第六十六話
結局、私は黒川の車で学校に行った。
赤井も桃も、昨日の事を黒川から聞いたのだろうか……。
皆黙ったままで、車内に重い空気が流れていた。
教室に入ると、賑やかだった教室が一瞬静まり返り、やがてヒソヒソと小声で喋る声が聞こえてきた。
青田が学校を辞めても、昨日の事が全て無かったことになるわけではない。
私は自分の席に着いて俯いた。
今日一日が早く終わればいいのに……。
昼休みになると、皆カフェテリアに行ったり教室で机を合わせて弁当を食べ始める。
いつもならエビちゃんと一緒に弁当を食べるけれど、多分、今日は一人で食べなければならないだろう。
「さち子」
鞄の中から黒川が作った弁当を取り出していると、後ろから声を掛けられた。
「エビちゃん……」
「さち子……。
今日はカフェテリアでランチを食べるんだけど……」
「エビちゃん、早く行こう」
エビちゃんの言葉を遮るように、クラスメイトがエビちゃんに声を掛ける。
「あー。エビちゃん、行ってきてください。
私はお弁当を持って来たから……。
そうだ。用事があったんだ。……行ってくるね」
「あ……。うん」
私は鞄を持って教室を出た。
弁当、何処で食べよう……。
なるべく目立たない場所がいいな……。
校舎裏の、人が来ない場所を選んで座り、弁当箱を開けた。
一日中、日の当たらない校舎裏は、ジメジメして地面も湿っている。
スカートが汚れて白石に怒られるかな……。
卒業するまで、ずっとここで弁当を食べるのかな……。
色々考えていると、弁当の上に涙が落ちた。
「どうした?
弁当なんか、一人で食っても美味くないだろう」
声がしたので、慌てて涙を拭って見上げると、目の前に白石が立っていた。
「……なんて。
学園ドラマで熱血教師が言いそうなセリフですよね。
俺はそんなセリフ、絶対言いたくありませんけど」
「白石。
しっかり口に出して言っていますよ?」
「そうですね」
白石が私の隣に腰を下ろした。
「白石……。ズボンが汚れますよ?」
「そうですね。
ここは湿度も温度も風景も……。
全ての点において不快指数が高すぎます。
お嬢。よくこんなに不快な場所で弁当が食べられますね」
「いいです。
弁当なんて、一分で平らげますから……」
私が俯くと、白石が溜め息をついた。
「……。
仕方がないですね。
特別に、とっておきの場所を教えてあげましょう。
少し待ってください」
そう言って白石は立ち上がり、ポケットから除菌ペーパーを取り出して、ズボンに付いた汚れを拭き取り始めた。
「アアッ!
汚れが落ちない!
しかも、毛羽立った除菌ペーパーの繊維がズボンに付いて、ますます大変な事に!
何なのですか、一体……」
白石……。
お前こそ何なんだ、一体……。
「お嬢。俺に付いて来てください」
「でも……。
私と二人でいるところを誰かに見られたら、また問題になりますよ」
「俺はお嬢の担任ですよ?
こんなに薄暗い校舎の裏で、泣きながら弁当を食べている生徒を見つけても、無視しなければならないのなら……。
教師なんか辞めてやります」
「私……。泣いてなんかいません」
「……。そうですか。
じゃあ、行きますよ?」
白石がそう言って私を待たずに歩き出したので、私は弁当箱の蓋を閉じ、鞄に入れて白石の後を追った。
誰にも見られないよう、白石から少し離れて歩いていると、白石が急に立ち止まった。
「この木……」
「白石。どうしたのですか?」
「俺が学生だった頃から、ずっとここにある。
懐かしいな……」
「あー。そう言えば白石が教師としてこの学園に来た時も、そんな事を言っていましたね」
「お嬢。こっちです」
白石が手招きをして、木々に囲まれた小さな木製のベンチを指差した。
「え? このベンチ。
ペンキ塗りたての貼り紙が付いていますよ?」
「大丈夫です。
この貼り紙は、誰にも座られないように、毎朝俺が貼り替えているものですから」
白石は張り紙を剥がして丸め、再びポケットから除菌ペーパーを取り出して、ベンチを丁寧に拭いた。
「学生時代……。
俺は毎日ここで、買ってきたパンを食べていました」
「毎日?」
「晴れの日も雨の日も、真夏の暑い日も真冬の寒い日も。
晴れている時は、このベンチに座って。雨が降っている時は、あの校舎の軒下で。
さすがにどしゃ降りの日は、仕方なく教室で食べていましたが……」
「……」
「どうぞ、座っていいですよ?」
ベンチは相当年季が入っているように見えたけれど、白石が毎日拭いているためか、汚れが一つもない。
私がベンチに座ると、白石もその隣に座った。
「白石……。
白石も学生時代、学校で嫌な事があった?」
「沢山ありましたよ」
「そう……」
「学校は実に不衛生な場所です。
そんな不衛生極まりない空間に集められて、一日の大半を過ごさなければならないのですから。
風邪気味の奴や、唾を飛ばしながら授業をする教師がいる日は地獄です」
「あー……」
「靴箱という名の『菌培養庫』に手紙やお菓子が入れられていた時は、全身鳥肌が立ちましたよ。
あれは、俺に対する嫌がらせですね」
「手紙やお菓子?
白石、学生の頃から人気があったのですね。
私には何一つ白石の良さが分かりませんが……。
じゃあ、その中に気になる子はいましたか?」
「は? 何故、そんな無神経な人間を気にしなければならないのですか?
『菌培養庫』に入れられた物は、即ごみ箱行きですから。
誰が入れていたかなんて、知りませんよ」
「うわぁ……。白石先生、酷い」
「ハハハ。
……。青田君は昔から人付き合いが上手かったから、友人と学食で食べて、黒川君は部活の昼練に励んでいましたね。
俺はここで雲を眺めたり、昼寝をしたり……。
あの校舎から聞こえてくる吹奏楽の練習の音が心地よくて……。
一人でいるのも、悪くはないですよ?」
「うん。一人は嫌いじゃないよ?
エビちゃんと友達になるまで、赤井と桃以外、仲の良い友達はいなかったし……」
「エビちゃん?
ああ……。
クラスの網代エビの事ですか?」
「そうです。
白石。担任なんだから、生徒の交遊関係ぐらい把握しておいてくださいよ」
「ハハハ」
「……。
一人でいるのは、嫌いではないですよ。
ただ……。
青田が、青田の思い出の場所にいられなくなってしまったのが……」
「お嬢が原因ではありませんよ」
「分かっています。
青田にも『お嬢は関係ない』と言われました。
それでも青田の気持ちを考えると辛いのです」
「……。
お嬢。そろそろ教室に戻りましょう。
俺は一度、職員室に寄ってから教室に行きますから」
白石は、そう言って先に行ってしまった。
白石。少し怒っているのかな……。
昔から私がウジウジしていると、真っ先に白石に怒られた。
それを青田が慰めてくれて……。
今、慰めてくれる青田は、ここにいない。
私は水道の水で顔を洗い、教室へ向かった。