第五十五話
「助けて……」
馬鹿だ……。
黒川達に嘘をついておきながら助けを求めるなんて。
黒川達は昼過ぎに帰ると言っていたから、早くて後二時間。
逃げなくちゃ。
肩に乗せられた手を振り払って、全速力で走る。
後は屋敷の何処かに身を潜め、黒川達が帰って来るのを待ち続ければ……。
でも、恐怖で全身が固まって、体が思うように動かない。
駄目だ。
二時間も引き伸ばせない……。
閉じていた目をさらに固く瞑った。
「ジャージーちゃん。
目を閉じたってことは、OKのサイン?」
ピアスの男の声が耳元で聞こえる。
目を閉じればOK? 何が? ……まさか結婚?
嫌だー! 何処のしきたりだー!
思い切り首を横に振ろうとしたけれど、体が固まって振れたかどうか分からない。
「た、助けて……。黒か……」
「その手を放してもらえるか?」
声を振り絞るのと同時に、聞き覚えのある低い声がした。
そっと目を開くと、隣に黒川が立っていた。
「く、黒川……」
黒川は涼しげな顔で笑みを浮かべているけれど、目の奥は全く笑っていなかった。
黒川が怒っている……。
滅茶苦茶怒っている……。死!
「ハァ? 誰だ? お前」
ピアスの男は私の肩を掴んだまま、黒川に向かって言った。
「黒川だ。
聞こえなかったか? 今すぐその手を放してもらおうか」
「黒川? だから誰だよ?
どうせ執事か何かだろう?
執事が主人の遊びにいちいち口を挟むなよ」
「俺はコイツの執事ではない」
「黒か……、エ……?」
そうなの? そうだったの?
私は爺ちゃんの本当の孫ではなかったの?
この屋敷で過ごした時間は何だったの……?
「私は誰? ここは何処?
明日から、何を信じて生きていけば良いのでしょうか」
「お嬢、どうした? 大丈夫か?」
「私は爺ちゃんの本当の孫ではないのでしょう?
……もしかして、父さんや母さんの娘でもなかったのですか?」
「お嬢、何を言っている」
「だって、黒川は私の執事ではないって……。
私はこの屋敷のお嬢様ではないのでしょう?」
「お前は爺さんの孫だ。
だが俺はお前から一円も貰っていない。
だからお前と俺に主従関係は成立しない」
あ。そういう意味か……。納得。
「でも、黒川。
爺ちゃんから貰っていた給金の中に、私の分も含まれていたのではないでしょうか?」
「残念だが、一円も含まれていない」
「嘘だー。一円ぐらい入っていますよ」
「あのさー。
二人とも、今の状況を忘れていない?」
ピアスの男がため息をつきながら言った。
すっかり忘れていた。
私はピアスの男に肩を掴まれて、体が固まったままだ。
「……。その手を放してもらおうか」
……。
黒川も忘れていたようだね。
「屋敷の前にタクシーを呼んでいます。
その薄汚い手を放して、大人しく帰っていただけませんか?」
いつの間にか、白石と青田が部屋の扉の前にいた。
「……チッ!」
ピアスの男は黒川を睨んだが、妖しげに笑う黒川を見て私の肩から手を放し、舌打ちをして、白石達と一緒に部屋から出ていった。
黒川は黙って私のベッドに腰を掛けた。
黒川、怒っている……、よね?
「……黒川」
「何だ?」
「怒られるのを覚悟で言います」
「……」
「黒川達がいない間……、怖かったです」
「馬鹿」
「……ごめんなさい」
その言葉を口にした瞬間、涙が溢れた。
「……。ここに来て座れ」
黒川が、腰を下ろしているベッドの隣を軽く叩きながら言った。
「黒川……。
そちらに行きたいのは山々ですが、恐怖で体が固まって動けないのです」
「……」
黒川は黙ってベッドから立ち上り、私に近付いて来た。
ヒィ!
もしかして殴られる?
「黒か……、ギャー!」
黒川は私の体を抱き上げ、そのままベッドに放り投げた。
ガチガチに固まった私の体が、スプリングベッドの上で跳ねた。
「見て、黒川。よく跳ねます」
「馬鹿」
「……うん。馬鹿です」
黒川は再び私のベッドに腰を掛けた。
「お前、本当に体が固まっているんだな」
「はい」
「フッ……」
黒川が小さく笑った。
「黒川……」
「何だ?」
「もし黒川が助けに来てくれなかったら……。
今頃私はどうなっていたのでしょう」
「さあ? 何処かに売られていたんじゃないか?」
「え」
「だが買い手がつかなくて、お前の食費ばかり嵩むから、そこら辺のジャングルに捨てられて」
「えー」
「数年後、お前は動物たちを従えて、ジャングルの王に君臨していそうだな」
「……」
「……で。たまたま俺と奇跡の再開を果たすが、お前はすっかり人間の言葉を忘れて……」
「黒川……。
よく私でそんな壮大なストーリーが思い浮かびますね」
「フッ……」
黒川は、硬直した私の体の上に布団をかけた。
「黒川……」
「何だ?」
「本当に怖かったです」
「……」
「男の人と付き合うって、こういう事なのでしょうか?
触れられるたび、恐怖で体が固まって……。
毎回こんな思いをするのなら、私は一生恋愛などしたくはありません」
「相手によるだろう。
本当に好きな相手の前なら、お前も自然体でいられるんじゃないか?」
「でも怖い。今回の事は全て私が悪いけれど……。
もう二度とあんな目に遭いたくない」
ベッドの上で仰向けで固まったままの私の涙は、拭うこともできず、頬をつたって耳の中に流れ込んでいった。
黒川が私の顔を覗き込みながら、頬に触れようとした。
「……!」
咄嗟に私はぎゅっと目を閉じた。
「……フッ」
黒川は、私の涙を拭おうとした手を引っ込め、静かに笑ってベッドから立ち上がった。
「黒川、違う……」
「昼飯の仕度をしてくる。
準備が出来たら呼びに来てやるから。
それまで大人しく寝ていろ」
黒川はタンスの引き出しからタオルを出し、私の目の上に乗せて部屋から出ていった。




