった出来事や場面、さらには未来を視られるというものだった。しかし、その能力は非常に不安定で、なにを視るかは自分の意思で指定できない。内容もぼんやりとしていて、本当の夢と区別もつかないゆえに、ほとんど占いのような精度なのだ。
ジュードはあからさまに安堵したようだった。
万理眼で見える彼のオーラが、柔らかい色に戻った。
魔力の強い私を天帰りさせるのは、どうやら惜しいらしかった。夢見ならば、真相に辿り着くことはないと思ったのだろう。
聖女をいかにうまく操ることができるか、それは彼の手腕の見せ所。
つまり王太子としての地位を守れるかに大きく関わってくるのだろう。
そうしてひとまず安寧を手にいれた私は、ありとあらゆる様々な文献を当たって、元の世界へ帰る方法を探った。けれど、確実に安全に帰れると確証を持っていえるだけの魔術は、見つからなかった。
当然だ。仮にあちらの世界へ転移する魔法があったとする。その魔術が成功だと証明するためには、その術者がもう一度転移してこちらへ戻ってこなければならない。
常世の人間でそれだけの魔力があるものなど、そもそも存在しているのかすら怪しい。
さらにいえば、そういった希少な魔術は、口伝によってのみ継承される。
私の万里眼がいかに優れていようと、そんなものを探し出すのは難しかった。
少なくとも五年はかかるということを、私は覚悟しなければいけなかった。
それまでに、私の命が尽きるのが早いかもしれない。あるいは、私がうっかり口を滑らせて、本当の能力が露呈してしまうか。
そしたら、あの前代の勇者や聖女たちのように、地獄の業火に焼かれながらその存在さえ消えていくのだろう。
しかし、そんな気が狂いそうになる恐怖よりも、もっと恐ろしいものがあった。
――それは、自分の心だった。
偽りとはいえ、優しくされれば嬉しかった。
他に話す者もいない状況で、彼らだけが光のようにさえ感じることもあった。
日が経つにつれ、ゆっくりと懐柔されていく自分を自覚せざるを得なかったのだ。
私は、復讐することにした――自らを戒めるためにも。
私はこの神殿から出ることができない。
だからひとり狂いそうになり、差し出された手にすがりたくなってしまう。
――ならば、彼らもまた狂えばいい。
私だけでなく、彼らもここから出られなくしてしまえばいいのだ。
表向きには、私は聖女。神に近しいほどに尊い存在なのだ。
だから私はジュードや、他の男たちが外に出ようとするたびに、喚き叫んだ。夢見で悲惨な未来が見えたのだと、嘘をついて。
きっと彼らも知っていたことだろう、私が彼らをそこから出したくがないばかりに虚言を吐いていたのだと。しかし喜ばしいことに、私はとりわけ魔力の強い人間だった。それはもう、面倒だからといって天帰りさせてしまうのが惜しいほどに。
逆らうこともできず、外界から接触を断たれた彼らは、日に日に疲れていった。
私は彼らと同じことをしたまでだ。
神話でだって、神はなにかと交換でひとを助ける。ならば、私だって供物くらい望んでもいいだろう。私が奪われたのと等しい時間を、彼らから奪っただけだ。
――とはいえ、私にも迷いはあった。
三人、真相を知らずに、私を聖女だと信じて仕えている人間がいたのだ。
騎士のノランと、辺境伯の息子のギルバード、それから、たった八歳の少年――紫陽だった。
そもそも王宮魔術師と、王宮騎士は折り合いが悪い。
この”聖女”の存在の真相を知っているのは、一部の王族と王宮魔術師だけなのだ。
だからノランとギルバードは、心の底から私に敬意を払っていた。
しかし、解放してやる気はさらさらなかった。
ノランとギルバードは、知らないうちにとはいえ、聖女の恵みを享受してきたのだ。
彼らの家が栄えたのも、他国を侵略して多大な富を手に入れることができたのも、異世界人の犠牲あってのことだ。だから逃がしてやる気はなかった。
まあ、それでも、ひたむきに私を信じ、仕えてくれる彼らには少々良心の呵責を感じたものだが。
――しかしシヨウは、この国の人間でさえなかった。
彼は滅ぼされたばかりの極東の国の皇子だった。
むしろ、異世界人を召喚したせいで苦しめられた人間だ。
エドアルド国が最後にたどりついた、シヨウの故郷。
皇族の血縁者が次々と自刃したなか、彼が最後のひとりだったのだという。
シヨウの国のものを従えさせるには、表面上とはいえ皇族を立てておくことが必要だった。
皇族が途絶えれば、シヨウの国の民が自棄になる可能性もあった。エドアルド国も、さぞ扱いに困ったことだろう。
そのとき、ちょうど私が呼び出された。
私の東洋人のような容貌をみたエドアルド国の人間は、もしかしたらシヨウが使えるかもしれないと思った。私が同族でなければ愛さない人間である可能性を考えたのだろう。
それに、外界から隔絶された神殿は、面倒な皇子を追いやるにはうってつけの場所だった。
シヨウは、そうして私のもとへと送られたのだ。
身の回りの世話を任せていたものの、死人のように口を閉ざしている彼が、いったいなにを考えているのかはわからなかった。
捕虜となった彼は、精神的拷問を施す魔術によって、とっくにその心を破壊されてしまっていた。そうでなくても、家族が自刃するのを見てしまったのだ。
シヨウの心は、もうとっくに死んでしまっていたのだ。
それでも、シヨウがここにいるべきではないということはわかっていた。
もしかしたら、いずれ精神が生き返るときがくるかもしれない。けれど、そのときシヨウのいるべき場所は、少なくとも神殿ではなかった。そこでは、八歳の少年に、ろくな教育も経験も与えてやることができないのだから。
私が生きている間はちゃんとそれなりの待遇を保証するから、ここから出ていってもいい。そう言っても、彼は一向に頷かなかった。
魂が抜かれた、ただ美しいだけの陶人形のように、私の話を聞いていた。
次第に苛立ちを覚えた私は、自分のやっていることがバカバカしく思えた。
明日は我が身も知れぬ私が、どうして他人のためにそこまで心を砕いてやらなければならない。勝手にしろと思い、彼の存在はそれからほとんど失念していた。
そうして召喚されてから一年ほど経った日、私は酷い高熱と目眩に襲われた。
息もできないほどに苦しくて苦しくて、指先一つ動かすことさえ億劫なほどだった。
大丈夫か、私がついている、というみんなの励ましの声が聞こえた。
朦朧としながらも、私は万里眼を使った。
それで精神を消耗してしまうことはよく心得ていたが、誰かがこの神殿から逃げてしまったのではないかと、不安でたまらなかったのだ。
そして、私は視た。
ジュードが美しい令嬢と外に出かけているのを見た。
ノランが騎士達と楽しそうに稽古をしているのを見た。
アーサーがレストランで友人達と食事をしているのを見た。
フィリップが自分の領地の街を歩き、道ゆく人々と会話するのを見た。
ギルバードが家族と時間を過ごしているのを見た。
アーネストが魔術の教師と話しているのを見た。
許さない。私を置いていくなんて、許さない。
私からすべてを奪っておいて、私を見捨てるだなんて。
朦朧とした意識のなか、自分に魔術の糸のようなものが繋がっているのを感じた。
辿ってみて、やっと気がついた。王宮魔術師であるフェリックスが、私に対して呪いをかけていたのだ――それも、真相を知る四人に頼まれて。
ただの病気でないことはわかっていた。
私はこの世界においては、無敵に近い存在。病気になど、そもそもなるはずもない。
他国の呪術攻撃かとも思ったが、それにしては強すぎる。
けれど、やっと納得がいった。道理で強力なはずである。私自身の膨大な魔力を使って、私を呪縛しているのだから。
どうやら、外へ出ないでと喚く私は、一時的なヒステリーによるものだと思われていたらしい。
しかしあまりにも治らないので、さきにジュード達の方に限界がきた。だから定期的に私を病気のような症状にして、その間に外出させてしまおうということだ。
三日もすれば私の症状も収まり、彼らも帰ってくるのだろう。
――だけど私は、一秒だって彼らを手の外に出すつもりはなかった。
最後に残った力であと一度万里眼を使い、自分の部屋を見た。
滑稽なことだ。
あれだけ優しく自分の名前を呼ぶ彼らの声が聞こえるというのに、私はひとりベッドの上で苦しんでいた。
来たばかりの時はあれだけ魅力的に映った広い豪奢な部屋で、死にかけの芋虫のようにもがいている。
血の気の引いた顔は気色が悪いほど蒼白で、びっしりと玉のような汗がついていた。
ベッドの隣にあるテーブルに、小さく切りわけられたフルーツと、果物ナイフが置いてあった。
冷静な判断ができないまま、こうすれば彼らも戻って来ざるを得ないと――私はナイフで腕を切りつけた。
力の加減ができなかったせいで、動脈を切ってしまった。
あふれるように血がどくどくと流れ出ていった。
ベッドを染めていく赤色の血は、床の紋章にも垂れた。すると、紋章は糧を手に入れたかのように、薄気味悪く輝いた。
ああ、このまま死ぬのだろうとさすがに理解した。
なんてバカな死に様だ。だけど、もはやそれさえもどうでもよかった。こうすれば、彼らは戻ってくる。そのことしか頭になかった。
意識を失う寸前、皿が落ちて割れるような音が近くでした。
結局、私は生き延びた。
どうやったのかはわからない。起きたら医者がいて、腕の治療をしていた。
ジュード達は、すぐに神殿へと呼び戻された。いなくなった理由をなにやら言い訳していたが、もちろん聞くつもりはなかった。
私は、さらに狂った演技をした。
誰かが外へ出たい、そう一言でもいえば自傷してみせた。ついには喉に刃を当てた。そのうち、誰も外の世界のことは話さなくなった。
ジュードやフィリップは、なんとかして欲しいと家にかけ合ったらしい。
しかし当然、過去にないほどに膨大な魔力を持つ私と、優秀とはいえたくさんいる跡取りたちのひとりでは、優先順位が違った。
数ヶ月手紙で交渉した後、ジュードが失意のままペンを握った手を落とし、すべてを諦めたとき、笑い出さないようにするのが大変だった。
前までは、神殿の中にいれば私も文句はいわなかった。
けれど、彼らが出て行ったその日から私は、自分の部屋から出ることを誰にも許可しなくなった。
寝具は私の部屋に運ばせ、食事も私が部屋から出て受け取ったものを食べた。
そうすると、なんだか自分が自由な人間に思えた。
少なくとも私は神殿のなかを好きに歩き回ることができたが、彼らは私の部屋からは出られなかった。
最初は、激しい憎悪を向けられた。
アーネストやギルバードは、私に対する軽蔑を露わにした。
一番心がささくれだっているはずのジュードは、意外にも表面上はなんとかうまく取り繕っていた。
もちろん、逆らうものをそのままにはしておかなかった。
ちょっとでも棘のある発言をすれば、なら私を現世へ帰してみろと鼻で笑ったみせた。そうすると、だいたい相手は口をつぐむしかない。口喧嘩が発展して殴られそうになることもあったが、そういうときはジュードかシヨウが止めるか、私が魔術で返り討ちにしてあげた。
不思議なことに、三ヶ月も過ぎれば、彼らの態度は軟化していった。
私の気を引きたい、私に見て欲しい、私に褒められたい。そんな素ぶりさえ見せるようになったのだ。
だから、お利口にしていたひとには、特別に私が部屋の外へと連れ出してあげることにした。もちろん、神殿のなかにある他の部屋に行けるだけだ。
そうすると、大げさに彼らは感謝してみせた。
外へ行けるのではなく、私とふたりきりの時間が過ごせるのが嬉しいのだと。
病気なんじゃないかと、そのとき私は思ったものだ。
二年も経てば、当たり前だけれど、彼らはみな社会的地位を失い始めた。
ジュードは王太子じゃなくなったし、貴族の嫡子だったものも、そうでなくなった。
そう教えてあげても、とくに取り乱すことはなかった。
――それどころか、ジュード達は国を裏切った。
聖女を呼び出すとはどういうことなのか、真の目的はなんなのか、それを洗いざらい話し、懺悔してくれたのだ。
もちろん私はすべて既に知っていたことだけれど、衝撃を受けたような演技をしてみせた。
そしてしばらく時間が経ってから、許すといってみせた。すると、私は聖女なんかじゃないのに、彼らは跪いて感謝を表した。
そこで真相を知ったギルバードとノランは、私は心根から美しい聖女だと主張した。
それだけのことを知りながら、自分たちを許すのだから、と。
いつかこの国を滅ぼそう。もし私が現世へ帰るのなら、どこまでも付いていこう。
そう誓う彼らに裏があるのではないかと疑ったけれど、万里眼で見たところ、彼らは本心で私を敬愛しているようだった。おかしな話である。
無論、私は彼らの協力なんて欲しくなかった。
たとえ真相を知らなかったとしても、ノランもギルバードも、あの日苦しむ私を置いていった。信用できるわけがない。外に出て昔の生活を思い出せば、手のひらを返して私を殺めるだろう。
――ともかく、そうして、みんなが聖女という存在が欺瞞であることを知った。
さて、誰にも恨みを向けられないのは、むしろ退屈だった。
彼らが苦悩し、呪い殺さんばかりに私を睥睨している時が、一番甘美な時間だったというのに。
そんな生活では、もちろん私は暇を持て余していた。
とはいえ人とは慣れるものだ。あり余る時間で、私はいろいろな趣味を開発していった。
例えば、ジュードに使用人の仕事をさせること。
料理だとか、洗濯だとか、床拭きだとか、王太子様である彼が一度もしたことのない下賤の仕事を押し付けた。戸惑う彼を見るのは面白かったけれど、すぐに飽きてしまった。
というのも、ジュード自身が私の注目を手に入れたから喜んで仕事をしてしまったせいで、嗜虐心が満たされなかった。それにジュードは意外にも覚えが早く、すぐに上達してしまったのだ。
もしかしたら王太子より使用人の方が、もともと向いていたのかもしれないね。
そうあざ笑っても、そうかもねと微笑むジュードの心は少しも乱れなかった。
もちろんそんなバカなことばかりを、私とてやっていたわけではない。普通に遊んだこともある。
ギルバードは相変わらずお茶を淹れるのもお菓子作りが上手だったし、私の好みに合わせて一層上達していった。
フィリップはファッションというものに精通していて、その日のコーディネートをよく任せた。
アーサーとは、相変わらず神殿の庭に落とし穴を掘ったり、ノラン(一番怒りっぽくないから、標的にした)に魔法でいたずらしたり、子どものように遊んだ。
それから、ノランやアーネストに、剣技だとか魔術だとかを教えてもらった。
本来ならば聖女に魔術を教えるのは大罪らしいのだが、そんなことすっかり忘れてアーネストは色々と教えてくれた。ノランと体を動かすのは、日毎に衰える体力をなんとかするのに最適だった。
そんななか、一番のお気に入りは、先生ごっこだった。
みんなから習ったことや、万里眼を経て知り得たこと、それらすべてをシヨウに教えるのだ。
彼はとても聡明な子どもで、たまに私には考えもつかないような質問をしてきた。そういうときはこそっと万里眼を使って、答えを覗いてみたりした。
さすがに『国家の必要性はなにか』だとか、『人間は性善か性悪か』なんて聞かれてしまうと、答えに詰まった。そういうときは、自分で頭を悩ませて答えた。
でもすぐにシヨウは私の主張の穴をついてきて、また私は頑張って考えて……それで一日終わる事もあった。
あまりに答えに困ったときは、ちょっとした復讐でシヨウに女の子の格好をさせたりなんかした。
恐ろしいほどにシヨウは綺麗で、うっとりしてしまうほどに少女の格好が似合った。
世界に一つしかない美しいお人形となったシヨウを私がぎゅうぎゅう抱きしめると、彼は少しばかり眉を顰めた。そんな仕草も可愛くて、今度は気がすむまで頭を撫でた。
無論、ふざけてばかりだったわけではない。
ジュードやノランの協力を仰いで、私は全力でシヨウを教育した。
常世の森羅万象、私の知ることすべてを、教えてあげようとした。
――しかし私は、シヨウにだけは聖女の真相を教えないように厳命を出した。
シヨウは穢れなく、綺麗に育っていた。
だんだんと心を取り戻しつつあった彼は、私のいうことだけを聞いて、私に全幅の信頼を置いた。美しいシヨウの前では、私も美しい聖女でいたかったのだ。
この世の綺麗なことだけを教えて、この神殿のようにすべての穢れを取り払った存在に、シヨウにはなってほしかった。
「シヨウはお利口さんだね」
そういって頭を撫でると、シヨウはふわりとはにかんだ。表情がない代わりに、シヨウは照れるとすぐ赤くなった。
「綺麗だし、頭が良いし、魔術や剣術もできる。だからきっと王宮騎士にだって、王宮魔術師にだってなれちゃうね」
もちろん、神殿の中にいては、どれも叶わぬ夢だ。
けれど私は、シヨウを主人公とした夢物語をいってきかせた。
やがて神殿の外に出たシヨウは、エドアルドの王女様に一目惚れされて結婚したり、神話上の怪物と戦って国民の英雄となったり、世界の覇者として君臨したり……ともかく輝かしい功績と栄誉を手にする。
そんな空想をシヨウに聞かせているときが、一番自分が自由に感じた時間だ。
「私は……ユリ様のお傍にいたいです」
だけどどんなに煌びやかで楽しい外の話を聞かせても、シヨウは小さな頭を振ると、ぽつりと漏らした。
私はそうシヨウがいうと知っていて、それでもその度に胸のうちが暖かくなって、シヨウをぎゅうっと抱きしめた。
しかし、あからさまな贔屓のせいか、シヨウは他の者たちから煙たがられるようになった。
毎日授業を四時間も取れば、それだけ他の者たちは私のいない部屋で過ごすことになる。シヨウの性格の問題ではなく、単純に嫉妬によるもので、嫌がらせされていたらしかった。
とはいえ、ノランとアーネストだけは、シヨウを弟分のように可愛がっていた。
才能に愛された彼は覚えが早く、しかも素直なので、いろいろと教えるのが楽しかったのだろう。
「シヨウ、お前のいた国って、どんな感じだったんだ?」
ある時、ノランとシヨウが会話しているのを偶然聞いた。
「……そんなことを知って、どうするの。行けないのに」
精悍な顔立ちに、ノランは苦笑を浮かべた。
困ったような、悲しいような、そんな人間らしい複雑な笑みだった。
「大切な人間のことは、理解したいと思うだろ?」
「大切?」
「ああ、好きなひとのことは知りたい。そう思ったことはないのか」
シヨウは、首を傾げた。
いずれお前にもわかるさ、とノランはぐりぐりとシヨウの頭を撫で付けた。そして、
「好きっていうか、まあ、俺にとってお前は弟みたいなもんだからな。その怪我だって、どうせアーサー辺りにやられたんだろ? なにかあったら、相談しろよ」
まさか怪我まで負うほどに嫌がらせされているとは知らなかったので、驚いた。
しかし、授業をやめるかと後日聞いても、シヨウは静かに首を振った。有無を言わせない、頑なな態度だった。
それならばと、私は気にせず続けることにした。
べつに誰と誰が仲が悪いだとか、そんなことは私にとっては瑣末なことだった。
彼らは――所詮シヨウさえも、私の暇をつぶすための道具であって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
召喚されてから五年の月日が経ったとき、私はだんだんと元の世界のことが思い出せなくなっていった。
とてつもなく、怖かった。夜に帰り道のわからなくなった子どもみたいに、不安になった。
そういう時は、ジュードの出番だった。
「ユリ、大丈夫だよ。君が望むのなら、どんなことだってしよう」
「本当……?」嘘だと知っていても、そう返した。
「ああ。私が君の傍に居られるのなら、なにも惜しくはない。君を現世へ返すことだって、エドアルドに盾突くことだって」
夜に添い寝してもらいながら、彼は一晩中背中をさすってくれた。
そんなことをしばらく続けていたら、ジュードが王宮へ手紙を書いてくれた。
次の週には、私が異世界へ来るときに持っていたカバンが返ってきた。いっしょに来ていたとは知らなかったので、それは僥倖だった。
「また他のものに気を取られちゃうけど、いいの?」
戯れに聞くと、ジュードは甘い顔立ちを綻ばせて、「それが君の幸せなら」と答えた。ジュードは感情の機敏が穏やかすぎて、面白みに欠けているな、と思ったのを覚えている。
それから、部屋を出てひとりになった。
カバンの中にあるものを手に取り、触っているうちに、なんだか無性に泣きたくなった。
その日なにげなくカバンに入れていた飴玉や、駅で配られたポケットティッシュ。そういったものを撫でていると、すべてが悪い夢で、私はまだ十四歳の少女なのではないかと、そんな気がしてくるのだ。
ひとしきり涙をこぼしたあと、私は感嘆の声を漏らした。
喜ばしいことに、カバンのなかには父のタブレット型コンピュータとソーラー充電器が入っていたのだ。
あの日すっかり忘れていたけれど、母に会社の近くまで行くなら届けて欲しいといわれていたものだ。
恐る恐るボタンを押すと、なんとまだ動くことができた。
中には大学レベルの専門書や、ビジネス書など、たくさんの書籍が入っていた。それからは、ほとんどの時間、私はひとりでそのタブレット型コンピュータを使うようになった。
現実世界に帰った時にはいったいなにになろう。
高校を卒業して、大学受験して、研究職につこうか。それとも、やっぱり父のように会社勤め?
そんなことを空想しながら、勉強に明け暮れていた。
たぶん私は、現世というものを信仰していたのだ。
究極の状況下でひとが神に祈るように、私のなかで現世は崇高で美しい存在へと姿を変えていった。
私がタブレットに夢中になったせいで放って置かれたノランたちは不満そうだった。
面倒になったので、神殿の中なら好きに出入りしていいと許可して、部屋も分けることにした。たまに夜に寂しくなったら、誰かを呼ぶくらいだった。
しかし、それでも彼らは昼も私の周りをうろうろとしては、気を引こうとした。
一言命令すればどこかへ行ったからそこまで鬱陶しくはなかったので、放っておいた。
シヨウの授業だけは、きちんと続けた。
毎日決まった規則でなにかをするというのが、私にとって時間の経過を知る唯一の方法だったからだ。それに、シヨウの傍にいることは、私も好きだった。
「あなたの生まれた世界のこと、教えて欲しい」
あるとき授業中に、そんなことをシヨウにいわれた。
十四になったシヨウは、わずかながらも自分の感情を主張するようになっていた。
だけどまるで禁句のように誰も口にしなかった私の世界のことをいわれ、どきっとした。そしてそのとき始めて、あんなに小さかったシヨウが私の背を追い越そうとしていることに気がついた。
変化があったのは、体軀だけではない。
菫色のガラス玉のような瞳だけはそのままに、少女のような顔立ちは、研ぎ澄まされた美しさに取って代わられていた。
ジュードやアーサーのような華やかさや、ノランやギルバードのような男らしさはなかったが、不思議と目を離せない魅力があった。
例えるのならば、澄み切った月が薄い肌を透かして輝いているかのような、そんな静謐な美貌だった。
いままで一度たりともシヨウに手を出したことはなかったが、ふと思い立って、彼の頬に手を伸ばした。抵抗されなかったので、そのままくちびるを重ね合わせてた。
シヨウはただただ受け入れていた。
瞼を下ろしていたから、あの綺麗な瞳が見れないのは残念だったけれど、代わりに長い睫毛が間近で見られた。緊張しているのか、かすかに震えていた。
体を引き離すと、シヨウをもう一度まじまじと見てしまった。
なぜいままで気づかなかったのか不思議だった。彼はすっかり成長していたというのに。
「どうして、突然そんなこといいだしたの?」私はやっと本題に戻った。
「知りたいから」
答えになっていなかった。
けれど、シヨウはもともと口数の少ない子だったので、気にならなかった。
それにどんな理由をいわれても、現世のことを話すつもりはなかった。
「髪伸びたね。切ろっか」
艶やかな濡れガラスの髪が、まだほっそりとした首に絡まっていたので、聞いてみた。
唐突な提案だったけど、シヨウは頷いた。
私はこちらへ来てからというもの、気まぐれで感情的だった。気分によっては返事をしなかったり、まるで関係のない話を始めたり、ともかくわがままな態度を貫いた。
だからなにかを聞いて肯定の言葉が返ってこなければ、シヨウ達は自然とそれを否定と捉えているようだ。
適当に短く切りそろえただけで、シヨウの髪は元が良いからか様になった。端麗な顔がより強調されて、私はその結果に大変に満足した。
「うん、短い方が似合うね」
指通しのいい髪をひとふさ摘んで弄んでいると、シヨウがかすかに身じろいだ。透き通るように白い肌に、朱色が差していた。
一瞬だけこちらを振り返ったシヨウの菫色の瞳は、切ないような、それでいて浮かされたような熱を孕んでいた。
シヨウにもそんな気があるのかと、驚いたものだ。
ジュードたちと違って、シヨウとは一度も褥をともにしたことはなかった。出会った時は八歳の子どもだったし、五年経ってもたったの十三歳――私が召喚されたときの年齢より若い。さすがに欲情したことはなかった。
けれど、あと五、六年もすれば、彼はさらに美しくなるだろう。その時が楽しみだと、そう思った。
――しかし、そんな日が訪れることはなかった。
私はあくる日、シヨウを神殿から追放したのだ。
その日の授業は、いつも通り滞りなく終わった。
私は自分の現世のカバンをたまたま持っていて、それを部屋に置きっぱなしにしたまま、誰だったかに呼ばれて外に出た。
部屋に戻ったら、シヨウは私のカバンを持ち上げて、熱心に眺めていた。ただそれだけだ。
――だが、たったそれだけのことが、私には許せなかった。
いつしか私は、現世のことをどこか神聖なものとして見ていた。
この暗く終わりのない道を進んでいくための、唯一の灯火が現世の存在だった。
私にここ以外の居場所があったのだと、そう証明できるたったひとつのものが、そのカバンだった。
常世の人間がそのカバンに触れたことによって、尊いなにかを永遠に穢されたかのような、そんな妄執に私は囚われたのだ。
ぐちゃぐちゃな心をそのままぶつけるようにして叫んで、喚いて、シヨウを神殿から追い出した――二度と帰ってくるな、そう最後に言って。
その日のことはほとんど思い出せない。
でも、シヨウが最後の瞬間、途方もなく傷ついた顔をしていたのは覚えていた。親から見放された子どものように。
だけどすぐに私のことを憎むようになるだろう。そんな確信があった。
外の世界を知れば、いかにこの閉ざされた神殿が狂った場所だったか、自ずと気がつく。そのとき、私がしてきたことのすべてを軽蔑し、憎悪するはず。
シヨウがいなくなって、それで私が自分たちを少しでも見てくれると、他の者達が喜んでいた。
ノランとアーネストだけは、咎めるように私を見たけれど、なにもいわなかった。
一言でも不平を漏らせば、彼らも追い出していただろうから、それで正解だろう。
誰もが、神殿から追放されることを忌避していた。
私に見放されることを、死よりも恐ろしいものと考えていたらしい。
――滑稽極まりなかった。
四年前までは、出たくて出たくて仕方がなかったであろうこの神殿。
だというのに、いまや、ここから追い出されることを、まるでアダムとイヴが楽園から追放されることのように捉えている。
私の身の回りの世話係は、シヨウがいなくなってからは交代制となった。
かすかな寂しさはあったが、だからといってなにか変わるわけではなかった。
むしろ、私の気は少しばかり楽になったかもしれない。
シヨウの瞳を見ていると、私は不思議な感覚に囚われることがあった。
懐かしい故郷を見て胸がしめつけられるような、それでいて、もうけっして戻ってはこないないかを見させられるかのような。苦しいはずなのに、その感覚にずっと陥っていたいと、なぜかそう思わさせられる――とても奇妙な感情だった。
こちらへ来てからもうすぐ十一年になろうとしてた、ある日。私はついに元の世界へ帰る方法を見つけた。
万里眼でどれだけ探してもなかった現世への渡り方を、誰かがつい数日前に書き留めたメモに見つけたのだ。
必要な条件は、三つ。
ひとつは、そこに描かれた魔法陣を展開すること。それは私の万里眼の能力で、脳内に出してしまえば、さほど難しいことではなかった。
ふたつめは、膨大な魔力を用意すること。それもまた、私の潤沢な魔力を持ってすれば易いことだった。
けれどみっつめ――過去に百年以内に現世と繋がった場所で、術を執り行うこと。これが厄介だった。
私が知る限り、エドアルド国の王宮のほかに、術を執り行える場所はない。
それはつまり敵陣に乗り込むということで、なるべく避けたかった。
万里眼を使って、他の場所を探そうとも考えた。
だが、それには時間が圧倒的に足りなかった。私が現世に帰る方法を見つけたことで契約が解消され、床の紋章が消えたのだ。逆説的に考えれば、私が見つけたメモに書かれたこの方法は、確実に現世へと帰られるものだということだ。
しかし同時に、紋章が消えたということは、エドアルド国からすれば井戸の水がせき止められたようなものだ。すぐに、私が逃げようとしていることに気づかれてしまうだろう。
もはや一刻の猶予もなかった。
私は万里眼の能力を使って頭の中で転移陣を展開すると、すぐに魔術を発動させた。
そして、王宮の結界に引っかからない限界の地点まで転移した。
十一年ぶりに外の世界へ出ると、そこは驚きに満ち溢れていた。
どれだけ外の世界が音や匂いにあふれていたのか、すっかり思い出せなくなっていたのだ。やっと時が回り出したように、草の匂い、水の音、風の感触、忘れていたものがなにもかも蘇っていく。
調節されていない外気は冷たくて、ぶるりとひとつ身震いした。
「早く、早く王宮へ行かないと……でも、どうやって?」
逸る気持ちが、自然と口をついて出た。ひとりで会話をすることが、いつのまにか癖になっていたのだ。
「橋は……ないか」
そのまま王宮へ歩いていくことは、残念ながらできなかった。
大きな川が目の前に立ちはだかり、そこを渡らなければ王宮へはつかないのだ。
エドアルド国は、他国から侵略されたとき、魔術が破られても物理的に阻むことができるような位置に、王宮を造ったのだ。
夜も更けたころだったうえに、明かりになるものは持っていなかった。
ほとんどなにも見えなかったけれど、眼前の川はかなり流れが早いということは、音から推測できた。とてもじゃないが、私に渡りきることができるものではない。
だからといって、魔術も使えない。強すぎる力というのも考えもので、ここで私が魔術を使って川を渡ろうとすれば、すぐに余波が出て位置が特定されてしまうだろう。神殿の中だったからこそ、転移魔術を使えたのだ。川の前では、王宮を目指していることが明らかになってしまう。
手を打ちかねているうちに、向こう岸に王宮の兵が連なっているのが見えた。私を探しているのだろう。
いっそ戦うべきか、それとも隠れるべきか。
決心がつかないうちに、彼らは火の矢をいっせいにこっちに向かって放った。
あとからわかったことだが、それは狙い撃ちにした攻撃ではなく、神殿の周囲を炎の海で囲うつもりだったらしい。
灯油をたっぷりと含んだ燃え盛る矢が、あちらこちらに落ちた。
ひとしきり矢を放つと、兵たちは、次の場所へと移っていった。
灼熱の炎に煽られた風が、肌を包んだ。
あまりの熱さに、耐えきれずに叫んでしまった。すると喉さえも焼こうと、熱風が気管に入っていく。
焦った末に、私は川に飛び込んだ。とりあえずそこにいれば、焼死することはない。そう咄嗟に思ったのだ。
しかし、見えていなかっただけで、川の流れは荒れ狂っていた。
あっという間に、私は足を取られて溺れた。もがくことも叶わないまま、口の中に大量の水が流れ込んできた。
どう考えても、もうダメだった。だけど、諦めきれなかった。
――こんなわけのわからない世界で、死にたくない。
どれだけ怖くて痛い思いをしても、身体中が痣と傷だらけになっても、私の居場所で死にたかった。
急流に流されながらも、なにかにすがろうと腕を必死に伸ばした。
そのとき、あり得ないことが起きた。誰かが私の腕を力強く掴んだのだ。
しっかりと私を片腕に抱きとめたまま、誰か――その男は川の対岸へと進んでいった。どうやら、ロープを胴体に巻きつけてここへ飛び込んだらしい。それでも流れに逆らうのは楽ではないのか、水の力に押されてその男の胴体が軋む音と、かすかなうめき声が聞こえた。
川からなんとか上がるまで、その男が渡りきることを祈りながら、私はしっかりとした胸板にしがみついていた。
だが、ひとたび陸地へ上がってしまえば、その男は私の敵だった。
この世界に私の味方はいない。だから敵に違いない。
きっと私を生贄にするため、王宮へ連れて行こうとしているのだろう、そう判断したのだ。
激しく咳き込み、水を吐き出しながら、隙をついて男を殺す方法を考えていた。
なるべく結界の中で魔術を使いたくはない。私の膨大な魔力では、すぐに感知されてしまう。だから、懐にあるナイフを使うしかなかった。
暗がりの中、襲いかかろうとナイフを握ったとき、ふいに光が灯った。男が魔術を使ったのだ。
浮かび上がった顔に、私は息を呑んだ。
深い菫色の神秘的な瞳。研ぎ澄まされた月のような静謐な美貌。
私を助けた青年は、私が想像したシヨウの十九歳の姿そのもの――いや、想像を超えて美しかった。
「シヨウ……?」
疑問形になったのは、あまりにも私の知る彼――精巧な人形のように綺麗で従順なシヨウ――から、目の前の青年かけ離れていたからだ。
水の滴る漆黒の艶やかな髪を鬱陶しげに掻き上げる仕草には、どこか荒っぽさがあった。薄手の服が水を含んで張りついた、彫刻のように均整な筋肉のついた胸板が、乱れた息に合わせて上下していた。
女性の本能に訴えかけるような、そんな強烈な魅力がその姿にはあったのだ。
「現世に帰るんだな」
シヨウは、率直にそう聞いてきた。
その声にはなんの感情もなく、ただ事実を確認するためのもののように感じられた。
「帰るよ。そのために王宮へ行く。邪魔するなら、シヨウとは戦うことになる」
ゆるくかぶりを振ったシヨウは、「邪魔立てする気はない」とはっきり否定した。
「王宮へ行くなら、案内が必要だ。いまなら兵も出払っている」
相変わらず言葉足らずなのには呆れるが、味方をしてくれるつもりらしいというのはわかった。
確かにいまなら私を探しに兵を動かしたところだろうし、王宮はもぬけの殻だ。だが、
「おかしいでしょ。なんでシヨウが助けてくれるの?」
端正な顔立ちに、シヨウはあからさまに苛立ちを露わにした。
ずいぶんと感情を表に出すようになっていたので、素直に驚いた。瞼を閉じれば、あのなにを言っても小さく頷いていたシヨウが浮かんでくるというのに。
「信用できないなら」
そう言葉を区切った瞬間、シヨウの足元に紋章が現れる。
複雑な魔術を使う時には、大抵の人間は魔法陣を描いてそのうえで発動させる。しかし、修練を積んだ魔術師ならば、構造を理解している魔法陣を頭の中で描き、床に転写させることができる。
私の万里眼が非常に強力な能力である理由も、いちいち魔法陣を覚えずとも、いつでも頭の中に展開させることができるためだ。
しかしそんなものに頼らずとも、なんの魔術をシヨウが描いたのかは、簡単に読み取ることができた。
忌々しいまでに見慣れてしまった、その紋章は――契約魔術の印だ。
「あなたが帰ることができなければ、俺の存在は消滅する」
呆気にとられて、声も出なかった。
契約魔術は絶対なのだ。どうやっても、覆すことはできない。だからこそ、規格外の力を持っていた異世界の人間でさえ、抵抗できなかったのだ。
「シヨウ、おまえ、なにを考えているの……」
シヨウは返事をせずに、傍に置いてあった剣を持ち上げると、腰に巻き付いていたロープを切り落とした。
痛々しい傷が見えて、思わず私のほうが呻いた。縄に締め付けられ肌が裂けてしまったのか、服に血が滲んでいた。シヨウは顔をしかめた私を一瞥すると、魔術を使い、傷口を塞いだ。
「時間がない。ユリ、行こう」
逞ましい腕に引き上げられ、歩かされる。
ともすれば転びそうになる足場の悪い道を、シヨウは私を支えながらしっかりとした足取りで先導していった。
ユリ、行こう――か。
粗雑な口調になったものだ。それにさきほど、シヨウは自分のことを”俺”と呼んでいた。
ふいに、なんだか全然知らない人間が前を歩いているように感じた。
「なんかいまのシヨウ、可愛くないな……」
半分は嘘だ。可愛くはないが、目を離せない色香はあった。
嫌味のつもりでいったが、シヨウは黙々と歩いていくばかりだった。
本当に知らない男のようだと思った。
だけど、時々ちらりとこちらの様子を確認してくる紫の瞳を見ていると、やっぱりシヨウなんだな、とどこか安心した。
ただ歩いていても気詰まりだったので、ぽつぽつとこれまでのことを聞いてみた。
シヨウは、淡々とそれに答えた。
前よりもずいぶんと受け答えのできるようになっていて、感心した。
私に追い出されたシヨウは、剣術や魔術での優秀さを認められ、あれから従騎士になったらしい。
辺境の属国が起こした反乱を鎮圧する戦で数々の武勲を立て、十六の時には王宮騎士に昇格したのだという。皮肉なものだ。もとはといえば、シヨウは皇子という最上位の身分にいて、彼の国が属国に墜ちたからこそその地位を剥奪されたのだというのに。形だけの公爵の位と、王宮騎士の仕事、それだけでエドアルド国に仕えるというのだろうか。
もちろん、私には関係のないことなので、そんなことを口に出したりはしなかった。
王宮の近くへくると、シヨウは魔術で生み出していた灯火を消した。
とたん、長らく忘れていた、原初的な暗闇への恐怖を感じた。だがシヨウが固く私の手を握っていたので、努めてそれを表には出さないようにした。
「いまからは、戦闘は避けられなくなる」
「でしょうね。けど、私の魔術を使えば、ここに残っている騎士くらい余裕で倒せるよ」
「大広間へ向かえば、それでユリは現世へ帰れる。敵の殲滅よりも、目的地へ迅速に向かうことを優先すべきだ」
それは確かに正しい判断だった。
下手に騒ぎを大きくすれば、それだけ相手取る人数が増える。
――けれど、シヨウは?
シヨウは、裏切り者として殺されてしまうのではないか。
とてもではないけれど、エドアルド国は、彼ひとりでどうにかできる相手じゃない。
こちらへ来てから初めて、自分以外の人間のことを心配した。
その事実に、自分でも衝撃を受けた。
すぐに、その考えを振り払おうと、かぶりを振った。
いままで自分の為だけに考え、行動してきた。それを最後に他人の心配だなんて、馬鹿げている。
シヨウの命と自分の帰還を天秤にかけ、私がどちらを選ぶかだなんて、自明の理だ。
ならば初めから考えるべきではないのだ。
宣言した通り、私の膨大な魔力を持ってすれば、向かってくる騎士を返り討ちにすることくらい容易いことだった。次々と前方に現れる敵をなぎ倒し、進んでいった。
そしてシヨウもまた、規格外に強かった。
ひとたび彼が剣を抜けば、閃光のような剣技で敵を翻弄し、遠方の敵には器用にも魔術で対応していった。
時には壁さえ破壊して進んでいけば、すぐに大広間へとつくことができた。
あの日万里眼で悪夢のように視た残虐な光景が嘘のようにそこは美しく、煌びやかだった。
生きて帰れるのだという実感がついてこずに、不思議な気持ちだった。
その日が、考える暇もない間に過ぎていったからだろうか。十一年間に及ぶ私の抗戦が、こんなあっさりとした終わりを迎えるのが、信じられなかった。
「ユリ、早く!」
シヨウに急かされ、万里眼の能力で、魔法陣を床に映し出す。
その瞬間魔術を使えない私は、無防備だった。
一斉に襲いかかってくる騎士達を、シヨウが薙ぎ払う。けれど遠くから魔術でこちらを狙うものもいて、そうなるとシヨウは身を呈して私を庇わなければいけなかった。
「シヨウ!」
膝をついたシヨウは、しかし、静かに私を見つめた。
――自分のことはいいから、行け。
能力を使わずとも、その目がなんと言っているかはわかった。私は頷くと、魔力を紋章の中に流し込み始める。
神話のように高位な魔術なのだろう。
無尽蔵に魔力が体から引き出されて行くのを感じる。大広間一面に浮かぶ巨大な紋章に、目を焼くほどの光が満ちていく。
――途端、現世へ帰ることが途方もなく怖くなった。
十一年もの歳月を経て、シヨウはあんなに変わってしまった。
私だって、歳をとったのだ。もういまは、二十五歳。そして現世も、時とともに大きく変わったはずだ。
本当は、帰ったところで私の居場所なんてないんじゃないか。
みんな私のことなんて、忘れてしまっていて、ただ迷惑に思われるだけなんじゃないか。
――そもそも、私は本当に現世の人間なのだろうか?
最初から私の居場所はあの神殿の中だけだったのかもしれない。
あそこ以外に私の帰るところなんてないのに、おかしな妄想にとりつかれていただけで、そしていまこのままどこへ行くこともできずに、闇の中に放り出されるのではないだろうか。
一度疑ってしまえば取り留めもない考えに取り憑かれて、魔術を発動させるのが怖くなった。
足が震え、魔力を流すのを打ち切ってしまおうとした時、
「――ユリ、帰るんだろう?」
問いかけるように私を見つめる紫の瞳を、覗き込んでしまった。
その刹那、息をのむほどに美しい情景が、広がった。
満開の桜が、どこまでも連なっている。夕暮れは、金色の絵の具を伸ばしたかのような色に、空を染めている。
狂い咲いたような幻想的な桜の木の下には、楚々とした美貌の、着物姿の女性。
びゅうっと風が吹き抜け、桃色の花びらの吹雪を巻き起こす。ふと微笑んだ彼女は、我が子を迎える親のように、両腕を広げた。
その風景は私のものではないと、すぐにわかった。
シヨウの故郷。永遠に失われてしまった、彼の帰るところなのだ。
――私は、帰らなければいけない。
強く強く、そう思うことができた。
瞬く間に足元の光が増して行く。
私に向かって弓を構えた兵に、シヨウが自分の剣を投げて殺した。
「シヨウ、私、帰るね……!」
ちらりと私と合った菫色の目は、微笑んでいた。
――ああ、いやだ。こんな優しい目で見つめられていたなんて、知らなかったのだ。
……失いたくなかったな。
そう思った瞬間、私はアスファルトの道のうえにいた。
あの日、あの瞬間、私が異世界へと引きずり込まれた場所へ、帰って来たのだ。
なにも考えることが叶わず、力が抜け、その場にしゃがみこんでしまった。
誰かが目撃すれば、さぞ驚いたことだろう。
電灯が照らす深夜の住宅街の道に、純白のワンピースに身を包んだ女性が座り込んでいたのだから。
それから一ヶ月は、めまぐるしい間に過ぎていった。
あのまま家へ歩いて帰った私を、最初に出迎えてくれたのは母だった。
玄関を開けて私の顔を見た途端、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。お父さんも、弟も、泣きながら私を抱きしめてくれた。
机のうえには、私の好きな料理ばかりが並べられていた。十一年間欠かさず、その日は私の好物を作って、帰りを待っていてくれたのだという。
そう聞かされて、私も喉が張り裂けそうになるほどに泣いた。
なにがあっただとか、どこへいたのだとか、母も父も聞いてこなかった。
ただ食卓を家族として囲み、ぎこちないながらも会話し、暖かいお風呂を用意してくれた。
十一年前となにも変わらない自分の部屋で私は寝た。
どこかへ行ってしまわないか心配だといって、母は一晩中隣で手を繋いでいてくれた。
嬉しくて――あまりにも嬉しくて、どうしてか胸が痛かった。
次の日は、警察に事情を話しにいった。
十一年間失踪していた子どもが見つかったと聞き、警官はたいそう驚いていた。採血して同一人物であることが証明された私は、矢継ぎ早に質問を投げかけられた。もちろん、本当のことをいえるはずがなかった。
結局、精神的に回復するまで無理に聞くのはやめようという結論が出た。
帰りに、お父さんが私の好きだったカフェでアイスクルームを奢ってくれた。
女の子が好きそうな可愛らしい雰囲気の店に、お父さんは昔入りたがらなかった。きっといまもそうなのだけれど、我慢しているのだろう。そう思うとこそばゆくて、なんだか笑ってしまった。
いいことばかりとは、もちろんいかなかった。
すぐにメディアが家に押しかけるようになったのだ。
十一年も失踪していた少女が、生きて帰ってきたのだ。大スクープである。当然の成り行きだろう。
家族は、連日取材に押しかける記者たちに疲れていたようだった。
けれど、私の前ではそんな素ぶりを努めて出さないようにしてくれていた。
まだ私のことをこんなにも思ってくれている家族がいて、幸せだった。ずっと心配をかけてくれていたことが、申し訳なくて仕方がなかった。
だけど、どんなに母や父と私が思い合っていようと、十一年という歳月はあまりにも大きく――そして残酷だった。
夕ごはんは、毎日家族で囲った。
そのために父も仕事を定時に終わらせ、弟はなんと塾まで休んでくれることもあった。受験生なのに、である。
だけど、その時間は気詰まりなものだった。
家族の会話の中にあるリズムのようなものに、私はついていけなかったのだ。歯車が少しずつ狂っていくみたいに、話しているとちょっとずつ私だけ噛み合わなくなっていく。やがてそれに気がついた家族が、申し訳なさそうな顔になる。
誰もそんなこと思っていないと知っているのに、自分がいてはいけない存在のように思えた。
それから、なにげない生活のなかで私がする一挙手一投足に、家族が不思議そうな顔をすることがあった。
ある日、弟がたまたま私の腕をつかんだときに、とても驚いた顔をした。ずっと気になっていたので、いましかないと問い詰めてみたところ、こう返ってきた。
「なんか姉ちゃん、変に綺麗なんだよな」
なんでも、動作の一つ一つが、浮世離れしてみえるらしい。
それだけじゃなく、肌もあまりにも滑らかで、触って驚いたということだった。
それはあの神殿のせいだった。
魔術を使って清めた、最も清廉な湧き水をあそこでは生活に使っていた。香油や石鹸も貢がれたもので、比類ないほどに上質なものだったのだ。それだけではなく、神殿の中はつねに私にとってもっとも心地いい温度と湿度に調節されていた。肌が荒れることなど、一度もなかったのだ。
実をいうと、現世に帰ってから、あまり長く水道の水を使うと肌に湿疹ができたりした。
けれど私はそれを隠していた。あの神殿がまるで『正しい場所』だったというようで、嫌だったのだ。
私が傷ついた顔をしたからか、弟は焦ったようにごめんと言ってきた。
仕方がないとは、わかっていた。
弟が私にいまだ慣れておらず、姉ちゃんと呼ぶ声がすこしぎこちなくても。
だけど、すべてがどうしようもなく辛かった。
私の存在を異質に感じているのは、弟だけではなかった。
昨日の夜、私はひとりで明かりもつけずにリビングルームにいた。落ち込んでいたのである。
中学の時の友達と連絡をとって、彼らがみな社会人になっていることを知った。かたや中学さえ卒業できていない自分を、とてもつもなく惨めに感じていた。
二階から、誰かが降りてくる足音がした。
下へきたのは、母さんだった。私にも気づかず、疲れた様子だった。母さんはキッチンへと向かうと、コップに水を注いで飲んだ。
水を飲み干した母さんは、やっと私に気がついた。
「あなた、誰……?」
寝ぼけているらしい母さんは、おびえたようにそう言った。
そして相手が私だとすぐに気がつくと、私なんかよりもずっとずっと傷ついた顔になった。
――ああ、それは母さんがずっと感じていたことなんだろうなと、そう理解してしまった。
「こんな時間に起きてちゃ、体に悪いよ? 明日は用事があるんだから」
微笑んでみせた私は、ふらふらと上へ歩いてく母さんの背中を見送った。
きっと部屋に戻ったら泣くのだろう。そう思うと、また自分が大嫌いになった。
ソファにもう一度腰掛けると、窓ガラスに映る自分を見た。
見覚えのない、大人の女がそこには映っていた。
中学の制服なんて来ても滑稽であろう、親の庇護下にいるべきではない、二十五歳の女が。
知らない人間がいたように思えて、そしてそれが自分だと気がついて、背筋がぞくりと冷たくなった。
――帰ることはできない。
そう、その女が嘲笑ったような錯覚を覚えた。
「うぅっ……!」
歯を食いしばっても、うめき声が漏れてしまった。
ああ、駄目だ。
家族に聞かれたら、また心配をかけてしまう。十一年間もずっと苦しめ続けて、帰ってきてもまだ迷惑をかけるだなんて、耐えられない。
しかし私の意思を無視して、次第に嗚咽は大きくなる。
もう抑えきれそうになくなったときに、
「泣いてもいい。誰にも聞こえない」
聞こえるはずのない声が、耳に届いた。
淡々としていて、それでいて凪いだように穏やかな声。
振り返ると、それが幻聴ではなかったことが証明されてしまった。
「シヨウ!? ううっ……」
腰に襲う激しい衝撃に、うめき声を漏らす。
ソファから転げ落ちた私を起き上がらせると、シヨウは「巻き込まれてきて来た」と端的に答えた。
「なんでシヨウは、いつもいつもそう言葉足らずなのかな……?」
もっと説明しろと、低い声で苛立ちを露わにしてしまう。
そうしてもう一度話し始めたシヨウ曰く、どうやら私が来たと同時に彼も転移してしまっていたのだという。
私の近くにいたせいで、シヨウまで召喚の時に無理やり引きずりこんでしまったのだろうか。
ともかく、シヨウは姿が見えなくなる魔術を使い、そのままこっそりと帰る方法を探していたが、
「見るに見かねて出て来たってわけ?」
こくりとシヨウは頷き、「この空間をいま、外界から隔絶した」と呟いた。
確かにそうすれば、泣いても誰にも聞こえないかもしれない。しかし、それよりも聞き捨てならない事実があった。
「……おまえ、こっちでも魔法を使えるの?」
もう一度、シヨウは頷いた。
そういえば、常世の書物で見たことがある。
常世の人間が、現世の人間の魔力を求めて召喚するように、現世の人間が常世の人間を召喚することもあるのだと。
現世は魔術という存在が、世界の理によってほとんど打ち消された世界。
それは、なんでも、現世の神が魔術という存在を忌避しているからだそうだ。
しかし常世の人間は、現世の理には縛られない。
だから現世の人間は、常世の人間の魔術を求め、彼らを召喚することがある。
私たち現世の人間のいう天使や悪魔や精霊などは、そういう風にして呼ばれた常世の人間なのかもしれない。
常世の人間にとって、現世とはとても魔術が発動させやすいのだと、書物にはさらに書いてあった。
妨害する他者の魔力や結界などがない分、重力のない空間でジャンプするように、魔術が簡単に使えてしまう。
つまりいまのシヨウは、私の力を遥かに超越する存在なのだ。そう気がつくと、少し怖くなった。
「で、シヨウはどうするわけ? 帰る宛てはあるの?」
「ここでやらなければならないことがある。それが済み次第、常世に戻る」
「それって、嫌なことじゃないよね? 魔術で好き勝手したりとか、誰かを傷つけたりとか」
ゆるゆるとシヨウはかぶりを振る。
ふうん、と生返事をした私は、実際そんなに心配していなかった。
シヨウは昔から独特の雰囲気を持つ変な男の子ではあったけれど、悪事に手を染めるような人間ではなかった。
「そういえばさ、シヨウって現世に興味があるんだっけ?」
そうシヨウがいったのはずいぶんと昔のことなのに、シヨウは考えるそぶりもなくこくんと頷いた。
「じゃあ、ちょっと案内してあげよっか?」
ちょっと驚いたように切れ長の目を大きくさせると、シヨウはもう一度頷く。ふんわりと、口の端に小さな微笑みが刻まれた。
そんな提案をしたのは、寂しくて、それから単純に暇だったからだ。
シヨウがわずかな間とはいえここにいるつもりなら、相手をしてくれないかと考えたのだ。
次の日、まずは着替えさせようと、父と弟の服を引っ張り出して、シヨウを着せ替え人形にした。
といっても、シヨウは現代的に言えば百八十センチはあったので、背の高い弟の服しか合わなかった。それにしても、まったくなにを着せても似合うのだから、美形とは憎い存在だ。
女の子の格好をまたする? とからかえば、シヨウは苦しげに、「ユリの望む通りに」というのだから笑ってしまう。小さい頃がトラウマになってしまったのかもしれない。
それから、シヨウに家の中にある色々なものを紹介した。
狭い家だというのに、ひよこのようにシヨウは私の後ろを付いて回った。そしてとても熱心に、私の説明に聞き入っていた。
「この紐は、ミサンガっていうのを作るのに使ってたんだ」
中学生のときの私が嵌っていたものが、どんどん発掘されていった。
なかには、ちょっと性的な意味で際どい本なんかもあって、焦って隠した。シヨウがもう子どもじゃないとは、わかっているはずなのだけれど……。
「ミサンガ?」
「お願い事をするのに使うの。シヨウもお願い事をこめてみれば?」
どうしてもシヨウと話すときは、子ども相手のような口調になってしまう。
綺麗な形の長い指で、一生懸命シヨウは紐を編んでいた。そんなに叶えたい願い事があるのかと、思わず笑ってしまう。
「ユリ、できた」
なんでも器用なシヨウは、十分足らずで複雑に編み込まれたミサンガを完成させていた。教えてもいない編み方をしていて、びっくりした。配色まで綺麗なもので、小洒落た店で売り物として置いてそうだ。
「ひとつくらい出来ないことがあったほうが可愛いのに……」
「すまない」
小さく頭を下げたシヨウは、私の腕にミサンガを巻こうとした。
「違うよ。願い事を込めたひとがつけるの」
そういって腕を引いても、シヨウはきょとんとするばかりだった。
「なにその顔。自分のお願い事したんでしょ?」
「俺の願いは、もう叶っている」
「じゃあなんでこれ作ったの……」
呆れた声が出た。とはいえそれ以上説明するのも面倒だったし、ミサンガはとても可愛い出来上がりだったので、有り難くもらうことにした。
それからも、中にボールの入った泡立て器だとか、フードプロセッサーだとか、妙なものばかりにシヨウは興味を示した。思い返せば、神殿の中でよくシヨウに料理をさせていた。そのせいかもしれない。
一度作らせてみればとても上手で、以来ずっと任せていたのだ。
「いま考えると、酷だよね。十歳くらいの男の子が、毎食作るとか。人数も多いのにさ」
「料理は好きだった」
悪びれずにいった私に、シヨウは淡々と返事した。それから、「ユリが食べるから」と付け足す。
驚いてまじまじと見ると、シヨウはかすかに俯いている。
前と違って肌は白すぎることはなかったが、それでも赤くなったらわかってしまう。
照れるくらいならいわなきゃいいのに、といおうとして、なんだか可哀想だからやっぱりやめた。
母さんが帰ってくるとシヨウは姿を消して、ずっと料理する母の手つきを見ていた。
思わずくすりと笑ってしまった私に、「なにかあったの?」と母が不思議そうに聞いてきた。
「ううん。なんでも。ここで料理しているところ、見てていい?」
それから、ぽつぽつと母さんと話しながら、私はソファに座っていた。
シヨウは相変わらず、料理の手順を食い入るように見ていた。
母さんがする近所の人の話を、なんともなしに聞いたり、それに答えたり。ときどき、自然に笑い声が漏れた。帰ってきて初めて、十四歳の時と同じように母さんと会話することができた。
心が暖かくて、嬉しくて。
こんなにうまくいくなんて偶然かな、と思ったけど、そうではなかった。
父と弟が帰ってきても、私たちはずっと一緒に過ごしてきた家族のように、団らんすることができた。
身をこわばらせないでくつろぐ私を見て、父と母は本当に嬉しそうにしていた。
結局のところ、壁を作っていたのは私の方だったのだ。
そして今日、その一ヶ月立ちふさがっていた厚い壁を、どうしてか打ちこわすことができた。
――きっとシヨウのおかげだ、と素直に思った。
なんとなく、シヨウがそこにいたらほっとして、うまくいくことができたのだ。
階段を駆け上がり自分の部屋へいくと、シヨウが利口なわんちゃんみたいに正座しながら待っていた。
「ね、シヨウ! これ食べる?」
夕飯の余り物を、夜食と称してもらってきたのだ。
シヨウはまじまじと皿の上に適当に盛られた料理を見ると、とても綺麗な箸づかいでそれを口に運んだ。
ああ、そういえば、やんごとない身分のお方なんだった、なんて冗談混じりに思う。
「お母さんの料理、美味しい?」
なぜか食べながら、いささか落ち込んだらしいシヨウ。
しゅんとした姿に、失礼だろうと私がぶすっとしていたら、
「ユリはこういう味が好きなのか?」
「え?」
「俺はいつも、薄い味付けにしていた」
確かにシヨウは薄い味付けをしていたけど、その分繊細で味に奥行きのあるご飯だった。
もちろん美味しかったけど、実際そこまで手間をかけられない人間は、味付けを濃くした方が万人受けする味になるだろう。とはいえ、シヨウのご飯に叶うものはこの世にあるまい。
「確かに濃い味は好きだけど……」
――不安そうに揺れる薄紫の瞳。
まだシヨウがいたころの神殿での生活を、ふと思い出した。
ちょこんと座って私の帰りを待っていたシヨウ。どんな言い付けもきちんと守ったシヨウ。いつだって、一等お利口さんだったシヨウ。
――いまと少しも変わらなかった。
「シヨウってさ、私のこと大好きだよね」
くすくす笑うと、シヨウは驚いたようだった。まさか気づかれていないとでも思ったのだろうか。
静謐な夜の月のような美貌が、そうすると、なんだかあどけなく見える。
私の一言一言に振り回されるシヨウが、おかしくて、可愛くて。
漆黒の艶やかな髪に触れると、シヨウの頭を胸に抱いた。
びくりと、シヨウが小さく身じろいだ。
「ね、お返事は?」
からかい混じりにそう聞いているのに、シヨウは大真面目になんと答えるべきか考えているようだった。そして、やがて意を決したように、
「――ずっと、好きだった」
その声に込められた悲痛な響きに、私の方が驚いてしまった。
それに気づかないシヨウは、抑えきれなかったというように、言葉を続ける。
「傍に、置いて欲しい。ここで、あなたの傍に。自分が一番気に入られていないのは、ずっとわかっていた。つまらない人間だから、仕方がないのも。もう昔のような可愛げもない。だけど、あなたの何番目でもいい。かわいがってもらえなくてもいい。なにに代えてもユリを守る。言い付けは聞く、命令はなんでも果たしてみせる。だから、今度は」
言い終える前に、シヨウを突き放した。
「私の前から消えて」
私の言ったことを理解して、絶望に染まるシヨウの顔。
「消えて!」
もう一度叫ぶと、シヨウは忽然といなくなってしまった。
同時に、さっきまで胸を満たしていた暖かな気持ちがなくなる。
自分から言ったことなのに、深く傷ついて、髪をむしりたい衝動にかられた。
「最低、最低!!」
そうだ。私は、最低の人間だ。
命の恩人で、あれだけのことをしても忠実だったシヨウを、ずたずたに傷つけたのだ。
――でも、シヨウのせいで気がついてしまった。
やっぱり、この家は私の居場所ではない。
母さんとも父さんとも弟とも、もう十一年前の家族には戻れない。
さきほどあんなに和やかな時間を過ごせたのは、まさしくシヨウのおかげ――シヨウがそこにいたからだ。
どんなに頭で拒絶しても、心は常世を求めてしまう。
ユリという偽りの名で呼ばれると安堵して、落ち着いてしまう。
そしてなにより、シヨウに傍にいてほしいと、そう願ってしまう。
人の理を外れた最高の美貌と、まさしく万能のように才能に恵まれた人間が、私だけに尽くしてくれる。
実に素敵な響きではないか。
――だけど、シヨウはずっと一緒にいてくれるわけじゃない。
いずれ聖女という幻想が壊れ、私の醜さを軽蔑するだろう。
いや、とっくに気がついているはずだ。自らが無事に家に帰ること以外、なにも頭になかった薄汚い私を。
それでもこんな醜い人間についてきたのは、それこそストックホルム症候群というやつだ。
私以外に頼る人がいなかったから、私以外に優しくしてくれる人がいなかったから、私が神殿の支配者だったから。
そんな錯覚が覚めるときがいずれくるのに、もしシヨウに縋ってしまったら――そう考えると恐ろしく仕方がなかった。
「やだ、やだよ! シヨウ、私を置いていかないで……! お願い」
ああ、もはや自分でも、なにを言っているのかわからなかった。
どうしてこうなってしまうのだろう。なにを間違ってしまったのだろう。
私はただ帰りたいだけだ。自分の居場所に帰って、安心したいだけだ。
――誰でもいいのだ。
受け入れて欲しかった。助けて欲しかった。もう怖い夢は終わりだと、抱きしめて欲しかった。
「帰りたい……!」
掠れた声が漏れると同時に、
「――ああ、常世に帰ろう」
背後から伸びてきた大きな手に、口を塞がれた。
必死にもがくと、あっと言う間に手首を捕まれ、骨が軋む音がするほどに腕をひねりあげられる。
「うぐぅっ……!」
想像を絶する痛みに、思わず目を一瞬閉じてしまう。
肺に思い切り空気を吸い込むと、部屋の中とは違う、錆びた鉄の匂いがした。肌にも、湿度の高い外気を感じる。
取り巻く空気の急変――これは、転移魔法の感覚だ。
そしてシヨウのほかにそんなことができる人間がいるとすれば、思い当たるのは彼らしかいない。
「――ひと月ぶりだね」
先手を打って、そういいながらくちびるを歪めて笑う。
案の定、目を開いたらそこにいた五人は、驚きに目を瞬いている。
ジュード、ノラン、フィリップ、アーネスト、ギルバード……ということは、私の後ろにいるのはアーサーか。
「もっと焦るかと思っていたけど、相変わらずあなたはなにを考えているのかわからない」
気品に満ち溢れた笑顔のジュードが、一歩前へ出た。
しかし、ぎりぎりと腕を締め付けられている私の現状に口出ししてこない辺り、内心では怒り心頭といったところか。
『平静を保て』と自分に言い聞かせながら考えをめぐらせ、周囲に視線を滑らせる。
「どこ、ここ……?」
無骨な鉄の骨組みがむき出しな、広大なだけの建物――廃工場かもしれないと、思い当たる。
それから、ジュードたちもまた、現代的な格好に着替えていることに気がついた。どのくらい現世にいたのかはわからないが、魔術を使えばここで生活するくらいわけないのだろう。
「恐ろしく似合ってないよ、その格好も、この場所も……いっ!」
脂汗をかきながら挑発すると、腕に込められる力が大きくなる。このまま折るつもりなのかもしれない。ギリギリと締め付けられる痛みに、気絶してしまいそうになる。
「アーサー君、いまはまだ」
ジュードが微笑みながら諌めると、アーサーは力を抜いた。
その手を振り払うけど、逃げ出したところでどうにもならないのは目に見えていた。魔術を使えるジュードたちと、現世の掟に縛られる私では、持っている力の次元が違う。
とりあえず距離を取って、六人を堂々と見据える。
こいつらが私をどうするつもりなのかはわからない。しかし、だからといって怯んだら負けだ。
「まずはどうやってここにきたのか、教えて」
いまや、力関係が逆転したのだ。
神殿のなかにいたときのように、威厳ある態度を取っても滑稽なだけかもしれない。
それでも居直ると、一応リーダーを気取っているらしいジュードを睨んだ。
「現世と常世を繋いで、術者ひとり分だけの通り道を作る魔術。そんなものがこの世に存在しているとは、王太子である私も知らなかったから、驚いたよ。『千里眼』とは実に便利な能力だね」
私の能力は、千里眼ではない。
それでもかなり近くを当てられたことに動揺していると、ジュードは気をよくして話し続けた。
「でも、現世と常世は所詮相容れない存在。現世の人間も、常世の人間も、召喚の儀を行うときには、生贄を捧げる。人間や、動物をね。どうしてか分かる?」
静かに首を振る。
そう、召喚術は口伝の魔術だから、君が知らなくても無理はないね――と、ジュードは、ますます笑みを深める。
「現世の人間を、私たちが王宮で呼び出すとき、私たちはそちらの神様に対価を支払うんだ。だから、これだけの命を捧げるから、人間をひとり借りますよってね。そうしなければ、相容れない世界の理に乱され、精神の死――魂が消滅してしまう。君の存在も、そうやって常世に確定させた。当然、それでも君は現世の人間。帰るのは自由だ」
だけどね、とジュードは冷ややかな瞳で私を見つめた。
その目には、悋気のような、執着のような、底知れない影が揺れていた。
「シヨウを連れてくるのは、いささか無謀だったかな」
「え……?」
「君は対価を払っていない。それなのに、シヨウを無理やり共に連れて行こうとした。無論、たとえ現世の人間の魔力を持ってしても、そんなの失敗するだろう。だけど君は違った。シヨウに対する強い思いと、甚大な魔力で、なんと現世と常世の間に穴を開けてしまったんだ」
愛のなせる奇跡だね、とジュードは蔑み、それからなにがおかしいのか喉奥で押し殺すように笑い始めた。
その笑い声に精神が揺さぶられたように、頭がぐらぐらする。
投げかけられた言葉がわからない。
私は、自分がシヨウを偶然巻き込んでしまったのだと思っていた。まさか世界の理を破ってまで、私がシヨウを連れて行こうとしたというのか。
「君がシヨウに特別な感情を抱いていたのは知っていたよ――それが恋慕なんていう、可愛い感情じゃないことも。とはいえ、まさか、二人だけでこんな楽しそうなことを画策していたとは、さすがの私も気づかなかったよ。シヨウを追い出したのも演技だったわけだ。そうしてふたりで、ずっとこの機会を伺っていたのかな? 現世で共に生きようと、ふたりで幸せになろうと」
だけどね、とジュードはおどけて首を傾げてみせた。
「シヨウを無理矢理にでも引きとめようとする君の魔力が、現世と常世の間の通り道を存続させてしまった。だから、こうしてあの魔法陣さえ使えば、誰でも通れるようになってしまった。だからといって、私たちは、なにも酷いことがしたいわけじゃない。ただ、なにも言ってもらえなかったから、ちょっぴり拗ねているだけだ。君を無理やり常世に連れ帰ろうなんて、思ってはいないよ。安心して?」
「安心、ねぇ……。まずは、鏡の前で自分の顔を見てみたら? お綺麗な顔が台無しのやばさだから」
「かわいそうに。強がっていても、声が震えているよ?」
寒いのかな、なんて白々しく聞いてくるジュードに、身の毛がよだつ。
穏やかで、優しくて、紳士的だったジュード。
私に軟禁されても、一番平静を保っていたのが彼だというのに。いまやその冷静さは見る影もない。
「なにもあなたを傷つけたいわけじゃない。ただ、仲間に入れてほしいだけさ」
フィリップが、言葉とは裏腹にとても冷徹な声でいう。
「君が現世に止まるというのなら、僕らは君のそばにいたいだけだよ」と、このなかではまだ正気らしいアーネストが、若干仲間たちに引いた顔で続けた。
「傍にいるって、だって存在を確定させなきゃいけないんでしょ? そんなの、できるわけない!」
動悸の音がうるさい。嫌な予感に、もうこのまま死んでしまってもいいから続きを聞きたくなかった。
存在を確定させる。そのためには犠牲が必要。
そういった舌の根も乾かないうちに、なにを提案しているのだ。
しかし、私が強い眼光で彼らを睨んでも、アーサーはなんでもないことのように、
「ああ、だから供物を捧げればいい。やり方は、アーネストと俺に任せれば問題ないよ。大丈夫、すこし腹が立つけどシヨウの分もやってあげよう。私たちのような恵まれた血を持つものの対価は、君の時と同じく二百人以上は必要になる。だから合わせて、千五百人用意できればいいだけの話さ」
途方もない数の人間だ。
だが、彼らのような魔術師からすれば、いとも簡単に殺せてしまうだろう。
――こうなってしまったのは、私の責任だ。
一人でいるのが怖くて、彼らを閉じ込めたから。
どんな犠牲を払っても帰りたいと願ったから。
そのくせ、最後に不安になって、シヨウに救いを求めてしまったから。
ああ、だからといってなにができる?
現世の私は、ただの無力な人間だ。
違う。もとから私は平凡で、つまらない、中学生だったのだ。
どうして、私ばかりがこんな目に合わなければいけない。
帰りたいと願うことは、そんなに許されないことなのか。誰かに支えてほしいと思うのは、そんなに罪深いことなのか。
じわりと、目の端に涙が滲んだ。
立っている気力もなく、薄汚いアスファルトの床に座り込んでしまう。
この場に似つかわしくない優美な所作で歩み寄ってきたジュードは、私の前で屈むと、顔を覗き込んでくる。
「こんな顔をする君は、初めて見るよ」
華やかな美貌にうっとりとした表情を浮かべると、愛おしげに私の涙を舐めとった。
もはや、抵抗する気も起きなかった。
「私たちがいなければ、どちらにせよ君はここにはいられないんだ。ユリの残した魔法陣から、じきに王宮魔術師たちが君の魔力を辿って押し寄せる。他の現世の人間は、常世で存在を確定させられていないから、連れて行くことはできない。どうしたって、君が狙われる。私たちは、君を守りたいんだ。ただそれだけだよ」
ふわりと、花のような香りが広がる。
尚も涙を流し続け、震える私を、ジュードはそっと抱き寄せたのだ。
壊れ物を扱うかのような手つきで、私の体を包み込むと、背中を撫でる。十一年間、ジュードが私を慰める時にやっていた癖だ。条件反射のように、気持ちが安らぎそうになる。
くすりと笑ったジュードは、すると耳元で囁いてきた。
「――さあ、君の本当の名前を教えて?」
そんなこと、ダメに決まっている。
いま現世で魔力を使えない私がそんなことを教えてしまえば、あっという間にジュードの傀儡に成り下がってしまうだろう。
そう思うのに。止めないとと、わかっているのに。
甘い甘い蜜を煮詰めたかのような、綺麗な瞳――召喚されたばかりのころは大好きだったそれを見つめていると、くちびるが勝手に言葉を紡ぎ出す。
「わ、わたし……わたしの名前は……」
――魅了魔法だ。
そう気づいたところで、対抗する術なんてない。
魔力を少しも扱えない人間が、どうやって相手の魔術を破るというのだ。
「うん、続けて?」
すっと細められたジュードの瞳が、私の最後の理性を溶かし尽くそうとしていた、そのとき。
――頭の中で、ガラスが割れて弾けるような音が響いた。
『あなたが、現世で幸せに暮らせますように』
幻聴が聞こえた気がした。腕に違和感を感じて、目を落とす。
右手首を、淡い金色の輪が囲っていた。代わりに散り散りになったミサンガが、ゆっくりと床へ落ちていくのが見えた。
ジュードが、驚きに目を見開いている。
他のみんなも同じだ。一瞬とはいえ、なにが起きたのか理解できないという風に、動きが止まった。
――今しかない。シヨウが守ってくれた、この一瞬しか。
後ろの出口に向かって、死ぬ気で走り出す。
アーサーに押さえつけられた左腕が、涙が出るくらい痛んた。だけど、絶対に外に出てみせる。
帰りたい。私は、帰りたいのだ。
どこへ帰りたいのかなんて、もうわからない。それでも、こんな終わり方は嫌だった。
「アーネスト、アーサー、魔術を!」
ジュードが叫ぶけれど、どうやら魔術は発動しなかったらしい。代わりに私の手首の金色の輪が、さらに淡い色へと変わってしまう。
後ろから誰かが追いあげてくる。早く逃げなければ。
体が軋むように痛みを訴えてきて、息切れと嗚咽で喉は乾燥しきっていた。
それでも、扉にたどり着いた。錆びた鉄の扉に手をかけることができた。走ってきたままの勢いで、重い扉に力を入れた。
「帰れる……! 私は帰るんだ!」
しかし――がしゃんと無情な音を立てただけで、扉は開かなかった。
「さすがに僕たちだって施錠くらいしているさ……って、え、待てギルバード!」
「やめろ! ユリ、逃げてくれ!」
アーネストとジュードの焦った声と、私が扉に向かって叩きつけられるのは同時だった。
突然の衝撃に、声さえ出せない。ひゅっと喉を空気が通り抜けた。骨が折れたかのような、不穏な音が体のどこかでした。
全身のどこにも力を入れることができず、そのまま床に倒れこむ。
「ふざけるな……!」
怒気を孕んだ声。
それを発した人間が、私の髪を掴んで起き上がらせる。あまりの力に、髪がぶちぶちと音を立てた。
目の前に映るのは、獰猛な瞳で私を射抜くように見据える、ギルバードだった。
さきほどのジュードたちにさえなかった殺気に、身がすくむ。
「ふざけるな、ふざけるなよ!」
私の首を、武骨な手がぎりぎりと締め上げる。
「あなたが、俺たちを閉じ込めたくせに……! もう、俺は、俺たちはどこにもいけないんだ。あなたの傍にいるしか!! そこ以外に、居場所はないのに」
燃えるような怒りが、次第に痛々しい泣き声のように変わっていく。
対照に、骨を折らんと締め上げる手の力は強くなるばかりだった。
薄れゆく意識のなかで、ギルバードの嘆きが果たして彼のものなのか――それとも私のものなのか、わからなくなっていく。
「俺には、あなたしか……! あなたしか!」
もう私の傍以外に居場所はないだなんて、可哀想なギルバード。
きっと辛くて、寂しくて、憎くて、心臓がもがれるような苦しみを味わっているのだろう。
――それなら、もういっそ諦めてしまう方が楽なのだ。
どうせ、彼も、私も、みんなどこへも帰れやしないのだから。
視界が霞んで、抵抗していた両腕がだらんと落ちた。
「やめろ、ジュード! ギルバードを殺すつもりか!?」
ノランの焦った声も、次第に遠くなっていく。
「ジュード、待って。僕がいま魔術で止めるから――いや、ギルバード、避けろ!!」
諦めかけた瞬間、目の前にいたギルバードが吹っ飛んだ。
激しく咳き込む私の霞みがかった視界では、それしか捉えることができない。
「うぐぅっ……!」
蹲るギルバードの肩からは、どくどくと鮮血が溢れ出していく。
警戒して固まったように動かないジュードたちは、ゆっくりと剣に手を伸ばした。
――なにが起きたのかまるでわからなかった。
ジュードがなにかしたのだろうか。
しかし、それならばいまの敵と対峙しているような態度はおかしい。
やがて、緊迫しきった空気の中、呆れたようにアーネストが声をあげた。
「なんで姿を見せないんだい? シヨウ。僕たちがちょっと魔術を使えば、君の姿なんて丸見えさ。自分の魔力を無駄にするだけだよ」
シヨウ……その名を聞くだけで、泣き出しそうなくらいに安心してしまった。
しかし、すぐに目をつぶってその考えをかき消そうとする。
シヨウがここに来てくれたのか――と、一瞬でもそう期待してしまった自分が、酷く恥ずかしかった。
そんな浅ましい期待はするべきじゃない。私はシヨウに合わせる顔なんてない。いままでずっと、彼を虐げてくることしかしなかった。
「え……?」
そう視線を落とすと、力を増したように輝く金色の守護の輪が目に入った。
さっき首の骨が砕けなかったのも、ぎりぎりのところでこの輪が守ってくれたからだと、気がつく。
そして、まるで主人が来たかのように、あの私を守ってくれた金色の輪は光っている。
めまぐるしい勢いで、さきほどまで感じていた息苦しさや痛みが、解けていく――それこそ、魔法のように。
ほとんど祈るようにして、私は「シヨウ」と呼んだ。
「シヨウ、お願い……いるなら姿を見せて」
ややあって、戸惑うようにしてシヨウが現れた。
敵の視界から私を遮断するように、前に立っている。
ノランやギルバードと比べれば、体格では劣る――けれど、すらりとしながらも筋肉質な背中が、とても頼もしく思えた。
もう限界だった。その背中に、後ろから抱きついてしまう。
「シヨウ……! お願い、助けて。私、もうこんなの嫌……!! 帰りたいよ、もう怖いのはいやだよ」
シヨウは微かにこちらを振り向きながら、安心させるように弱々しく微笑むと、
「ユリ、困らせるようなことばかりいって、すまなかった。それに、こんなに怖い思いをさせるまで、見つけることができなかった」
――守るだなんていって、駄目だな、俺は。
端正な顔が自嘲するように歪み、そうくちびるが動くのを見て、声が出なかった。
どうして、シヨウはそこまでしてくれる。
どうして、なんの見返りもなく、そこまで他者に――私のようななんの値打ちもない人間に、尽くすことができるのだ。
「ああ、お前は駄目だ。ずっと結界を貼り続けていたみたいだが、一瞬でも目を離すようじゃユリ様は守りきれない」
兄貴分のような気安い態度で、ノランはシヨウを見る。
「大きくなったな、シヨウ。でもどの道、お前一人じゃユリ様を守るには、荷が重い。どうやらお姫様はお前を選んだようだが、ちょっとばかし分けてはくれないか? そうしたら、こいつらだって協力してくれる。邪魔者を消したら、常世でも現世でも、ユリ様の望むところで、みんなで暮らそうじゃないか」
「ユリはユリのものだ。その交渉には乗れない。俺はなさなければならないことをなし、常世に帰るだけだ。ここから常世の人間がひとりもいなくなれば、二度と現世への道は開かない」
シヨウの言葉には、ひとかけらの迷いもなかった。
「そうか、本当にそれでいいのか? 俺にはずっと、ユリ様もお前を気にかけているように見えたけどな。ユリ様が常世に未練がある限り、道を閉じることなんて不可能だ。もう一度、ユリ様とよく話してみたらどうだ?」
獲物の槍を下げてみせたノランを、ジュードが制する。
「無駄だよ、ノラン。あの顔を見ればわかるだろう? あの乳飲み子みたいな子どもが、あそこまでの殺気を放つようになるとはね」
ふわりと微笑んだジュードは、剣を取り出すと正中線に構えた。
「でも、ユリなら交渉に乗ってくれるかもしれない。ねぇ、ユリ?」
ゆらりとジュードの瞳が、私を捉えた。
「耳を貸すな」と、シヨウは私を後ろに隠す。
「君が名を教えて、私たちが傍にいることを受け入れるだけでいいんだ。それだけで、エドアルド王国さえも裏切って、王宮魔術師を殲滅するといっているのに」
はあ、とジュードは深いため息をついた。
「では、君が交渉に乗らなかったらどうなるか、教えてあげよう。まずシヨウ。君は、どう足掻いても死ぬ」
びくりと私の肩が跳ねたのを、ジュードは見逃さなかった。
「そうだ。私たちがシヨウを徹底的に痛めつける。まずはこの場で、あらゆる精神的苦痛と、肉体的苦痛を味ってもらう」
シヨウはそれだけ聞いても、顔色ひとつ変えない。まるで自分がどうなっても構わないというように。
それがかえって、私を不安にさせた。
「それから、君とシヨウをエドアルドに連れ帰る。もちろん君を”聖女”の役目からは解放しよう。君の魔力を使って、あとひとり異世界人を召喚すればいい。こう見えて、私は優秀でね。実はまだ、王太子の地位を剥奪されてはいないんだ。私の命に逆らえる人は、そういない。あとは、そうだね。シヨウの国の民には、地獄のような生活が待っていることを約束しよう。そこまで十分に屈辱を味ってもらったあとは、シヨウの極刑と、私とユリの結婚式を、同じ日に決行しようかな」
――シヨウ君、このプランは気に入ってもらえたかい?
酷薄な笑みを浮かべるジュード。それでも動かないシヨウ。
決断するのは、私だ。目を閉じると、必死に頭を回転させる。
シヨウが殺されてしまう未来、現世の人間を犠牲にして、ここに留まる未来。
どちらも選べるはずがない。
――なら、なら方法は初めからひとつしかなかったのだ。
耐えきれず、私の方が叫んでしまう。
「私が常世に帰る。それで聖女を続ける! もう……もうそれで十分でしょ! もう私になにも聞かないで、なにもわかるわけないじゃない!」
いっそ常世へ行って、ジュードに名前を渡してしまおうか。それでもいい気がした。
現世に帰って、なにより私が絶望したのは――とっくの昔に自分が死んでいることに気づいたからだ。
もう十四歳の私はいない。
十一年間の間に、気が狂って、どこまでも歪んだ化け物に、現世の私は喰われてしまったのだ。
だからどこにも帰れるはずがない。誰にも受け入れてもらえるはずがない。
金切り声を上げて泣き出した私に、アーネストが途方にくれたような声を上げる。
「あーもう、そういってほしいわけじゃないんだよなぁ。僕たち、そこまで鬼畜じゃないよ。みんなで常世に帰るならそれでいいけど、その場合――」
瞬間、驚きに誰もが口を閉ざした。
――シヨウが、私を抱きしめたからだ。
「ユリ、ありがとう……だけど」
そっと宝物に触れるみたいに、シヨウは私の手を包むと、自分の胸に当てさせた。
どくどくと、鐘を打つ心臓の音。
例えいまはほとんど魔力を扱えない私でも、わかってしまう。それほどに、強く濃い呪術――契約。
『あなたが帰ることができなければ、俺の存在は消滅する』
シヨウのあの言葉を、思い出す。
そうだ、私が常世に戻れば、シヨウはどちらにせよ死んでしまう。
「シヨウ……死ぬつもりなの?」
シヨウは安心させるように、微笑みを口を刻む。
月明かりのように仄かで、どこか悲しくて、けれどなにより優しい笑み。
「死なない。俺はノランたちを連れて常世に戻って、あの陣の跡を消す」
へえ、とジュードが片眉を跳ね上げた。
「すごいね。君一人で私たち六人を生かしたまま倒して、そのうえ王宮魔術師も一掃して、最後には現世へ通じる道を消すと? 属国の人間の悲壮なまでの『気高さ』には、まったく恐れ入るよ。自己犠牲を通り越して、妄想癖の域に達している」
「ああ。あんたの時は、足くらい折ってしまうかもしれないがな」
シヨウにしては饒舌に嫌味を返した。思わず、くすりと笑ってしまう。
「もはや交渉でことを勧めるのは、無駄なようだな」
諦めたようにそういったノランは、槍の鋭い切っ先を、シヨウに再び向ける。
その隣にアーネストも並び、「さて、不遜な弟子よ」とどこか晴れやかに笑った。
「エドアルドの豪傑・ノランに比肩する剣術の才」
「若き叡智の泉と呼ばれたアーネストに匹敵する魔術の才」
――そう謳われたお前が師を越せるかどうか、試してみるがいい。
そう二人は宣言すると、それぞれ戦闘の準備に入る。
ギルバードとアーサーは、それぞれの師の後ろにつくと、必要とあらば手助けできるように構えた。
「多勢に無勢は、騎士道失格なんだがな。まあいい、もとからお前は気に食わなかった」
フィリップは、ジュードの左隣に並ぶと、剣を取り出す。
これだけの敵を目の前にしても、シヨウは少しも自信を崩さない。
落ち着き払った様子で剣を構え、いつでも飛び出せるように足に力を入れていた。
誰もが全身の神経を研ぎ澄まし、気迫を切っ先のように互いの首に当てている。
まさに一触即発――そう思われたとき、不愉快な耳鳴りが私を襲った。
「うぅッ!」
鼓膜のさらに奥、まるで脳に突き刺すかのように響いてくる不快な音に、私は蹲った。
それは誰にとっても同じだったようで、みな膝をついて耳を抑えている。
さらに大きくなる、まるで空間そのものを突き破ろうとしているかのような、バリバリという音。
地が裂けるようにして、見覚えのある術の紋章がアスファルトに浮かび上がる。どろりと禍々しい真紅に染まった魔法陣が、まるで闇を放つ光のように、黒々と輝きだした。
数千人の人間の断末魔の声が、不協和音のように響く。
中には、幼い子どもの悲鳴も混じっている。
それは――魔力が足りず、代償として人間の魂を捧げたときに起こる現象。
王宮魔術師に違いないと、思い当たる。
常世の人の命さえ塵のようにしか捉えていない彼らなら、魔力が足りなければそうするだろう。
私は、なにも考えていなかった。
ただ帰りたくて、帰りたくて、その結果エドアルド国がどんな行動に出るかなんて、なにも。そのせいで誰かが犠牲になる可能性なんて、考えようともしなかった。
「ユリのせいじゃない」
シヨウがそんな思考を遮るように、私の手を握って、自分に引き寄せた。
「王宮魔術師たちだ! 構えろ!」
真っ先に態勢を立て直したジュードが、焦燥感を露わに叫ぶ。
耳鳴りの余韻のせいで三半規管がまだ狂っている。
くらくらする頭を押さえていると、気がついたら私を守るように、ジュードたちが周囲を囲っていた。
「え……」
どうして、とジュードに聞く前に、悠然とこちらに歩み寄ってくる王宮魔術師の筆頭――フェリックスが薄くくちびるを開いた。
「王太子殿下、もとよりあなた様がこの現世人を生贄にする計画に、嫌悪感を抱かれていたのは存じ上げておりました。しかし、よもや殿下が背信行為に手をお染めになるとは、国王陛下もお嘆きになられましょう」
そしてついと、ノランやアーネスト達にも、軽蔑の眼差しを向ける。
「貴殿らも、己の職務を忘れて現世の女などにかどわされるとは。エドアルド貴族のかざかみにも置けない」
「さすが師匠は出来が違う。僕の張った結界を一週間で破ってしまうなんて、ね」と、さして焦った様子もなく、感心したようにアーネストは笑う。
ふんと不遜に鼻を鳴らしたフェリックスは、
「五日だ。貯めておいた聖女の魔力は、お前達の現世渡りにほとんど費やしたからな。生贄を用意するのに二日かかった」
そう会話している間に、フェリックスの後ろで、ゆらりと黒い影が炎のように揺らめいた。
それはやがて人に形を変え、あらたな王宮魔術師達が姿を現す。
――二十人以上、ほとんどの王宮魔術師がここに集結したことになる。
「どうやら時間がないようだね」
と嘆息したジュードは仲間たちに目を向けると、
「アーネストとアーサーは、向こうから魔法陣を塞いでくれ。王宮魔術師はほとんどこちらにいるから、向こうのほうが手薄のはずだ。それからノランは二人を援護してくれ。ギルバード、フィリップ、君たちは私とともにここにいる敵を迎え討つ」
ジュードが言い終えるや否や、ノランが前へ飛び出し、それにアーネストとアーサーが続く。
「みすみす通すと思っているのか!」
王宮魔術師たちの下に、大きな魔法陣が現れる。魔法の出現に伴う激しい閃光で、私の視界は塞がれてしまった。
剣と剣がぶつかり合う音が、至近距離から響く。
見えてさえいないのに、激烈な戦いの気配に恐怖で身が竦んだ。頭を抱えるようにして、ぎゅうっと目を閉じる。少しでも戦闘から自分を遮断しようと、ただそれだけに必死だった。
常世にいたときは、なにも恐るものなどないと感じていた。
最強の聖女と謳われ、万里眼さえあれば、世界の果てまでも見通すことができた。
「ユリ……」
愕然とした声で名前を呼ばれて、目を開ける。
怯えきって身を縮める私の様子に驚愕したのか、ジュードは信じられないものを見たかのような反応だ。そして、敵と剣を交えながらも、鞘をさっと手渡してきた。
「それを持って、端のほうに隠れていてくれないかな」
ずしりとした重みを手に感じるとともに、体の周りにまどやかな光の球が現れる。
豪奢な金の装飾に、はめ込まれたおびただしい数の魔導石――召喚されたすべての異世界人の魔力を込めたものだ。
ジュードが持つ、この世でもっとも尊いとされる聖剣の鞘は、常世のどんな魔術でさえ跳ね返してしまうと云われている。これを手にしている限り、魔術の攻撃は一切効かない。
けれど、ジュードの言葉に乗せられて隠れていいのだろうか。
「シヨウ、いい?」
「ここからなるべく後ろに離れてほしい」
指示を仰ごうとシヨウに聞く。すると彼は敵を足で蹴り飛ばしながら返事してくれた。
願ってもない答えに頷くと、私は剣の鞘を握り締め、脇目も振らずに逃げた。
倉庫の端に積み上げられていたダンボールの後ろへ隠れると、しゃがみこんだ。
「大丈夫だよね……」
そう自分に言い聞かせつつも、ジュード達が本当に勝てるのかどうか心配だった。
王宮魔術師たちは、いままで私や他の異世界人たちから吸い取り貯めてきた魔力をすべて使い切ってでも、私を取り戻そうとするだろう。
「私はなにもできない。仕方ない。出ていたって、死ぬだけ」
そう呆然とつぶやきながら、耳をふさいで、目をつぶった。
なんの防御にもならないことはわかっていた。まるで子どものような、馬鹿らしい格好だった。
分かっていも、手足を震わせ、汚れた地面にうずくまることしかできなかった。
――そこからは、あまり覚えていない。
遠くで繰り広げられる激烈な命のやりとりに怯えながら、ずっとそこに隠れていた。
私には何日もそうしていたように思えたが、実際には数十分――いや、数分の間の出来事だったのかもしれない。
「ユリ様、逃げてください!」
現実から自分を引き離して、思考さえも放棄していた私は、その切羽詰まった声でやっと顔を上げた。
「あ……」
王宮魔術師の豪奢な装束に身をまとった大男が、こちらに向かって斧を振りかぶっていた。
――そうだ、とその時やっと思い立った。
魔術が効かずとも、彼らは私みたいなか弱い人間、いとも簡単に無力化できてしまうのだと。
血に濡れた凶悪な武器を見て、恐怖に凍りついたように体は動かなかった。
結局私は、恐ろしい現実から目を背けようと、また目を瞑ることしかできなかった。
「ぐぁっ……」
ぐちゃりという、生々しい肉の裂ける音と、男のうめき声。
恐る恐る目を開けた。
腹から血の滴る剣を生やした男が、いまにも絶命しそうに震え、しかし最後の瞬間まで獲物である私を睨んでいた。
――逃げねば。
やっと脳の指令を体が聞いて、私は這いずるようにして、倒れてくる男の巨体から逃れた。
「助けて、シヨウ……助けて!」
うわごとのように叫びながら、隠れていた荷物の外へと飛び出す。
目の前には、凄惨たる光景が広がっていた。
魔術によって燃やされた焼死体、氷に体を貫かれた死体に、体の一部が欠損しているものまで、あちらこちらに転がっている。戦いの凄惨さを表すように、それらの死体にはすべて、致命傷以外の傷もたくさんあった。
いくら敵の王宮魔術師とはいえ、人が死んでいるという事実は変わらない。
常世にいたときには少しも心が動かなかったというのに、いまは大量の血を目の当たりにして、吐き気がこみ上げてくる。
「うっ……」
口元を押さえた時、はたと気がついた。
――ジュードの鞘を、置いてきてしまった。
まずい、と引き返そうとするが、当然敵がそれを見逃すはずがない。
「いまだ、女を狙え!」
フェリックスが、残る数人の王宮魔術師たちに命ずる。
いまの私には目視できない早さで、氷の槍が空中に形成されていった。矛先はすべて、私に向けられている。
――誰か、誰か。
破裂しそうなほどにうるさい動悸の音にめまいを覚えながら、救いを求めて周囲を見渡す。
シヨウは遠すぎる。
魔法陣を展開して、王宮魔術師の無効化しようとしているようだけれど、間に合わないだろう。
ジュードは、もはや動けるのが不思議なほどに負傷していた。
どこが怪我をしているのかわからないほど、血を流している。
片手が動かないのか、だらりと垂れ下がっている。とてもじゃないが、魔術は使えないだろう。
フィリップは――フィリップは、もう息絶えていた。
艶やかだった青色の髪には赤黒い血がこびりつき、体は血の池のなかにどっぷりと浸かっている。
――私は助からない。
一瞬のうちに、その判断を下す。
けれど、その言葉を――自分が死ぬということの意味を、理解する暇もないまま、
「――ユリ様!」
力強く腕を引っ張られ、目の前に王宮騎士の団服を着た銀髪の男――ギルバードが、飛び出た。
私が受けるはずだった氷の槍が、次々とギルバードの体を貫いていく。
次々と刺さるおびただしい数の鋭利な氷が、十歳の頃からずっとともにいた青年の体から、確実に命を削り取っていく。
床に手をつきながら呆然とそれを見る私の顔に、血しぶきがふりかかる。
その生暖かさに、現実に引き戻された私は、倒れてくるギルバードの体をなんとか受け止めた。
「なんで……」
ギルバードならば、あれくらいの攻撃、剣で撃ち落とすことができたはずだ。
いや、そもそも王宮魔術師たちは、足や腕を奪うことはあっても、決して私を殺しはしない。身を呈してかばう必要性なんて――と、そこまで考えて、ようやく気づく。
さきほど、私を狙う王宮魔術師に刺さった剣。
あれは、ギルバードのものだったのだと。
「俺は……ユリ様の、傍に……」
掠れた声で、最後の吐息を使ってギルバードはそういった。
私の腕のなかでこのうえなく幸せそうに微笑むと、銀雪のような瞳をこちらに向けたまま、息絶えた。
――私は、悲しみを感じているのだろうか?
自分でも、よくわからなかった。
ギルバードは、酷い状態だった。
肩は潰されたようにぐちゃりと崩れ、左足は火傷で服が肌に張り付いてしまっている。切り傷など、数えようもない。
限界まで私のために戦い、そして私を庇って死んだ。
「でも……」
そうなるように仕向けたのは、彼を閉じ込めたのは、紛れもなく私だ。
――ならこれは、望んだ通りの結末か?
これが復讐なのだろうか。
フィリップも、ギルバードも、どれだけ無駄なものに己が命を賭けたかも気づかないまま死んだ。
異世界人を利用したエドアルド国の人間に、相応わしい死に様ではないか。
だがいまになって、胸の中に浮かぶ上がってくるのは、神殿のなかで過ごした十一年間だった。
あのまま八人で私の命が尽きるまで、ずっとあそこに閉じこもっていればよかったのだろうか?
そうすれば、こんな喪失感を味わうこともなかったのだろうか?
「ユリ、もうすぐ決着がつくよ」
微動だにしない私の前に、ジュードは庇うように立った。
もう一度、剣の鞘を手渡された私は、それを抱えながら、いまだ疲れを見せずに奮戦するシヨウをぼんやりと眺めていた。
空中に無数の氷の礫を生み出しては、それを乱舞させ、シヨウの体に風穴を開けようとするフェリックス。
シヨウは魔法陣を周囲に展開させ、氷を防ごうとするが、すぐに残った王宮魔術師たちによって妨害される。
それでも冷静に、流麗な剣技で氷礫をひとつひとつ撃ち落とすシヨウは、おそらくフェリックスの魔力が切れるのを待っているのだろう。
「ジュード……私は、あのまま神殿にいるべきだったのかな? そうすれば、みんな一緒に、ずっとずっと幸せに……」
ジュードは答えなかった。
代わりに、徐々に温度を失っていくギルバードの血をどっぷりと吸った私の服を、ねぶるように眺めた。
「ギルバードは幸せだね。君の腕の中で死ねるなんて、羨ましくて狂ってしまいそうだ」
言葉通り、狂気を感じるほどの嫉妬を孕んだ声。
けれどそれを恐ろしいとは、もう感じなかった。いっそ、心地よくさえあった。
「ジュード……その腕は?」
紫のような黒のような色に変容した右腕に、手を伸ばす。
生気を感じさせない、死体のような冷たさに、息を呑んだ。
「呪術だね。フェリックスは、余剰な分の君の魔力を横領していたらしい。それを使った呪術は、恐らく、私の鞘でさえ完全に跳ね返すことはできない。どうやら君の魔力は、いままでのすべての異世界人をはるかに凌駕する質のようだ」
――歴代最強、か。
もはや現世にいる私にとっては何の価値もない言葉だ。
いまとなっては、それを相手取らなければならないシヨウやジュード――そしてふたりに依存しなければ生き残れない私にとっては、凶報以外のなにものでもない。
「呪術は強力だけれど、所詮は直線上に魔力を放出して、それを相手に当てなければ発動しない。君に攻撃が当たっては面倒だから、後ろから動かないでいてくれると助かるよ」
私はひとつ頷くと、
「そういえば……フェリックスが得意なのは呪術と氷魔術だったよね。シヨウは、勝てるのかな……?」
薄っすらと笑みを浮かべたジュードは、「さあね」と明るい調子でいった。
「だけど、少なくとも呪術を使うことはできないだろう」
「なんで……?」
「君の魔力が強すぎるがゆえに、どうやらあの王宮魔術師も呪術を使えばそれなりの代償を支払うらしい。さきほど私の腕を無力化させたせいで、彼の手はもう動かない」
でも、と私は掠れた声で反論する。
「それでも、いまみすみす相打ちになるくらいなら、シヨウを呪術で殺そうとするんじゃ?」
「それは無謀だね」
はっきりと言い切るジュードは、ふと私が手に持つ剣の鞘に目を向けた。
「シヨウの自信は、どうやら根拠あってのものらしい。彼がさきほどから引き出している膨大な魔力、あれは千里眼の聖女のものだ。それも、彼の体に完璧に馴染んでいる」
もう二百年以上前の異世界人の魔力を、どうしてシヨウが宿しているというのだ。
「どうして……シヨウがそんなものを?」
「さあね。異世界人の魔力を奪うだなんて、生きた心臓を食べでもしない限りできないんじゃないかな? 私も大概だけれど、案外あの神殿のなかでの一番の裏切り者は、彼だったのかもしれないね」
そう嘯くジュードを睨むと、彼は肩をすくめて、
「ともかく、そんな魔力を宿しているシヨウを殺すには、生半可な呪術では難しい――ユリの魔力を持ってしてもね。だから、その場合、玉砕覚悟でシヨウを呪殺することになる」
そうか、と私はやっとジュードの言わんとしていることに気がついた。
「でも、シヨウをどうにかできても、まだジュードと戦わなければいけない。そういうこと?」
その場合、瀕死のフェリックスは、いとも簡単にジュードに敗北するだろう。
「そう。だから、シヨウとの決着がつかないと判断した場合、彼は……」
ジュードは黄金色の瞳に、すっと殺気を宿すと、
「――こうするだろうね」
残る三人の王宮魔術師たちが、私とジュードのほうへとにじり寄る。
確かに、そうするのが正解だ。
ジュードさえ死んでしまえば、あとはフェリックスとシヨウの相打ちになる。犠牲は多大ながらも、あちらの勝利ということになるだろう。
「さて、と」
利き腕を失くし、身体中に無数の傷がありながらも、ジュードは優雅そのものの動きで剣を掲げてみせた。
「ここで私が勝てたら、ユリの本当の名前を教えてくれるというのはどうだろう? 少しでも、未来に希望を持って戦いのだけれど」
「――絶対にいや」
即答する私に、初めからわかっていたかのように、ジュードは微笑んだ。
「さて、泥試合になるだろうから、思いを寄せる令嬢に見られるのは心が痛むけれど……目を閉じていてくれというほど私にも余裕がないからね」
瞬間、ジュードの足元の下に小さな魔法陣が現れる。
光の束が蔦のように伸びると、ジュードの両足に絡みつき、一層輝く。
――強化魔法。
一時的に身体能力を飛躍的に上げる、主に騎士が好んで使う強力な魔術だ。
その反面、ジュードのように魔術師としても長けている人間が使うときは、最後の切り札に等しい。攻撃魔術を繰り出す魔力も、回復魔術で怪我を治す魔力も、もう残ってはいないということなのだ。
「まずは一人目」
王宮魔術師のうちの一人――もっとも負傷が少ない青年は、油断していたのかひとりだけ前に出ていた。
それを見逃さずに、ジュードは一気に前方へと躍り出ると、その青年の心臓を剣で貫いた。王宮魔術師の防護衣も、ジュードの剣の前では無力だ。
声もなく、自らが刺されたことさえ気づかぬままに、その青年は命を落とした。
「いまだ!」
残る二人が、そこですべての魔力を賭したような、大きな魔法陣を空に展開する。
ジュードの剣ならば魔法陣を切り裂くことも可能だが、それはまだ敵の肉の中に埋もれている。どうやらさきほどの一人飛び出していた青年を嗜めなかったのは、初めからジュードの剣が使えなくなった瞬間を狙うつもりだったかららしい。
だが、そこでジュードは私にとってさえ予想外の選択をする。
――剣に貫かれた青年の体を、王宮魔術師のひとりに向かって投げつけたのだ。
あの聖剣は、魔術の叡智の結集ともいえる、常世が生み出した最高傑作。
それを手放す人間がいるとは、王宮魔術師たちには想像もできなかったようだ。
「うぐっ!」
体制を崩した敵を無視して、ジュードは、もう一方の魔術師へと間髪入れずに蹴りをいれる。
彼らしからぬ荒々しい動作で、人間なら即死級の蹴りを入れるものの、防護衣のせいで致命傷とはならなかったようだ。
しかし、ジュードは蹴りのせいで倒れた男の頭を持ち上げると、乱暴に敵の頭を床に叩きつける。相手が動かぬ死体となるまで、ジュードは同じことを繰り返した。
「――ジュード、後ろ!」
私が叫んだのは、その隙に最後のひとりの王宮魔術師が、魔術を使おうとしていたからだ。
魔術師の正面に魔法陣が展開され、そこから荒れ狂う猛獣のような形を作る炎が、轟々と燃え盛る咆哮を吐き出しながら、ジュードに牙を剝く。
それすらも予想の範疇だというように、ジュードは微かに微笑んでみせた。
――そして、すっと立ち上がると、わずかに体を傾ける。
手にさきほど砕いた男の頭の血がついていることすら忘れさせる、優美な動き。
けれど、それで猛威を振るう炎を避けられるはずもなく、ジュードの右半身に炎は直撃した。
獲物に噛み付くように炎が右腕に絡み――あっけなく、ぼろりとジュードの腕を焦がし落とした。
声もなく叫ぶ私をよそに、もう一度魔術師は魔法陣を前方に展開した。
しかし、それよりも先に、さすがに額に汗を滲ませながらも、ジュードは魔術を使い無防備になった最後の敵へと飛びかかる。
残る左腕で敵の首に摑みかかると、飛びかかった勢いをそのままに、男を壁に押し付ける。バキバキと音を立てて男の首をへし折ると、ぐったりと動かなくなった死体をジュードは放った。
「ジュード!」
気力を使い果たしたというように、膝から崩れ落ちるジュードに駆け寄る。
「あんまり……こんな格好悪いところは見られたくなかったんだけどね」
珍しく弱気に、恥じ入るように顔を伏せるジュード。
焼け落ちた腕からは一滴の血が滴ることもない。しかし、例え呪われた部位を切り落としたところで、呪縛からとき離れることはないのだ。ありもしない右腕は、いまだ呪術によって痛めつけられている。彼が味わっている苦痛は計り知れない。
「さあ、あとはシヨウの勝利を祈ろうじゃないか」
そんなことをまるで感じさせない優雅な笑みを口元に刻むと、ジュードは視線を中央で戦うふたりに向ける。
――戦況は、どう見てもシヨウの方が優っていた。
幾多もの氷の柱が天井に形成されると、シヨウに向かって振り落とされる。
瞬間、シヨウは頭上に小さな魔法陣をいくつも展開する。
氷柱は、すべて魔法陣に吸い込まれると、あとかたもなく消えていった。
「くそ! 属国の犬が!」
口汚い言葉を吐きながら、フェリックスは憎悪を露わにシヨウを睥睨する。
対するシヨウはどこまでも涼しげな顔で、着実にフェリックスの魔術を打ち消していった。
反魔法の方が、ただ魔術を行使するよりも、遥かに気力と集中力を磨耗させる。
より強い魔術をぶつけて打ち消す方が楽なのにも関わらずそうしないのは、こちらに――いや、鞘を持たないジュードに攻撃が飛び火することを恐れてのことだろう。
けれど、シヨウにはこのままでも十分に勝機はあるように見えた。
汗で髪がべっとりと首に張り付き、朦朧とした視線で魔術を使いつづけるフェリックスに比べ、シヨウは冷や汗ひとつかいていない。
――その歴然とした差は、両者が頼る魔力源によるものだ。
私の魔力を、フェリックスは扱いきれていない。
魔術を使えば使うほど、少しずつだがフェリックスの体を蝕み、着実に精神力を削っていっている。
それに比べ、シヨウは千里眼の聖女の魔力を、完全にその身になじませていた。
「シヨウ……」
シヨウは自分の物だと思っていた。彼について知らないことなんてないと、確信していた。
シヨウは私の味方だ。その事実に変わりはない。
けれど、シヨウは私に隠し事をしていた。そのことに、自分でもどうしようもないほどに傷ついていた。
「ジュード、ユリを!」
ふいに、シヨウがこちらを向くと、焦りを滲ませた声色で叫ぶ。
「……そう来たか」
ジュードは低く唸ると、私の手を掴む。
有無を言わせない力で私を引っ張ると、シヨウの後ろへと滑りこんだ。
「うっ!」
ほとんど同時に、心臓が鷲掴みにされるかのような感覚に、体が跳ねた。
現世の人間である私でさえ感知してしまう、多大な力。
直線上にシヨウに向けてぶつけられるそれは、この空間なんていとも容易く吹き飛ばしてしまうことだろう。
「フェリックスのやつ、勝てないと踏んで自棄になったな」
もはや目を開けていることすら困難な状況で、ジュードの言葉を聞いて、やっとなにが起きているのか理解した。
魔術のもっとも原初的な形であり、また忌避される禁術――魔力の放出。
持ちうるすべての魔力を敵に向かって放ち、相手の魂さえ引き裂くその術は、もっとも強力な魔術のひとつに数えられる。しかし、数千年の歴史のなかでそれを使った魔術師は、数えるほどしかいない。
魔力の放出――術者の精神の年齢の老化を急速に加速させ、精神の死をもたらす。それは即ち、術者の魂さえも消し飛ばし、永久に輪廻の理から外してしまうということだ。
つまり、術者に真の意味での死をもたらしてしまう。
この禁術に対抗する方法は、ひとつしかない。
こちらもまた魔力を放出する――それだけだ。
「シヨウが勝てなければ……ここでみんな消滅するの?」
これは、フェリックスとシヨウの魔力の争いではない。
千里眼の聖女と、万里眼の聖女の魔力の争いだ。
いまは拮抗する両者の魔力だが、どう考えても――勝るのは、私の魔力だった。
それに、勝敗はどうであれ、どちらにせよシヨウは死んでしまう。
「あるいは、フェリックスの肉体が君の魔力に耐えきれないかもしれない。シヨウの魔力が尽きる前にフェリックスの肉体が滅びれば、シヨウが生き残ることも可能だろう」
ジュードの表情を伺うことはできない。もしかしたら、単に慰めで口にしているだけなのかもしれない。けれど、いまはその可能性に希望をかけるしかなかった。
祈るようにして、剣の鞘を握りしめる。
規格外の異世界人の魔力――その意味を、身をもって体感する日が来るとは思わなかった。
シヨウに庇われている状態でさえ、自分の魔力の強大さを感じてしまう。
まるで肉体からもっとも柔らかな部位をひねり出され、それを蹂躙されているかのような悪寒。
神が人に裁きを下すかのごとく、相手の指先一つで私の運命が捻じ曲げられてしまうのではないかという錯覚さえ覚える。
私と対峙するものが、こんな圧倒的で残虐な力を感じていたのだとは、知らなかった。
そのまま二人の異世界人の魔力のせめぎ合いの渦中にいたのならば、気がおかしくなっていただろう。
だが、荒れ狂う二つの魔力の暴発とぶつかり合いは、長くは保たなかった。
わずか数十秒の後に、心臓にかかっていた重圧は嘘のようにたち消え、私は目を開けることができた。
そしてそこに映ったのは――消失していくフェリックス。
つんざくような醜い断末魔をあげるフェリックスの体に、歪みが入る。
白磁のようだった肌がひび割れ、パキパキと乾燥した音を立てながら、全身に広がっていった。
やがてこちらに伸ばされた左腕から、肉体そのものが砕け散っていく。
――その化け物のような人ならざる苦悶の表情は、永遠に忘れられそうもない。
「ユリ、どうにか生き残れたようだね」
ジュードにそう声をかけられて、ようやく詰めていた息を吐き出すことができた。
「シヨウ、偉い、偉いよ! お利口さん! よく頑張ったね!」
そして、矢継ぎ早に賛辞を投げかけながら、シヨウの背中に抱きつく。
昔みたいにシヨウの頭をなでなでして、ぎゅっと抱きしめて、はにかむ彼の顔を見たい。
そんな暖かな思いに満たされながら抱きついたシヨウの体は――ぐらりと揺れると倒れてきた。
「え……?」
その体を支えようとして、ふたりいっしょに倒れてしまう。
「やだな、シヨウ、疲れちゃったの?」
シヨウを揺すってみても、反応がない。
下から這い出て、シヨウの体を持ち上げるけど、ぐったりと重く、反応がなかった。
瞬間、まるで呪術の跡のような紫色の痣が、シヨウの首元に広がっていることに気がつく。
「ジュード、助けて! シヨウが!」
驚愕に目を見開いたジュードが、こちらへ駆け寄ってくる。
「これは……」
きっちりと締められているシヨウの首元に、ジュードは手をかけた。
そして服をはだけさせると、首から胸元――ちょうど心臓のあたりにかけて、痣が侵食していることに気がつく。
「なにこれ? フェリックスには、シヨウを呪えないんじゃなかったの!?」
ジュードは痣に手を当てると、静かに首を振った。
「……違う。これは呪術ではない」
「え……?」
「いまのシヨウからは、千里眼の聖女の魔力が感じられない。私にもそれ以上のことはわからないけれど、やはり代償なしで異世界人の魔力を受け継ぐなんてできない――そういうことだろう」
重々しくそう口にするジュードに、思わずつかみかかってしまう。
「お願い、ジュード! どうにかして……!」
無言で私に揺さぶられ続けるジュードの表情が、打つ手なしであることを物語っていた。
「ねぇ、こんな終わり方いやだよ! ジュード、助けてよ!」
なおも叫び続ける私を落ち着かせようと肩に触ろうとして、片腕がないことに気がついたジュードは、自嘲するようにふと息をついた。
それから、取り乱す私を見て、ひどく痛ましいものを見るかのように、蜂蜜色の双眸が細められる。
――違う。
こんなの、私じゃない。
ジュードの瞳に映る自分を見て、はたとそう思った。いまの惨めで情けない自分に、とてもつもなく大きな自己嫌悪を覚えた。
私はひとつ大きく息を吸うと、私らしく――神殿の独裁者であるユリらしく言い直す。
「これは命令だ、ジュード。持ちうるすべての知恵と力を使って、シヨウを救いなさい。そのためならば、私はいかなる犠牲も厭わない」
ジュードは目を瞬くと、ふと微笑んでみせた。そして、しばらく考えるように瞼を下ろすと、
「この方法では、よくても一時凌ぎにしかならない。もって半日、息を吹き返すことができるくらいだろう。おそらくは、どうすることもできないで終わる。それでもいいのなら……」
もとより私の答えなんてわかっていたのだろう。
返事を待ちもせずに、ジュードは自らの剣の鞘のもとへ近く。そして、自分の剣を使って強引に、はめ込まれた魔導石を取り出した。
――菫色の、澄みきった美しい宝石。
「それは……」
「御察しの通り、千里眼の聖女の魔力の込められたものだよ」
ジュードはシヨウに向かって剣を振りかぶる。そしてかすかに逡巡した後に、流麗な動きで一思いにシヨウの心臓のあたりを切った。
「っ!」
目を背けはしなかったが、背筋が凍ったように感じた。
「千里眼の聖女の魔力がわずかにでも戻れば、一時的に呪縛の効果を緩めることが可能かもしれない……」
どくどくと血の滲み出る傷口に、千里眼の聖女の魔導石を当てると、ジュードは押し込めるように手を動かす。魔導石は光り輝き、溶け込むようにして傷とともに消えていった。
――瞬間、どくんと鼓動を打つ音が、響いた。
「シヨウ!」
シヨウの体に飛びつくと、微かな息遣いが聞こえた。
祈るような気持ちで顔を覗き込んでいた私を、うっすらと開いたシヨウの瞳が捉える。
「ユリ……?」
どうにか体を持ち上げたシヨウは、ぼんやりと薄くなった胸の痣を眺めた。
「千里眼の聖女の魔力を、ジュードが戻してくれたの」
その言葉を聞いた途端、シヨウの顔がこわばる。
「ユリ、俺は」
「――君がどういった経緯でその魔力を手にしたか、聞きたいのは山々だけど」
シヨウの言葉を遮ったジュードは、真剣な目で私を見据える。
「その前にユリ、君の決断を聞きたい。君はこのまま現世で生きていくつもりなのかな?」
そうだ、ジュードは敵対関係にあったのだと思い出す。
けれど本当は、とっくに気づいていた――ジュードにシヨウを殺すつもりなんてないことを。そしてシヨウもまた、最初からわかっていたのだろう。
ジュードの望みは、ひとつだけ。
ずっと神殿のなかにいたときから口にしていたのだ。常世で、共に暮らそうと。ただそれだけだ。
「ねえジュード、現世の人間を犠牲にしてここに残るつもりなんて、なかったんでしょう?」
質問に質問で返すのは卑怯だが、ここにいる誰も私を咎めたりしない。
きっとジュードは、あの二択――現世の人間を犠牲にしてみんなとここに残るか、それともジュードと婚姻関係になって聖女の役目を他の人間に押し付けるか――の両方を、私が断ることなんて分かっていたんだろう。
常世と現世、どちらにいようとも、私に未練があるかぎり道は塞がらない。
原因は、私の心そのものにあるのだから。
無理な二者択一を押し付けることによって、荒療治とはいえ私に現世を諦めようとしたのだ。
ここに敵が来れる以上、結局のところ、私が確実に生き残れる唯一の策は常世に戻ることのみ。その最強の力でエドアルドに反旗を翻し、どこか安寧の地でも作ってみんなと逃げるしかなかった。
そしてそれが、ジュードたちの望む結末でもあったのだろう。
――このまま現世で暮らすつもり?
それはつまり、このまま現世で暮らすのなら、一切の未練は断ち切れということだ。
そうしなければ、いずれまたその道を通って、追っ手が現世へ来る。
「本当は、私と傍にいたいなんて嘘。ジュードは、現世と常世を繋ぐ道を消したかった」
そう指摘すると、呆れたといわんばかりにジュードは嘆息した。
「君は察しがいいんだか悪いんだかわからないね。私はユリの傍にいるためならば、手段は選ばない。このまま現世へいて魂が消滅しようと、一秒でも長く君の傍へいようとする。もしユリが許すのならば、君のそばにいるために、人を殺めることなんて躊躇しない。もちろんシヨウを殺すことだって、ね」
「許すもなにも……どちらにせよ、私はおまえのことを本気で恨んでるけどね」
「残念だよ、私は愛しているというのに」
余裕たっぷりにいってみせたジュードは、フィリップとギルバードの遺体に近づくと、祈りを捧げた。それから、彼らの髪をひと房ずつ切り取ると、私に手渡した。
「できれば君が持っていてくれないかな。そのほうが、彼らも喜ぶ」
死に際のギルバードの言葉を思い出して、私は無言でふたりの髪を受け取った。
それを見届けたジュードは、洗練された動きで、剣を大きく振るい、鞘に収める。
「まあともかく、私は常世に戻るとするよ」
シヨウも私も、驚きに目を見張る。
あっさり引くとは、考えていなかったからだ。
「こちらへ追撃の手がこないということは、ノランたちがどうにか魔法陣の周囲を守っているのだろうけど、そろそろ限界だろう。あっちも被害が出ているだろうからね。私とシヨウは戻って、魔法陣を消す」
「じゃあ、もう二度と常世へは行けなくなるの?」
「ユリが常世への未練を捨てれば、そういうことになるね。でも、シヨウ、君は後から来てくれるかな?」
王宮魔術師たちが使った魔法陣へと近づこうとするジュードが、立ち上がろうとしていたシヨウを諌める。
私も、知らず知らずのうちにシヨウのことを引きとめようとしていた。
「……なぜだ?」
「明日の正午まで、私たちは魔法陣を閉じないでそのままにしておく。……ユリ、私がここであっさり帰るのは、確信しているからだ――君が必ず常世へ帰ってくると、ね」
ふざけるな、とシヨウが鋭い声を浴びせるものの、ジュードはもう勝手に魔法陣のうえに立っていた。
「それじゃあ、待っているからね」
次の瞬間には、ジュードは跡形もなく消えてしまっていた。
シヨウも後に続こうとしているのだと気がついて、私はさきに釘を刺しておいた。
「シヨウ、まだそばにいて」
恐ろしいくらいに端正な顔立ちが、かすかに困ったような表情を浮かべる。
「だが、俺が帰らないと道は塞がらない」
「まだ待って。命令」
そういうとどうにか引き下がったシヨウは、惨たらしく死体の転がる周囲を見渡した。私もつられてそうすると、ぽつりと漏らす。
「これ、警察とかに見つかったらどう説明すればいいんだろ。大ニュースだよ」
けれどしばらくすると、死体のひとつが砂のような細かい粒子となり、拡散して消えた。
「な、なにこれ」
「常世の肉体は、現世の空間では受け入れられないのだろう」
ということは、フィリップとギルバートの遺体もすぐに消えてしまうということだろうか。
「ちょっと待っててね、シヨウ」
私は二人の遺体の目を閉じ、別れの挨拶をする。
――十一年間、か。
ともに過ごせど、家族というには歪すぎる形だった。
体を重ねど、恋人というには狂いすぎていた。
それでも、そこにはなにかの絆があったのだろうか。
しばしの間、らしくもない感傷に浸った。
シヨウもまた、それを見守ってくれていた。
「なんだか、あんなことがあったなんて、信じられないね」
――シヨウがもうすぐ死んでしまうというのも、信じられないけれど。
心の中で付け加えて、シヨウの前では気持ちを切り替えようと息を吸う。
あの後、シヨウに、転移魔術で家に連れて行ってもらったのだ。
いまは少しでも魔力の消費を避けるべきだと主張したのだけれど、シヨウ自身の魔力ならば使っても関係ないと押し切られた。
家へ帰ってからは、さきほどまでの争いや、シヨウに残された時間が少ないことが嘘のように穏やかな時間が流れた。
まるでシヨウに消えてと怒鳴る前の、楽しかった時間の延長戦のようにさえ感じた。
風呂と着替えを済ませた私は、シヨウをベッドに寝かしつけた。
「……ユリ、迷っているのか?」
静かに、そう問いかけられた。
もう家族はみんな寝静まっていて、時計の針の音以外になにも聞こえなかった。
――常世へ戻ろうか、迷っているのか。
そういう意味だろう。
相変わらず、いやになるほどシヨウは鋭くて、痛いところをついてくる。
私は幾ばくか迷ったあとに、小さく頷いた。
「俺に負い目を感じているのなら、その必要はない」
「どうして、そんなことがいえちゃうのかな……どう考えたって、私のせいじゃん」
「俺はユリが思っているような人間ではないからだ」
責任を感じて常世に戻ろうと考えているのかは、自分でもわからなかった。
だけど、私がシヨウに負い目を感じる必要がないだなんて、誰が聞いてもおかしな台詞だった。
「――俺は、ユリを殺そうとしていた」
苦しげなシヨウの声。
心臓を氷の剣で突き刺されたように、私は言葉が出なかった。自分でも驚くほどに、その言葉にショックを受けていたのだ。
「それが俺の役目だった。一族に託された、俺の……」
シヨウは、とつとつと語り出した。
七十二代目の異世界人――千里眼の聖女。
彼女は、自分にはどうやっても死が訪れることを知って、酷く動転した。
どうにか契約の魔術から逃れる手はないかと、千里眼の力を最後の日に限界まで酷使した。そこで彼女は、神殿の中庭の石畳の一枚――その裏に、メッセージが書かれていることに気がついた。
それは、二十一代目の異世界人、予知の聖女のものだった。
彼女は三年足らずでこの世を去ったものの、最後にエドアルド国に一矢報いようと考えていたのだ。
予知の聖女は、いずれ千里眼の聖女が召喚される日が来ることを知っていた。そして千里眼の聖女が、どうやっても滅びの運命を辿ることも。
だが、エドアルドを打ち滅ぼすことができる国に、心当たりがあった。それがもはや名前を失ってしまった――シヨウの故郷だった。
シヨウの皇族は元をたどれば、奇跡を重ねて現世に生まれてしまった常世人だった。
その始祖は、過って産み落とされてしまった現世で育ち、そしてやがて独自の魔術を開発して、常世に帰ることに成功した。その魔術こそが、私がここへくるために使ったあの魔法陣の原型だ。
シヨウの始祖は圧倒的な力を見せつけ、東の小さな国々を統一し、国家を樹立したのだ。
もはや血は薄れてしまったものの、元をたどれば現世人と同じく、常世の理に縛られない血を持つシヨウの一族。
彼らならば、現世人――召喚された異世界人の能力を、継承することができるかもしれない。
シヨウの皇族に力を渡し、エドアルドの侵略を食い止めるように説得してほしいと、予知の聖女は願った。
そして千里眼の聖女には、国の追っ手にみすみす捕まるくらいならば、自害してほしいとも。
その遺言を見た千里眼の聖女は、すぐにシヨウの国へ向かった。
だが、目的は予知の聖女とは違った。
彼女は、心の底から常世人というものを憎悪していた。自分の仲間でさえ、完全に信用したことはなかったのだ。
だからこそ、シヨウの国の人間に異世界人の力を渡したところで、エドアルド国と同じことを繰り返すだけと考えていた。もし異世界人の残虐な行いを納めることができるのならば、それは同じ現世人しかいないと信じていた。
予知の聖女は、もうひとつ予言を残していた。
それが私――万里眼の聖女のことだった。彼女の予言によると、私は最強の聖女であり、唯一契約の呪縛から逃れる可能性のある聖女でもあった。しかし、孤独に耐えかねて自殺してしまうという終わりを迎える。
千里眼の聖女は、その万里眼の聖女とやらにこの残虐な儀式――異世界人を召喚する魔術を、根絶やしにさせようと考えた。魔王として君臨し、恐怖政治で常世の人間を抑えつけるなり、いくらでも方法はある。
だから千里眼の聖女は、自分の魔力を継承させるべく、持ちうるすべての力を込めた魔導石を用意したものの、そこに契約の魔術も施した。
『この魔力を使い切ったときに、私の力を借りたものは、万里眼の聖女とともに常世を納める覇者になっていなければならない』
そしてそれを何も知らないシヨウの国の皇族に託すと、わざとエドアルドの人間に捕まり、術の生贄となった――私が呼び出され、エドアルドに復讐するその日のために。
その時代のシヨウの国の皇族は、千里眼の聖女の魔導石を飲むことを試したが、功をなさなかった。
すでに薄まった現世人の血を持つ人間では、適応することができず、魔導石が心臓を食い破って体から飛び出てしまったのだ。
そうして数百年の時が経ったときに生まれたのが、シヨウだった。
もっとも始祖に近い血を持つとされたシヨウは、五歳のときに千里眼の聖女の魔導石を飲まされた。そこでシヨウは初めてその魔力を使うことの代償の契約を知った。千里眼の聖女の真の目的も。しかし、誰にも口外することはなかった。
契約の呪縛で死んでも構わないと考えたからだ。
恐ろしいほどに、日に日に感情が希薄になっていき、五歳のころの彼の人格は、すっかりシヨウから消え失せてしまった。死に対する恐怖も、家族に対する愛も、すべて忘却してしまったのだ。
エドアルドの魔の手がついにシヨウの国まで伸びたとき、降伏せずにシヨウの国は最後まで戦い続けた。
けれど最後には城さえも囲まれ、次々とシヨウの一族は誇りのために自刃していったという。
狂った目でシヨウを見ながら、必ずエドアルドに復讐するように言い残して。
エドアルドに向かい入れられ、神殿に入ったシヨウは、ずっと私を亡き者にする機会を伺っていた。
そうすればエドアルド国に酷い殺され方をすることは目に見えていたが、精神的拷問を受けてもなにも感じないほどに、すでにシヨウのなかから感情は消えてしまっていた。
一族から託された悲願を叶え、シヨウ自身、役目を終えて早く楽になりたいとどこかで感じていたのだろう。
だから、一年経って、ジュードたちがみな出払ったときは、絶好の機会だった。
呪術に苦しむ私の看病を引き受けながら、毒入りの茶を入れたらしい。それだけでも、弱り切った私の体はすぐに衰弱して死んだだろう。
「じゃあ、どうして私は死ななかったの?」怒りではなく、単に不思議に思った。
「……ここまでで、俺の伝えたかった事柄は終わった」
「でも、私はもっと知りたい」
そうはっきりと伝えれば、シヨウは薄く口を開いた。
結局、シヨウは茶を入れた湯呑みを落としてしまったのだという。
戻ってきたシヨウが見たのは、手首を切って死にかけている私だったからだ。
「どうしてか、無性に腹が立った。数年ぶりに、感情らしいものを感じた」
シヨウは目を閉じて、浅く呼吸するとそういった。
きっと彼は、自分を置いて死んでしまった家族のことを思い出していたのだろう。
それでも、いっそ一思いに楽にしてやろうとしたとき、うわごとのように私はいったのだという。
――いやだ、ひとりはいやだ、怖い、寂しい、死にたくない、私は帰りたいのだ、と。
その瞬間、シヨウはまるで自分の思いが誰かの口から出たのかと錯覚したという。
ひとり残されるのは嫌だ。死にたくない。怖い思いはもう嫌だ。自分の居場所に帰りたい。
それはどれも、シヨウ自身の思いでもあったのだろう。
シヨウは私の止血をすると、すぐに医者を呼んだ。
――それから、シヨウの目的は変わってしまった。
世界を滅ぼしてほしいという千里眼の聖女の願いでもなく、異世界人の召喚を打ち止めにしてほしいという一族の願いでもない。
私を帰らせてあげたいという、シヨウ自身の願いだ。
そしてそれは、生まれて初めてシヨウが他者の意思ではなく、自分のために願ったことだった。
「じゃあ、あの現世と常世を繋ぐ魔法陣も、シヨウが探してくれたの?」
認めたくなさそうに、シヨウは頷いた。
王宮騎士団に入ったシヨウは、辺境の地を回りながら、自国へ訪れる機会を虎視眈々と待っていたらしい。そこに行けば、始祖がかつて使った、異界と現世を繋ぐ魔法陣の跡が見つかるはずだったからだ。
そしてそれを復元させることに成功したとき、私の万里眼に察知できるように、紙に書き留めた。
「俺はユリを殺そうとした。俺もまた、ユリの敵の一人だ」
話終わったころには、シヨウはもはや話すことさえ億劫なほどに、衰弱していた。ジュードの言ったとおり、あの処置は一時しのぎにしかならなかったのだろう。
それでもなんとか、おそらく一番伝えたかったであろうことを、はっきりと口にした。
「だから……」
「だからなに? シヨウのことは見捨てろって。常世に行ったら助かる方法が見つかるかもしれないのに、のうのうと現世で生きろって?」
なんだか笑えてしまった。
シヨウがいまの話を私に聞かせたくなかったというのは、本当だろう。一緒に過ごした五年間、きっと罪悪感に蝕まれながら、いつかそのことが明るみになって私に嫌われることを恐れていたに違いない。
「いいよ、わかった。私が自分の居場所に帰る、そうしないと消滅しちゃう契約をしたのは、シヨウだもんね」
――寂しそうに、だけど心から安堵したように、シヨウは微かに微笑んだ。
シヨウが私を殺そうとした。ずっとひた隠しにしてきたその事実をわざわざいま話したのは、私を思ってのことだろう。
私にシヨウのことを見捨てて、現世ですべてを忘れて生きるための口実をくれた。
結局、シヨウのすることは全部、私をためなのだ。
「ねえ、シヨウ……なにかお願いごとはある?」
突然の質問に、シヨウは意味を測りかねるというようにこちらを見た。
私は、それを微笑んで見つめ返す。
「なんでもいいの」
死にゆくシヨウのために叶えてあげる、最後の願いだとでも思ったのだろう。躊躇うようなそぶりを見せたあと、ややあってシヨウはささやかすぎるお願い事を口にした。
「隣に……いてほしい」
「うん、いいよ」
隣に寝転がると、シヨウの微かな息遣いが聞こえて、ほっとした。
だけど、やはり着々と呪いの侵食は進んでいるようだ。
玲瓏な美貌には、どこか苦しげな表情が浮かべられている。
鍛え上げられた胸は汗を掻いていて、浅く短い呼吸に合わせて上下していた。
「シヨウ、辛いならもう寝たほうがいいんじゃない?」
「まだ……あと、すこしだけ……」
うつらうつらしながらも、シヨウはまだ話したいと口にした。
なんだか、シヨウが九才くらいのころに戻ったみたいだった。
もちろん、当時からシヨウはお願いのひとつもしたことはなかったけれど、口調が幼いからそう感じた。
「いつも……羨ましかった、みんな、ユリの寝台に呼んでもらえて」
「うん?」
「話をして、抱きしめてもらって……おやすみって……」
決して、べつに抱きしめておしゃべりしていたわけではない。けれど、八歳から神殿にいて、しかも私によって情報統制されていた純粋培養のシヨウからすれば、そのくらいの認識だったのだろう。
そのうえでひとりだけ呼ばれなかったともなれば、自分が一番気に入られていないと思ってしまったのだろうか。
「俺も、ユリに……」
吐息のような声でそういったシヨウを、ぎゅっと抱きしめた。
シヨウは、ガラス玉みたいに澄んだ菫色の瞳を細めて、あどけなくふわりと笑った。そして安心したように力を抜くと、眠り始めてしまう。
シヨウの暖かい体温と鼓動を感じながら、私もまた心地よい眠りについた。
翌日の朝、シヨウはそのまま永遠の眠りについたように起きることはなかった。
体は凍ってしまったかのように冷たく、胸の痣は濃い紫紺へと変貌していた。
だけど、もう取り乱したりはしない。私も、覚悟はできていた。
「――シヨウ、いっしょに帰ろう」
漆黒の艶やかな髪をさらりと撫でると、聞こえないとわかっていても話しかけた。
私の居場所、私が帰るところ――それは、シヨウのいる世界だ。
やっと、理解することができた。
自分の居場所は、世界や場所や国によって隔てられるものではないのだ。
どんな非道な手でも構わない。なにを犠牲にすることも厭わない。
私は常世に行き、シヨウを契約の呪縛から取り戻す方法を探す。私は私の帰るところを、今度こそ守るのだ。
なにせ私は歴代最強の聖女――万里眼のユリ。
私を阻むものがいるというのなら、容赦なく捻り潰してやる。
ジュード達も、私の味方だ。どうしてか、いまはそう思うことができた。
それに、私はおそろしく気長な人間なのだ。
現世に来るまで十一年間耐え抜くことができた。シヨウを起こすための旅だというのなら、命尽きるその時まで足掻いてみせよう。
さて、もうそろそろでこの手紙も書き終わる。
外に出たら、まずは家族に謝らなければならない。
今度こそ、あのとき言えなかった言葉を残そう。『いままでたくさんの幸せをくれてありがとう』と、『辛い思いをさせてごめんなさい』、それから『さようなら』だ。
そして、この手紙を読んでいるあなたには教えてほしい。
――十四才の私は、けっしてこの世界で狂うまいと誓った。
それは守られたのだろうか。
私はあの世界に勝ったのか、負けたのか。
その判決を、酔狂にも最後までこんな話に付き合ってくれたあなたに、任せたい。
けれど、どんな判決が下されようとも、あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもう現世にはいないのだろう。
もしかしたら、常世に行ったところで、エドアルド国に生贄にされて死んで終わりなのかもしれない。
あるいは、私の魔力が尽きて、どこかで力尽きるのがオチかもしれない。
だけど、まずはシヨウの故郷に行ってみようと思う。
シヨウの生まれ育った国のことを、知ってみたい。
それに、やっぱり私は信じているのだ。
暖かな春の日に、満開の桜の下で、少し長い眠りについてしまったシヨウを起こしてあげて。そうして、「おかえり」と腕を広げて彼を迎えることができる日が、来るのではないかと。
最後までこんな長い短編を読んでいただき、感謝です。
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