紳士と猫
「紳士は、ずっと船を待ち続けているのです。船底から縄梯子が伸びてくるのを。そこに彼女からの手紙があることを」
「船が空を飛ぶの?」
「はい。空を飛んでやってくるのです。大きな帆を張って、風をまとって雄大にやってくるのです」
「ふーん、すごいね。見てみたいなぁ」
小学生のころ、私は一人の紳士に出会った。
そのころ私は大きな病を患って小高い丘の上にある病院に入院しており、いつ終わるともしれない日々に飽き飽きしていたのを覚えている。
白い天井、白いカーテン、白い看護師さん、私はその白さが怖かった。幼い私はそこに色々な不吉なものを描き出してはそれが広がっていく予感におびえていた。
アルコールの匂いは妄想を浄化するのではなく、せっかく慣れてきた日常への予感をまたサッと消し去って白いキャンバスに戻してしまう。
だから、私は白いものから逃げるために、一つの大きなクマのぬいぐるみを抱えて外の景色を眺めていることが多かった。窓から見える青空が私をわくわくさせて、早くここから出たいと急かした。
天気の良い日は外へ出ることが許された。初めて病院へ来た時は院内を探検して看護師さんにひどく怒られたものだが、白さに恐怖を覚えて以来探検ごっこはしなくなった。
そう、あの時私はいろんな人に出会った。もう顔も覚えていない人々。怒られるのではないかとびくびく見上げた先にある若い看護師さんの笑顔。頭を撫でてくれた大きなしわしわの掌も、今はその記憶だけがかすかに残っているだけで、その腕の先にあった顔も声も思い出せない。
通り過ぎる看護師さんのストッキングの色。点滴スタンドがカラカラ歩く音。せわしなく通り過ぎる白い足が私を包んでいつも動いていた。
白い服。白い壁。四角い空間。消毒液の匂い。
そんな怖いものが沢山溢れている中で、時々すれ違うぼんやりとした彼らだけがなぜだか私を安心させた。
その彼らと白との間を私はじっと見つめながら追いかける。
でも、私が追いかけても彼らにはいつも追いつけなくて、途中であきらめて結局は病室に戻るか、外へでるか、それが私の行けるすべてで、時々お見舞いに来てくれるお姉ちゃんとトランプをするのが一番の楽しみだった。
私はいつも負けてばかり。姉はいつでも手を抜かなかったし、私もそれを望んでいたから。
そう、紳士と出会った話だった。彼と出会ったのはお見舞いに来てくれるはずだった姉が、急に来れなくなった六月のあの日。
風は雨の匂いを運んできたけれど、日差しを降り注ぐ空は底の見えない青で、なにもすることがなくなった私は海と空を見比べてどっちが青いのか確かめにいったのだった。
診察の後、看護師に外へ出る許可をもらい、私は白を見ないように廊下を駆け抜け、エントランスから中庭に飛び出した。
そこから海が見える丘までは小さな私の足でも五分とはかからない場所で、誰もいないことを願いながらアジサイの咲く一本道を歩いて行ったのだ。
青、白、赤、緑、紫。あふれる色彩を眺めながら、遠くに浮かぶベンチをめがけて歩き続ける。
けれど、そこには先客がいた。キチンとしたスーツを着て、背筋をまっすぐ伸ばしている。
光に照らされた彼の姿は、ぼんやりとした彼らに似ているようで、どこか違った。
私はこっそり彼に近づくとじっとその背中を眺めた。何が違うのか、今の私にはわかるけれど、幼いころの私にはそれは大した意味を持たなかったのかもしれない。
私が思ったのはただ、彼の邪魔をしてはいけないということだった。
良い? お姉ちゃんが真剣に話をしているときにいたずらをしたらいけないんだよ。
もしもいたずらをしたら、探し物も見つからなくなる。それは嫌でしょう? ほら、だから話を聞いて。
――どこでそれを失くしたの?
――そう、わかったわ。大丈夫、お姉ちゃんが見つけてくるから。だから、あなたは心配しないでここで待っていて。かならず、連れてくるから。
そう、姉と約束をしていた。だから私は彼の邪魔をしないように、静かに息を止めて少し離れた場所から海を眺めることにしたのだ。
海は光がまぶしくて、目を瞑る。そして目を開けて、また目を瞑る。そうしているうちに、海の光がパッと消えてその色が確かめられと思っていたから。
そんなことを繰り返しているうちに、何気なくベンチを見ると、彼は既にそこにいなかった。最初からそこにいなかったように消えてしまった彼。
私は何だか急に海への興味を失って、ベンチに座ることなくアジサイの道を戻ったのだった。
それが私と紳士が初めてであった日のこと。
その時の空と海の青はどっちが深かったのか、それも私は憶えていない。ただキラキラと光る海を私がながめ、紳士は空をじっと眺めていたことだけは憶えている。
その日、私は結局紳士の声を聞くことが出来なかった。見たのは彼の背中だけ。群青色の背広の、空のように透き通った彼の背中だけ。彼は空に似ていると、幼い私は思った。
それから天気が良い日はベンチに向かうことが日課になった。アジサイは色づき始めて雨の匂いはむせかえるくらいに中庭を覆っていた。
雨の日は時々看護師さんと一緒に傘をさして外を歩いた。彼は居るかなとベンチのある丘まで歩くこともあったけれど、雨の日に彼を見ることはなかった。
蝸牛を捕まえて病室に持ち帰った。それを見つけた看護師さんにひどく怒られた。窓から見る空は灰色で病院のなかも少し灰色で、雨の日は少し安心できた。
晴天の日はかかさずベンチに向かった。すると彼はかならずそこに坐っていて、私は息を止めて彼から少し離れたところに座るのだった。少しずつベンチとの距離を縮めても、彼は私のことなど見向きもせずに空を見上げてる。
だから私は紳士が来る前にベンチに座って待つことにした。すると私の作戦が成功したのだろう、ベンチに寝そべっていた私に紳士が言ったのだ。
「すみませんが、少し場所を貸してはいただけないでしょうか。紳士は、ここを守らなければならないのです」
それが初めて彼と交わした言葉だった。
うとうとしていた私は彼の低い声に驚いて目を開いた。そこには私をじっと覗き込む紳士がいて、想像以上にしわだらけの顔に驚いた私は一目散に逃げだしてしまったのだ。
思い出すと、あの時私を見つめていた彼の目は、私のことなど観ていなかったのだ。彼はどこを見ているときでも、空をその瞳に映しているのだから。
それからはしばらくベンチにいくことはなかった。紳士には会いたかったけれど、彼の姿を見て逃げ出してしまった私の行動はお姉ちゃんと約束をしていた、真剣な人を傷つけることだったから。
私は紳士が傷ついて血を流す姿を白い天井に思い描いては震えた。クマの人形を抱きしめても、まぶたの裏に空が浮かんで、そこで紳士が血を流している。
その光景が張り付いて消えなかった私はしばらく部屋を出ることを禁止された。お医者さんがやってきて薬を飲ませてくれた。姉は私の顔を見て、怒ったような悲しいような顔をした。
私が約束をやぶったから? と尋ねるとおねえちゃんは大丈夫、謝れば許してくれるとやさしく頭を撫でてくれた。
――ごめんなさい。サクラは見つからなかったの。
――違う、あなたのせいじゃないわ。サクラは、そう、きっと旅に出たのよ。猫だって遠くにおでかけしたいことだってある。そうでしょう?
――だから、心配しないでおやすみなさい。きっとお土産をもって帰ってくるわよ。なにかな、苺かな、ケーキかな? ふふっ、ネズミだったりして。嘘よ。怒らないで。お休みなさい。
雨は一週間降りしきり、外出許可が下りた日に私は紳士に会いにいった。
前の時とは違いベンチの端っこに坐っていた私の横に紳士はひっそりと腰を掛けた。ごめんねの言葉を口の中で転がしては飲み込んだ。どうして口から出てこないのか、自分が嫌になって涙をためる私に紳士が声をかけた。
「紳士は船を待っています。御嬢さんはどうして泣いているのですか? 船を待っているのですか? なら大丈夫です。船は来ます。紳士は約束をしたのです」
私には紳士が何を話しているのかよく分からなかった。船が来る? でも、ここから船なんて見えるのかな? 約束をした? お姉ちゃんとの約束?
混乱した私だったけれど、
「ごめんなさい」
その一言を伝えることは出来た。
「大丈夫です。紳士と一緒に待ちましょう。私はここにいます。ずっといます。手紙が届くまで」
紳士はそういって小さくうなずいて微笑んでくれた。
うん、そうつぶやいてから、ふと紳士の手元を見ると、紳士の手の中には深い青色をした猫のぬいぐるみが抱かれていた。ところどころがほつれ、中の綿が飛び出いている。髭はちじれて、四方八方に伸びていた。
「猫、好きなの?」
私がたずねると、
「はい。猫は家族です」
そういって紳士は猫の頭をやさしく撫でた。
それからの日々は、私は紳士のよく分からない言葉を聞きながらベンチで海を見ることが日課になった。
彼が話すことはいつも同じで、船が来る、手紙を持ってくる、約束をした、それだけで、私は生意気にもうんうんとうなずいたり、そうだね、来るね、なんてませたことを言ったりしながら、にこやかにほほ笑む彼の横顔を時々眺めて満足をしていた。
――そこに何かがいるのね? そう、天井にも、壁にもいる。えっ? ぬいぐるみを持って行っちゃったの? そう。それは悪い子ね。
――大丈夫。私が取り返してくるわ。だから、どこに行ったのか教えてちょうだい。それまで、目を閉じていればいいの。お姉ちゃんが良いよっていうまでじっとしているのよ。約束ね。
数えきれない雨の日々が過ぎ、久しぶりに空が晴れた日、私が一人ベンチに座っていると、今日も壁と壁の隙間をぬってゆっくりと紳士がやって来るのがわかった。その先に何があるのか私は知らなかったし、そっちへ行ってはいけないよと言われていた私は、約束を守って隙間から紳士が来るのをただ黙ってみることにしていた。
あの先に何があるのか、そのことよりも紳士がそこからやってくるそのことが何か素敵なことのように思えたから。
紳士が無言のまま、私の横にチョコンと腰掛けたので、今日も来たんだね、と囁くように話しかけてみると、今日も来ました、と刈り上げた白髪をそっと撫でながら、平坦な声でいう。いつもと変わらない声を、私はひっそりと息を飲み込むことで、受け止める。
小さかった頃の私には、まだ紳士の声をきちんと受け止めることが出来なかったのだ。
そのころには、私にも紳士を観察できる余裕が生まれていた。
紳士は余分なものを全てそぎ落とした顔をしている。私は横から彼の顔を見上げて、それらをつぶさに観察した。眉間に刻まれた、六本の皺、太い血管が浮き出した首筋、控えめに浮き出た鎖骨、そして瞳に映る空の雲。それら全ての小さな記号が、紳士の顔を紳士たらしめていた。
今の私にとっての紳士は幼い時に見た、その記号を組み合わせたそれでしかない。
私がじっとみつめていても、紳士は私など最初から存在しないかのように、手に抱いている猫の人形の頭を撫でながら、いつも前だけを見つめている。猫の髭がそよぐと、紳士の長い髭もそよそよと揺れる。時々強い風が吹くと、短い白髪を押さえて、じっと空を見上げる。私も釣られて空を見上げるが、そこには何もないことを私は知っている。もしかしたら、彼にしか見えない何かがそこにあるのかもしれないと、海から目を空に移して、雲の数を数えたり、飛ぶ鳥の種類を頭に書き留めたりしてもみたけれど、そこから紳士を感じることは出来なかった。
私が黙って空を見上げていると、紳士が話しかけてきた。紳士は滅多に喋らない。
「手紙が届くのを待っています。遠い昔の手紙です。船が届けてくれるのです。紳士は船長と約束したのです」
前にも聞いた話だったけれど、今日聞いた『船』、という言葉は何故か私を大きく動揺させた。
おもわず、どうしてなの、と私は紳士の腕を掴んで聞いていた。
「約束なのです。約束は守らなければいけません。お嬢さん、紳士は約束を破りません。紳士はずっと待つのです」
「船はいつくるの? あそこの海にくるの?」
「いいえ、船は空からやってきます。あの海は船の鏡です」
紳士はよく分からないことを話し、微笑みながら何度も頷く。
彼の瞳は初めて私と会ったあの日以来、ずっと空を見つめたままだったけれど、彼がしっかりと眼を閉じているのがわかった。
私と話すとき、紳士はいつも猫に話しかけるように、無言で口を動かしながら言葉を紡ぐ。細い眼を、より一層細くしぼり、人形をじっとみつめる。その間も、猫の頭を撫でることはやめない。そうやって、猫の膨らんだ身体の内側にぎゅうぎゅうに敷き詰められた綿の一線から、確実なものを探し出して、そこに秘められた言葉を解読するのだ。
幼き日の私が、大切なクマのぬいぐるみの中に暖かい言葉を見つけたように。
やがて、紳士がそっと微笑むと、私は彼が目的の言葉を探り当てたことを知る。
私が無言のままでいると、紳士もそれ以上何も喋らなかった。瞳は閉じられたまま、猫の頭を撫でる音だけが聞こえる。
時々、猫が紳士なのではないかと思うときがあった。紳士は紳士という名の人形で、猫こそが老人なのではないかと。
その想像は最初は素敵な事のように思えてきたけれど、だんだんと私の身体の奥にどんどん沈んで行ってしばらくするとどこかにくっついてしまった。
ふと、私は自分の内側が嘗てないほどの熱を持っていることに気づいた。それが何の意味を示すのかわからなかったけれど、これ以上此処にいてはいけないと思った。
私は無言でベンチを後にした。
病室に戻ったあと、診察を受けると、治療のためだとしばらく病室を出ることを禁じられた。今度の禁止命令は前よりも厳しくて、私はまた白の予感に襲われるのではないかとおびえていたけれど、そんな時は私の中にある猫がそっと静かに飛び出して、傍らにあるクマのぬいぐるみと共にその白色をぼんやりと包み隠してくれた。
そんな日々の中で鬱々としている私を先生は心配してくれたが、紳士の事は内緒にした。私、雨が嫌いなの、と言うと、僕は雨、好きだけどな、と返す。その、先生の甘ったるい声と返答は私を余計に暗い気持ちにさせた。
その夜、私が眠れない頭を持余していると、遠く海の方から汽笛の音が聞こえた。海が近いのに、その音を聴くのは初めてだった。
私は高熱を出して臥せ、短い船の夢を見た。
はるか上空を飛ぶ船の底を私は仰ぎ見ている。心はざわつき、一生懸命に目を凝らすが、見えるのは鈍く光る銀色の船底だけ。にゃーと猫の鳴き声がする。後ろを振り返れば、一匹の猫が前足をそろえて鳴いているのが見えた。
君も、紳士に置いて行かれたんだね。そう私がつぶやくと、猫は踵を返して隙間の向こうへ行ってしまう。
追いかけようとした私を追いかけるように船の汽笛が鳴り響く。仰げば船は消え失せ、真っ白い曇天。振り返れば隙間は閉じて真っ白い外壁。
私はその白さに紳士の姿を浮かべまいと必死に抵抗し、泣き叫んでいた。
そして目が覚める。外はいつも雨だった。
姉は私がうなされている間、ずっと病室のベッドの横にいて手をつないでくれていた。そのぬくもりは私を安心させたが、目を閉じればまた汽笛が聞こえる。
ねぇ、失くしたものはない? いつだったか夢うつつの私に姉が訪ねたことがあった。私はなんて答えただろう。
そう、確か紳士について話したのかもしれない。
紳士の失くしものを探してあげて、と。
一ヵ月後、外出の許可が出た。私が部屋に篭っているあいだに、雨が十三回降り、虹が二つ生まれていた。猫はどこかへ行ってしまったようで、私の中にいた何かも消えてしまったように思われた。
透き通るような蒼天を窓の外へ見たその日、私はこれまで恐れてきた白を友達と思うことに決めた。
友達なら、許せるでしょう? 元気を取り戻した私にそう教えてくれたのは姉で、姉の言葉はいつも正しかった。
そのことを紳士に伝えたくて、私は他の人に気づかれないように、早足で病院の中庭を駆け抜けた。途中何人かの看護師を見かけたけれど、皆一様に慌しく、私の事など見えないようだった。
すっかり色あせたアジサイの間を通り抜けて、いつものベンチへと向かうと、そこには猫が一匹座っていた。紳士が持っていた猫の人形にそっくりだった。
夢で見た猫。不吉な予感に背中が泡立つけれど、走りだせばすべてが消えてしまう気がした。
足を忍ばせて、私がそっと隣に座ると、猫はヒラリと地面に下り、私の足をザラザラした舌でペロリとなめた後、紳士がいつもやってくる路地を通り抜けて向こうへ行ってしまった。
隙間は白に覆われることなく、いつものジメジメとした暗闇で、私はこれが夢でないことに安心した。
けれど――
紳士はどこへいったのだろう? あの猫はいつのまに人形であるのを止めたのだろう? 混乱した頭の中で、船を海に捜していた私は、遠い水平線の彼方に、小さな帆船を見たような気がした。
もしかしたら、空と青の境目に紳士はいるのだろうか?
ふと、猫が座っていたベンチの上をみると、雨に濡れてなのか、もともとそうであったのか、茶色く変色した手紙が落ちていた。字は異国のものでほとんど読めなかったけれど、それに触れた瞬間、私には紳士が旅立ったことがわかった。
涙があふれだす。悲しいからでも、うれしいからでもなく、ただ意味も分からず溢れ出す涙の粒。私はそれを止めるすべを知らず、ただ首元に零れ落ちるままにして、にじむ空を仰いだ。
紳士は約束を守る。そうなのね。
私の中にあったざわめきは少しずつ絡まりあって、いつのまにか溶けてなくなっていた。海は青く、空は青く、雲はどこまでも白くて、姉の私を呼ぶ声が、どこからから聞こえる気がする。
「船に、帰ったのね」
そう呟くと、遠くから、汽笛とも悲鳴ともわからない音が鳴り渡った。
バラッと縄梯子が下りる音がする。
私は空を見上げて、そっと息を飲み込んだ。
姉が亡くなって四九日が過ぎた。
紳士のことを思い出したのは、姉の遺品の中に私が抱いていたぬいぐるみと、紳士の抱えていた猫のぬいぐるみが一緒にしまわれていたからだ。
小高い丘の病院に入院していた小学生のころ、私は確かにその場所にいたのだけれど、記憶はどこかおぼろげで、最後の断片は空を見上げた一瞬で終わっている。
汽笛のような音と、そして、何かわからない不吉な音。
そこに何を見たのか、今になってはわからない。
病院を退院した後、私は故郷を出て姉と二人異国の地へと渡った。二度と忘れまいと振り返ったこの丘の景色を、今こうして眺めていることに不思議な感慨を覚える。
あれから十年が過ぎ、私は大人になった。丘の病院はその後閉鎖され、今はその跡地が大きな公園となっている。
私は姉の遺影を胸もとのロケットに抱え、傍らに下げたトートバッグにぬいぐるみを詰めて、あのアジサイが咲く道を歩いている。昨夜降った大雨で地面はぬかるんでいたが、そのせいもあってか他に人は見当たらなかった。
ここへ戻る前に調べた町の話によれば、この場所は恋人の聖地になっているらしい。
丘のベンチで二人より添い、船の汽笛を聞けば、永遠に結ばれる。
そんなどこにでもあるような噂だ。
実際船を見たという人によれば、それは海を実際に航行する船であったり、蜃気楼に浮かぶ巨大な帆船であったりするらしい。だれも、空に船が浮かんでいたとは言わなかった。
話の起源は大昔にさかのぼるらしい。この丘の先にある岸壁から恋に破れて身投げをした女性が、外国の船に拾われて異国で結ばれたという話。それと、身投げをした女性が船になって、津波に襲われた村へ流れ着き、多くの村人を救ったという話。
どちらにしろ、身を投げなければ始まらないのならば、ここは恋人の聖地というよりも自殺の名所と呼ばれてもおかしくないのかもしれない。
自殺、という言葉を思い浮かべて、病気でやつれた姉が最後に残した言葉をもう一度思い出す。
「覚えているかしら、貴方が小学生の頃に入院した病院。あそこにね、大切なものがあるの。私にも、あなたにも、大切なものよ。私は、もう行かなければならないの。だから、お願い。アジサイの咲く季節に、あの丘に行って、確かめて来てほしいの。大丈夫。怖くないわ。もう、白は苦手じゃないでしょう? ――――ふふ、子ども扱いしてごめんなさいね。でも、約束よ。愛してるわ」
言葉はとぎれとぎれで、弱弱しかった。言葉の意味のすべては理解できず、聞き返せばよかったと思ったのは姉が旅立ってからのことで、その時にはただ姉の瞳を見つめることしかできなかったのだ。
私はそんな丘のベンチに一人腰かけて、かつて見た空を仰ぐ。
空はどこまでも深く、当然そこに船は見えない。
気分は不思議と穏やかで、私はバッグからぬいぐるみを取り出して抱きしめた。幼いころ、私を守ってくれたクマのぬいぐるみは、不思議とカビや汚れも見当たらず、どこか甘い匂いがした。
姉が洗ってくれたのかな。きれい好きな姉のことだから、きっとそうだろう。
裏返すと、背中の真ん中に大きく私の名前が書かれているのが目に入った。そう、私は失くしものの名人だった。それらを見つけてくれたのはいつも姉で、大切にしていた消しゴムも、髪留めも、いなくなってしまった飼い猫も、見つけてくれたのは姉だった。
最初は見つけれなかったといっていたサクラの墓を、教えてくれたのは私が思春期を迎えたころだった。うすうすと気づいていた現実だったけれど、あの頃の私にはそれが必要だったのだ。
一つの区切りとして、一つの終わりとして。
「そっか、いつもお姉ちゃんが、見つけてくれたんだ」
今更ながら気づかされる。私が失くしたものは、すべて姉が取り戻してくれた。
じゃあ、姉を亡くした今、誰が私の失くしものを探してくれるのだろう。
ふいに涙がこみあげてきて、慌ててバッグからハンカチを取り出す。その拍子に、薄汚れた綿がほろりと飛び出してきた。
「これは、猫の綿?」
猫のぬいぐるみを取り出して眺める。昔見た、紳士の猫。このぬいぐるみも多少色あせてはいたが、ほとんどは記憶の中にある当時のままで、匂いはクマと同じ石鹸の香りだった。
ベンチに座らせようとぬいぐるみを抱えたとき、そのおなかの中に何か固いものがあることに気付いた。手を当てて探ってみると、それは四角く身体の奥に埋もれているようだった。
どこからか中身を空けられないかと探ってみるが、すべての縫い目は固く閉じられて、ほつれた隙間を少し押し広げてみても、何か黒い塊が見えるばかりだった。
ぬいぐるみを破くわけにはいかないし。それは、姉も、紳士も望んではいないことだろう。猫は猫のまま、この中身はこのまま封印しておくべきなのかもしれない。
私はそう決心し、ぬいぐるみを強く抱きしめた。身体が小さく、幼いころにはできなかったことが、今ならたやすくできる。
ぬいぐるみからは姉のにおいがした。
私がもう一度ぎゅっと抱きしめると、
「ニャーッ」
ぬいぐるみは少しとぼけた鳴き声で一声鳴いた。
驚いて手元のぬいぐるみをじっと見る。もう一度強く抱くと、猫は甲高い声でニャーッと鳴いた。そうか、あの中身は機械仕掛けだったのか。
私はあっけなく判明したその事実に苦笑し、そして大きく笑った。笑い声が止まらず、息ができず、涙があふれ出て止まらなくなる。
そう、そうね。お姉ちゃんはいつも、正しかったわ。
ひとしきり笑い、泣き、息を整えて、私は強く目をつぶった。
風がいっしゅん強く吹き、土のにおいを鼻先に届ける。そして静寂。
汽笛が聞こえる。
私は瞼を閉じたまま空を見上げた。
視界は漆黒から白へ変わる。ばさり、と何かが落ちる音が聞こえる。
船底から伸びている梯子、その先に手紙を持った紳士がいるのだろう。
その予感に瞼が震える。
瞼を開けばもう戻れないかもしれない。あたりは汽笛の残響を残して静まり返っていた。
ふと耳をすませば、姉の呼ぶ声が聞こえる。
それは空からも、胸に抱えるロケットからも聞こえるような気がした。
ベンチから立ち上がり、そっと息を飲み込む。
振り返り、目を開けばアジサイの道が静かに続いていた。
私は涙をぬぐうと、ぬいぐるみを拾い上げて、駆け出した。
汽笛は微かに遠く消え去り。
紳士のほほえみは朧に優しく。
姉のぬくもりは胸の上にあった。
過ぎ去ってゆく色彩の波の片隅に、猫の姿を見かけた気がした。けれど立ち止まることはしない。私は走り続けなければならない。
この道を抜けた、白い陽光の先に何があるのだろう。
――――汽笛はもう聞こえない。