第95話:『帝都の采配と、軍師の素顔』
乾いた羊皮紙が広げられる音だけが、皇帝ゼノンの執務室に響く。
王都から届いたばかりの密書には、粛清劇の顛末が、生々しいインクの染みとなって綴られていた。数日前の出来事だ。
宰相アルバートと共にその羊皮紙へ目を通した皇帝は、口の端を吊り上げ、満足げに深く頷いた。
「……ふん、見事な手際よ。あの小娘、病床にありながら国一つをひっくり返してみせるとはな」
その声には、隠しきれない誇らしさが滲む。
「はっ。これにて王国の混乱はひとまず収束へ向かうでしょう。残るは東、ロベール伯爵領の残党のみかと」
宰相が感情を見せず淡々と分析すると、皇帝は一つ頷き、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「アルバート。東部方面軍の将兵たちに一時帰郷の許可を出せ。長きにわたる戦、ご苦労であった、と。家族と休息を楽しむがいい。……ただし、警戒は解くな、とも伝えろ」
それは、兵たちの労をねぎらう名君の配慮だった。
「それと、もう一つ」
皇帝の目が、すっと鋭く光る。
「近頃、帝都で『天翼の軍師』の名を騙る不埒者がいると聞いた。憲兵隊に厳命せよ。軍師の名を悪用する者は身分を問わず片っ端から引っ捕らえ、厳罰に処すと。大々的に布告も出せ」
「御意に」
宰相が深く頭を下げると、皇帝は少し照れくさそうに咳払いをして付け加えた。
「……あー、だが、その……街の子供たちが真似て遊ぶ『軍師ごっこ』くらいは、大目に見てやれと通達しておけ。あまり締め付けすぎても窮屈であろう」
その人間味あふれる言葉に、鉄面皮の宰相の口元が、かすかに緩んだ。
そこへ、侍従が静かに新たな来訪を告げる。
「――『ヴェネツィア連合』のマルコと名乗る者が、宰相閣下に面会を、と」
「……ほう。来たか」
報告を聞いた皇帝は、獲物を見つけた獣のように、ニヤリと笑った。
「鼻の利くハイエナどもめ。アルバート、話は聞いてやれ。だが奴らの言い値で取引はするなよ。今の我々は買い手ではない、売り手なのだからな」
新たな時代の外交が、今、静かに幕を開けようとしていた。
◇◆◇
その夜。
月の光が白く降り注ぐテラスで、皇帝は皇妃セレスティーナと二人きりでワインを酌み交わしていた。グラスが触れ合う澄んだ音が、夜の静寂に響く。
「……それにしても、陛下」
皇妃が、憂いを帯びた瞳で切り出した。
「リナはいつまで、あの物々しい扮装を続けねばならないのでしょう。あの子の素顔は、あんなにも愛らしいというのに……」
その言葉に、皇帝はグラスの赤い液体を揺らしながら、意外なことを口にした。
「セレスティーナよ。そのことだがな……あるいはもう、あの大層な扮装は不要やもしれん」
「まあ。……どういうことですの?」
「裏の世界……諜報や暗殺を生業とする者たちの間で、すでに噂が広まっているらしい」
皇帝はグラスを置き、静かに告げた。
「――『天翼の軍師の正体は、幼い少女である』、と」
「!」
皇妃が息をのむ。テーブルクロスを握る指先に、力がこもった。
「今の状況はリナにとって危険だ。敵は彼女の本当の姿を知っているのに、守るべき帝国の衛士がそれを知らない。これでは護衛もままならん」
皇帝は皇妃の目をまっすぐに見つめる。
「であるならば、いっそ……『天翼の軍師はまだ年若い少女である』と公にしてしまう。その上で、国家の威信にかけて彼女の護りを鉄壁にした方が、かえって安全で、動きやすいとは思わんか?」
そして彼は、悪戯っぽく笑った。
「……それに、だ。その方が面白い」
その真意を悟り、皇妃の顔がぱっと輝く。憂いの影は消え、喜びに満ちた光が宿った。
「まあ! なんて素敵なお考えでしょう、陛下! それなら私も、大手を振ってあの子をお茶会に誘えますわね!」
「そういうことだ」
皇帝は満足げに頷いた。
「では、まずグレイグにこの考えを伝えておこう。よく話し合い、事を進めるようにな」
帝国の最高権力者二人の思惑は、一致した。
それはリナを危険から守る最善手であり、何より、もっと彼女を近くに置きたいという、心から生まれた優しい計略。
その頃、帝都の喧騒から遠く離れた場所で、一人の少女がようやく熱も下がり、仲間たちとささやかな祝杯を挙げていた。
そして彼女は、水面下で動き始めたその計画の事を、まだ知らない。
本日はここまで。〜かぐや〜
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【あとがき集】天翼の軍師様は作者に物申したいようです
話題目の後ろの数字は、対応する話数です。本編を先にお読みくださいませ。