第1話 お迎えをミスったようです
天使と人間の入れ替わりから始まる、ゆるい日常コメディです。
ふわっと楽しんでいただけたら嬉しいです。
雨上がりの交差点には、まだ薄い水膜が残っていた。
青信号へと変わる刹那、遠くでクラクションが二度鳴るのが聞こえた。
光が、視界の端で跳ねたように揺れる——。
靴底が水たまりを噛む。私はたしかに地面を蹴ったはずだった。
結構、真面目に生きてきたつもりだったけどなぁ。
そんなことは関係ないのも、頭では分かってはいるけれど、心のどこかで自分とは無縁の世界だと勝手に思っていた。
……なんの根拠もないのにね。
誰にでも訪れうる、あっけなく壊れる世界——。
私の意識は、ぐるぐると回転しながら横倒しになり、泡の中へ沈むみたいにゆっくりと遠のいていった。
——暗転。
目を開けると、そこは“あの世との境目”みたいな場所だった。
白い霧のような空気。足元はどこまでも透明で、落ちる感覚もない。
幻想的で、ただ、すごく静かだった。
「……あれ、やっぱり私……死んじゃった、のかな」
呟いた自分の声が少し遅れて返ってくる。
反響は柔らかくて、耳の奥をそっと撫でて消えた。
「はい、魂番号3008−A、白石 澪さんですね。お迎えに参りました。担当のリリアと申します」
柔らかい澄んだ声——。
前方に、光の粒をまとった女の人が立っていた。
清楚なロングスカートに、白く綺麗な羽。
天使の輪なのだろうか。細い光の線が、美しい金髪の上に浮かんでいる。
目元は優しそうで落ち着いていて、神々しいというよりは“きちんとした事務員さん”って感じだった。
「あ、あの……あなた、天使さん、ですか?」
「ええ。天界の魂転送課に配属されています。先ほどあなたの人生史を確認したところ、問題なく天国に行ける要件を満たしていました。これから転送を──えっと、魂リンク照合……」
リリアは胸元からスマホみたいな赤い端末を取り出した。
半透明のパネルから細かな英数字が流れ出し、指先でスクロールするたびに光が舞う。
「3008−A……3008……あれ、A? あれれ……」
リリアの眉が寄った。
なんだか嫌な予感しかしない。
「ま、待って、あの……落ち着いて?」
端末がピコンピコンと明滅し、彼女は画面に向かって必死に話しかけている。
かなり焦っているその姿は、どこからどう見ても新人だ。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけてみたけど、どうも聞こえてないらしい。
彼女の端末から金色の数字がちらちら舞い始めた。
次の瞬間——。
ビーッという大きな音が鳴り、数字が真っ赤に染まって崩れ落ちた。
【ピコン♪】
軽やかな音とともに、画面から文字が浮かんだ。
KAMI ver 7.3β:「重大な登録エラーです。ID認識ズレを検出しました」
「えっ、うそ!?」
リリアが顔を上げた。私もつられて上を向く。
天井は……ない。ただ、ずっと遠くで円環状の光がゆっくり回っている。
潮騒みたいなノイズが降ってきた。
「えっと……私の端末エラーみたいです。セーフモードで強制転送しますね。大丈夫、大丈夫……多分」
多分って言った。今、“多分”て言ったよね?
ビービー……再照合します……再照合します……。エラー……エラー。資格が確認できません——これより強制執行に移ります。
誰が聞いてもあからさまに不穏な機械音声が響きわたった。
「え、ちょ、ちょっとまっ——あっ。白石さん、私の手を掴んで!」
リリアが焦った顔で手を伸ばす。
その指先が、私の右手に触れるか触れないか——。
そして、光が弾けた。
世界が反転し、落ちる感覚が戻ってくる。
ふわり、と胸のあたりを何かが通り抜けた。
生きてるなら、今きっと心臓が跳ねてるはずだ。
まぶしい。
まぶしい、まぶしい——。
あぁ、私、本当に死んじゃったんだ。
* * * * *
ゆっくりと目を開けると、白い部屋の中だった。
今度はちゃんと“天井”がある。
蛍光灯の輪っかが二重にぶら下がっている。
鼻につくかすかな消毒液の匂いと、近くで規則的に鳴る電子音。
下を見ると、たくさんの医療関係者に囲まれてベッドの上に寝ている“私”が見えた。
あ、これ……病院? 幽体離脱?
そう思った瞬間、ベッドの上の“私”が目を開けた。
「先生、白石さんが一命をとりとめました!」
「やりました!まさに奇跡です!」
医者らしい女性が涙ぐんでいる。
え? 私、ここにいるけど。
ていうか、今しゃべってるの、私じゃない。
ふわふわと浮きながら鏡をのぞくと——。
そこに映っていたのは、あのお迎えに来た天使さんの姿だった。
ゆっくりと手を持ち上げる。
顔の前に見慣れない手。白く長い指。丁寧に手入れされている綺麗な爪。
私の手じゃない。
そのまま胸に手を当てると、鼓動を感じることができた。
……あ、生きてる。いや、生きてるってどういうこと?
【ピコン♪】
ポケットから音がした。取り出すと、見覚えのある赤い端末。
KAMI ver 7.3β:「天界への転送資格を満たさなかったため、白石さんの地上環境への再設置が完了しました。業務お疲れ様でした。帰還を許可します。天界ゲートを開きますか?」
「お疲れ様でした、じゃない!!」
思わず大声を出してしまった。
はっとして口を押えたけど、誰も気づかない。
……いや、一人を除いて。
ベッドの上の私が、私のほうを見ている……気がした。
変な感覚だ。自分と目が合うなんて、人生でそうそうない。
「白石さん、本当に良かった。もう大丈夫ですよ。とても状態が安定してきましたが、まだ当分は安静ですからね。また様子を見に来ますね」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
ベッドの上の私が、可愛く微笑んで軽く会釈した。
私って、こんな表情もできたんだ……。
目の前の自分がやり取りしているのを見て、なんだか胸の奥にぽかんと穴が開いたような。
顔も声も身体も覚えているはずなのに、表情の一つとっても他人に見える。
全部自分なのに、自分じゃない——そんな不思議な感覚。
女医さんたちが部屋を出た、その瞬間。
「——あなた、白石 澪さんで間違いないですか?」
「え、はい……え?」
しっかりと自分と目が合っている。
まさか自分から、自分に話しかけられるとは思わなかった。
「私、リリアです」
お、おう。
つまり——そういうこと?
「入れ替わったってこと?」
「恐らく……そうです。転送中に未知のエラーが生じたようで……」
私の顔が切なそうにうつむく。
「一般人には天使は見えないのですが、今の私にはあなたの魂が入っているので、認識できるみたいです。……とりあえず、それが救いです」
「いや、救いっていうか……この状況、誰がどう見ても大惨事だよね」
ありえない出来事のはずなのに、なぜか冷静にツッコめる自分に、少し笑えてくる。
「ポケットに赤い端末がありますか?それで神様と連絡が取れます。天使アイコンのアプリを開いてください。KAMIというフレンドがいるはずです」
神様って……フレンドなの?
言われた通り、端末を取り出す。豆粒みたいな眠そうな天使アイコンがぴょこんと跳ねた。かわいい。
フレンド欄からKAMI ver 7.3βという表記をみつけた。
神様って、β版なんですか?とどうでもいいことを考えながら、言われるがままにタップし、メッセージを送ってみた。
【ピコン♪】
リリア:「あの。突然すみません。私、人間の白石と申します。なんだかリリアさんと入れ替わってしまったようで……元に戻す方法はありますか?」
【ピコン♪】
KAMI ver 7.3β:「白石さん、ご連絡ありがとうございます。確認したところ、魂IDはリリアとして正常登録されています。正常登録されている情報の変更は天界ルール上の禁忌に近いため、すぐの修正は困難と思われます。ITに確認後、再度ご連絡しますね」
天界にもITあるんだ……。
てか、神様のくせに“確認後”って普通に事務フローなんだ。
神様の力ですぐ何とかなるものと勝手に思っていたが、世界の秩序を守るためには神様も勝手に動けないのかもしれない。
【ピコン♪】
KAMI ver 7.3β:「ITより報告ありました。セーフモードの不具合で魂リンクの順番を誤認したとのことです。通常、セーフモードは巻き戻しの余地が少なく、IDの再発行には上層の承認と地上軸の再同期が必要になるので、手続きに長期間を要するとのことでした。修正には約15,000地上日かかる見込みとのことです。担当者は厳重注意中です」
説明されても原因はよく分からないけど、とても時間がかかりそうということだけは分かった。
1地上日って、普通に1日のことでいいのかな。
……15,000日。
端末に電卓アプリが入っているのがみえて、タタっと計算してみた。
えっと……約41年?
頭の中で、小さなスパークがはじけた。
長い!どう考えても長すぎる。
どこにもぶつけることができない思いが、一瞬血の中を駆け抜けた。
「神様によると、今回のエラーはセーフモード中の魂リンク順序認識に問題がでたため?だそうです」
「どうやらすぐには修正できないみたいで、——40年後くらいに戻れるみたいです」
「……」
私の顔が完全に固まる。
気まずい沈黙が流れた。
深呼吸して、周りを見回す。
病室の蛍光灯、時計、ベッドシーツの皺。
もし40年戻れないなら、家族は? 友人は? 仕事は? 結婚は? 夢は? ……どうなるの?
次々に小さな項目が、頭の端にリストアップされては消えていく——。
どれもが簡単には解けないパズルのようだった。
「40年後に戻っても、あなたはおばあちゃんです。それでも戻りたいですか?」
「……いや、たぶん無理ですね」
状況を想像して思わず笑ってしまった。もう笑うしかない。
少し笑ったら、不思議と気持ちが落ち着いた。
多少の怒りや不安はもちろんあるけれど、それだけで人生は終わらない。
「なら、私はこのまま人間として生きます。あなたは天使として——」
「ちょっと待って。それ、神様に交渉してみます」
目の前にいる私が小さく震えているのを見て、答えは自然に出た。
私も、ここで生きる——。
【ピコン♪】
リリア:「まぁ、ミスは誰にでもありますし、起こってしまったことは仕方ないです。リリアさんと話しましたが、このまま入れ替わった姿で第二の人生を歩もうと思います。可能であれば、私を人間の姿で地上に具現化させていただけませんか?名前は変な名前じゃなければ、なんでも大丈夫です」
【ピコン♪】
KAMI ver 7.3β:「承知しました。こちらの不手際で本当に申し訳ございません。では、星野 灯さんとして戸籍等の社会情報に矛盾がないように整備します。お詫びとして、天界端末と天使の力はそのままご使用可能にします。詳しくはリリアに聞いてください」
ともり……いい名前だ。神様、センスある。
名前の響きをかみしめていると——。
パーッ——っと、金色の光が部屋中を包んだ。
空気が震え、胸の奥まで光がしみ込んでいく。
ふわりと足が床に触れた。
「え……神様、仕事早っ」
目を開けると、そこには不安そうな私の顔。
「リリア。私も人間にしてもらえたから、これから一緒に頑張ろうね」
理由は単純だ。私のことは、私が一番よくわかっている。
リリアも突然巻き込まれた出来事に困惑してるはず。——私が支えてあげなきゃ。
「白石さん……ありがとうございます」
「白石さんは、もうあなただよ。これから私は、星野 灯になるみたい。ともりって呼んでね」
そう言うと、私は泣きながら抱きついてきた。
彼女の肩は小さく震えている。
「灯さん、ありがとうございます」
「これからは、さんも敬語もいらないよ……リリア。泣くの、反則だよ」
私の視界も思わず溢れる涙で歪む。
私は何も言わず、私の頭をそっと包んだ——。
読んでくださってありがとうございます!
週1くらいのペースで更新予定です。
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