脱落
「……ロス。起きなさい」
遠くの方から声が聞こえる。
「カルロス。おい、カルロス起きろ」
誰かに肩をつつかれたような気がする。
もうちょい寝かせてくれ……。
「チッ」
舌打ちとともに、いきなりぐにゃりと踏まれた。
「うぎゃっ」
カルロスは飛び起きると頬をおさえた。
「師匠。顔は反則っすよ」
「おまえがさっさと起きないからだ」
クレメンスは涼しい顔でこたえた。
「相変わらず、ひでぇよなぁ……」
カルロスはブツブツ言いながら立ち上がった。
「カルロス」
クレメンスに視線で促され、そちらの方を見ると、ひとりの師範魔術師――シメオンがゆらゆらと揺れていた。
限界のようだった。
カルロスはすぐにシメオンのそばへと移動した。
シメオンは脂汗をにじませ、荒い息を吐いていた。
「シメオン先生、代わります」
カルロスは呪文を唱えながら準備をする。
シメオンは返事をすることすらできない様子で、ゆっくりと手を動かす。
引継ぎが失敗すれば、魔力の均衡が崩れてしまう。
結界が消失してしまうおそれがあった。
ふたりは慎重に慎重に魔力を操作する
シメオンの手からカルロスの手に魔力の束が移った。
カルロスに大きな負荷がかかった。
予想以上の負荷に、カルロスの足元が揺らいだ。
カルロスは気合を入れ、何とか踏みとどまった。
「カルロス、大丈夫か?」
クレメンスが結界を介して語りかけてきた。
「なんとか」
カルロスがそう言ったと同時に、シメオンがドサッと崩れ落ちた。
シメオンを助け起こしてやりたかったが、今のカルロスにはこの結界を維持するので精一杯だった。
それぐらい重い負荷がかかっていた。
「カルロス先生、油断しちゃったねぇ~。うひゃひゃ」
結界を介して珍妙な笑い声が響いた。
この笑い方はニコラスだ。
「けっこうきついっすねぇ」
カルロスは態勢を整えると言った。
結界内では、結界を維持している師範魔術師たちが会話を交わしていた。
大きな負荷がかかっているとは思えないくらい、明るくのんびりとした雰囲気だった。
カルロスは少しだけほっとしていた。
この様子なら、しばらくは大丈夫だと思われた。
「エナプロトス山の噴火にお目にかかれるとは、長生きはするもんじゃ」
最長老のディミトリアスがそう言った時だった。
山の内部から大きな力が駆け上ってきた。
結界内の緊張が一気に高まる。
山が大きく唸った。
カルロスは歯を食いしばり、なんとかその衝撃に耐える。
結界に先ほどまでとは段違いの負荷がかかった。
衝撃は何とか乗り越えたものの、この負荷にいつまで耐えられるのか、カルロスには見当もつかなかった。
カルロスは、ひとりの師範魔術師の魔力がゆらゆらと不安定に揺れている事に気がついた。
ヤバい。
そう思った瞬間、その魔力が途絶えた。
ガクッと負荷がかかる。
とっさにクレメンスとニコラスが魔力を操作して結界の均衡を保持する。
カルロスは何とか態勢を整える。
他にも魔力が細くなってきている師範魔術師がいる。
現在、結界内にいる師範魔術師の中で、まともな働きをしているのはクレメンスとニコラス、そしてカルロスだけだった。
結界の要を握っているクレメンスに負担がかかりすぎている。
クレメンスが倒れれば、この結界は消失する。
それは、噴火を意味していた。
結界で押さえていなければ、エナプロトス山はすでに噴火をしている。
先ほどの大きな衝撃こそが噴火の瞬間だった。
カルロスは限界に近い状態だったが、まだ限界ではなかった。
最悪のケースを少しでも先延ばししたい。
カルロスは魔力を強めた。
クレメンスが魔力を緩める。
「ディミトリアス先生、あとどれくらい持ちこたえられそうですか?」
魔力が揺らいできたディミトリアスにクレメンスが声をかけた。
「若いもんにはまだまだ負けん」
ディミトリアスは強い口調でそう言ったが、魔力は揺らいだままだった。
あとどれくらい維持できるのだろうか。
避難が完了するまで持ちこたえるられるのだろうか。
結界内は静まり返った。
また一人脱落した。
櫛の歯が欠けるように、次々と結界を維持している師範魔術師が脱落していった。
残るは、クレメンス、ニコラス、ディミトリアス、カルロスの四人だけとなった。
「ディミトリアス老、生きてますかぁ?」
ニコラスが軽い調子で言った。
「生きておる」
「おぁ。もう死んじゃったかと思った」
ニコラスはおどけた様子で「イヒイヒ」と笑った。
「生きておる!!」
ディミトリアスは憮然とした様子でこたえた。
「そんなに怒っちゃやーよ。年寄りは気が短いから困るよ。ねぇ、カルロス先生」
ニコラスは茶化しながら言った。
「俺に話を振らないでください」
カルロスは慌てて言った。
ディミトリアスの怒りがひしひしと伝わってくる。
「つまんない。ねぇクレちゃん、静かだけど、そろそろ限界?」
ニコラスはも楽しそうに言った。
「ニコ。お前、眠いだろ……」
クレメンスがため息まじりに指摘する。
「よくご存じで。意識混濁三秒前ってあたり? あひゃひゃ」
ニコラスの珍妙な笑い声が結界内をこだまする。
カルロスも似たような状態だった。
限界をとっくに越え、気合だけで維持していた。
クレメンスのそばにフランクが現れた。
「避難が完了いたしました」
待ち人の来訪に結界内の緊張が和らいだ。
「そうか。では打ち合わせ通り、結界に関わっていない者たちを連れて避難してくれ」
クレメンスの指示にフランクはうなずくと、倒れている師範魔術師たちを次々と協会本部へ送った。
「私も加わります」
フランクは呪文を唱え始めた。
「いや、必要ない」
クレメンスはきっぱりと言った。
一人や二人加わったところで、この状況は全く変わりようがない。
むしろ、下手に加われば、結界内の魔力の均衡が崩れ、結界が壊れてしまう可能性のが高かった。
それくらい危うい均衡で結界は維持されていだ。
「しかし……」
フランクは眉根を寄せながら結界を見回す。
「お前がここに加わっては、指示するものがいなくなる」
「では、誰か別の者を……」
「必要ない。この面子で充分だ」
「ですが……」
「避難してくれ。私たちもすぐに後を追う」
クレメンスが言った言葉が嘘であるということは、誰の目にも明らかだった。
エナプロトス山は結界を張らない状態であったなら、すでに噴火を起こしていた。
それを無理矢理おさえこんでいる状態だ。
結界を解除した瞬間に大噴火を起こす。
カルロスたちに避難する猶予はない。
優秀な師範魔術師ならば、数秒の時間があれば避難できるはずだった。
しかしこの状況では、その数秒すらない。
結界を維持しながら避難する準備をし、解除の瞬間に避難できるほどの余裕はなかった。
「フランク、本部で待機しなさい。これは業務命令だ」
クレメンスは強い声できっぱりと言った。
「……承知しました」
フランクは視線を落としながらこたえると、一礼をして消えた。